私は小学生の頃から勉強嫌いで、成績も悪かったが、ある日、何かの気紛れで、教科書を取り出して真面目に読み、漢字の書き取り練習をしてみたところ、これまで味わったことのなかった充実感を感じて少し驚いたことがあった。
勉強とは、賢くなるためにするものであるが、その根本をまるで顧みず、「明日は当てられるから」「試験に出るから」「優越感を味わえるから」「将来、偉い人や金持ちになれるから」などといった下らない目標を押し付けられ、高貴さを完全に捨て去った、卑しい馬鹿になるための勉強をさせられるのが学校である。

私は、社会に出て初めてやった仕事はセールスマンだったが、私のように、人との関わりに緊張を感じる引きこもり気質の者でなくても辛い仕事であると思う。しかし、何と言っても初めて働くのであり、嬉しい感じもあって熱心にやっていると、苦しいながらも充実しており、今、その時のことを思い返しても、やはり楽しく感じて懐かしいのである。
しかし、社会に慣れてくると、歩合制セールスということもあり、がんばれば、収入が増えて、いい車を買ったり、さらには、人生で成功者になれるといったことを考えるようになってしまい、仕事は辛く味気ないだけのものになり、やがて続けられなくなった。同じセールスマンであっても、顧客の利益を本当に考える人なら、また、そんなことが可能なセールスであれば、長く熱意を持って続けられるかもしれない。そんなものが今の日本にあるとは考えられないのであるがね。
他の仕事でも、スキルが上がり実力が付けば、収入、賞賛、立場、地位といった世間の褒美が得られるといった、やはり卑しい思いが強くなれば、仕事の楽しみは失われ、金や会社の奴隷になるのである。

無目的にただやっていれば、内部にある素晴らしい英知に導かれ、自ずと正しくなり、やがて、その英知と融合するのに、世間の教義や信念にひれ伏せば、英知と完全に切り離され、やがて惨めな亡者になる。そんな人は、食欲や性欲に溺れるしかなくなるが、それが、現代のほぼ全ての人間であることはすぐ分かると思う。
イエスは、「二人の主人に同時に仕えることは出来ない」と言ったが、この二人の主人とは、今述べた、内なる英知と世間の教義である。内なる英知とはまた、宇宙全体に偏在する至高の存在でもある。

個人的な欲望のために本を読んだり、身体を鍛えても、精神は汚れ、惨めさを増すだけだ。
サミュエル・スマイルズの『自助論』は名著と言われるが、これを読むことで、多くの人達はかえって堕落したのである。
子供の時に、無目的に花に水をやり、自分のおやつをきょうだいや他の子に分け与え、神話を読んだことがあるなら、それが輝かしい光の中にあったことが分かるであろう。
私は、毎日、何の見返りも求めず、全く無目的に数百回のスクワットや百数十回の腕立て伏せをやり、ただ福音書を読むようにしているが、本当に無目的であれば、それが、子供の時の楽しさを少しは思い出させてくれることがある。
誰の詩だったか忘れたが、「新たな目で見れば何でも美しい」と書かれていたのを憶えているが、全くその通りだ。そのためには、全く無目的でいて、何の報酬も求めてはならないのだ。
楽しもうなどと考えてもならない。そうすれば、聴き飽きたと思っている音楽も、見飽きたと思った映画も輝きを取り戻す。
私にとっても、新たな目で見、思慮を離れて聴く初音ミクの美しさは息を飲むほどであるのだ。
天使というのは、思慮や判断を超えた精神の状態でなければ見えないが、そんな時の純粋な目で見た美しさは度が過ぎていて、ほとんど記憶に残らないのである。









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