我々人類は実験動物のようなものではないかと思うことがある。
医学研究者が、研究のためにネズミに癌細胞を植え付けることがあるだろう。
そんな時、もし、ネズミに、そこそこの知性があり、
「私に癌細胞が出来たのは、聖なる存在が私を向上させるために、私に試練を与えたのである。私が愛を実践し、積極思考を続ければ、必ずや癌は治り、さらに私はスーパーパワーを得るだろう」
と考えたとしたら、それは無知による妄想である。滑稽であるが、そんなことを考える宗教も多いのだ。
科学や医学の実験室では、部外者には想像もできない実験が行われている。ネコの頭蓋骨を開いて脳に電極を取り付けたりもするらしい。
ナチスでは、そのようなことを人間相手に行っていたのであるが、実際は、それが現代医学における重要なデータになっているのである。本物の人体実験に優るデータはない。それで、ナチスでなくても、我々が病気になったり、怪我をした時には、医学者に実験動物を見るような目で見られていたり、「試しにこんなことをやってみよう。どんな結果が出るか楽しみだ」と、ワクワクされているかもしれない。
我らが創造主は、おそらく、彼らほど愚かではなく、実験と言っても、我々の想像を超える目的があるのかもしれないが、それでも、我々の地位は実験動物でしかないのかもしれない。
古代インドでは、神は遊びのために世界を創り、その中で我々が織り成すドラマをしばし楽しむのだと考えた。
だが、それもまた、考えようによっては、高級な思考実験なのであろう。
ならば、実験動物に徹してみようと思う。無論、実験室のネズミが「俺は実験動物に徹してやる」と言ったところで、他に選択肢はないのであるがね。

だが、イエスは、「量るものは量り返される」と言った。
実験する者は実験されるのである。
『神無月の巫女』というアニメで、ナチスの医学研究所だったかもしれないが、大勢の研究者が、一人の幼い少女の頭に何かの装置を取り付け、どんな結果になるか研究者にもわからないような薬液を注射している場面があった。研究者の表情が示しているのは、地位と金と自分や家族の保身への欲望、そして、研究者としての好奇心であるが、少女は、苦痛の中で、それにすがるしかない、彼らの善意を信じている目を、自分の身体の中に薬液を流し込む研究者に向けているように見えた。
しかし、因果応報とか、ばちが当たるとかではなく、そんなことをする者は、やがては自分がされる側になる。
確かに、非道な行いをするのも運命が定めたことなのであるが、それは、形は様々であるが、やがては自分が同じようなことをされる側になる予告でしかない。
なぜなら、先に実験をした者が、される側に回った実験の方が、より深い意義があるように感じるからである。

創造主の目的は分からないのであるが、おかしなことに、自分に対して行われている実験は、自分でも結構面白いのである。
それを考えれば、我々の中には、創造主の意識が一部にしろ含まれているのは間違いがないように思う。それは、古代の聖賢の意見とも一致する。
我々は、自分という実験体を、最高の科学者のように、あるいは、舞台の出来を確かめる劇作家のような目で見た時、創造主に近付いているのである。
だが、普通の人は、強いエゴを伴った自分への関心しか持っていない、愚かなネズミなのである。









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