このブログで、セレンディピティについて何度か取り上げたが、この言葉も、昔と比べれば、よく知られるようになったと思う。
しかし、この言葉の確定した意味なんてのは決め難いのではないかと思う。
私は、この言葉の深い意味について実感しているであろう化学者(工学博士)から、それは、「意味のある偶然を引き寄せる能力」なのだと言われたのが、この言葉を初めて聞いた時のものだったので、これを覚えている。
それを聞いた数日後、私はその化学者に、セレンディピティとは、「必然を引き起こす意志の性質のこと」だと手紙で書き、その数ヵ月後、あるパーティーで偶然会った彼に、大学で講義するよう言われた。彼は学長になっていたようだ。ただし・・・彼はベロベロに酔っ払って言ったのだがね。

2人の科学技術者がいて、一方は超エリートで、最新の設備や、研究のための膨大な予算を割り当てられているという、恵まれた環境にあった。
一方は、平凡なサラリーマンで、研究予算どころか、単に労働者として雇われていた。それで、彼は、業務時間外に個人的に研究をしていたのだが、画期的な発明をしたのは、彼の方だった。
そんな話はよくある。
アインシュタインも、特許丁の職員をしていた時、特殊相対性理論をはじめとする重要な発表を多くしている。彼の論文に注目していた学者達は、アインシュタインはどこかの大学の教授だと当然のように思っていたが、ただの事務員だと知って驚いたのだった。
そんなことが出来たのは、アインシュタインが物凄く優秀だったからという考えもあろうが、彼は、少なくとも、世間的な意味では優秀な人間ではなかったと思う。
際立って知能指数が高い訳でも、記憶力が良かった訳でもなく、特に、記憶に関しては、本人が苦手だと認めていた。学歴のない2度目の奥さんが楽々と出来るエレベーターの操作にもしり込みして、決して自分でやらなかったくらいだ。
今日でも使われる数学座標や物理学の運動量を考案し、また、最も有名な哲学者の一人でもあるデカルトも、自分が決して最優秀でなかったことを認め、学生の頃、素晴らしく頭の回転が速かったり、抜群の記憶力を持っている級友を羨ましく思ったことを著書に書いていた。

ある研究者が、知能の優秀さと業績とは必ずしも一致しないが、知能指数120以下の成功者はいないと思うと述べていた。しかし、それが事実であっても、IQ120なら、阻害要因を取り除けば、誰でもなれるものではないだろうか。
逆に言えば、高度なIQを持っていても、成功するかどうかは、あまり関係のないことかもしれない。

私は、俗に言われる、エジソンが白熱電球を作るのに、1万回の実験をしたという話を、全く信じていない。
かなりの努力はしたかもしれないが、明らかに誇張と思う。
案外に、楽々とやったのではないかとすら思うし、もし、そうでなくても、本当は苦労する必要はなかったかもしれない。
確かに、大発明、大発見というのは、稀にしかないものであり、湯川秀樹は、それを「天の羽衣が来て撫でる」ほどに稀有なことだと、芸術的な表現をしているが、彼は漢文の素養があったそうである。
その湯川博士が中間子の発想を得たのは夢の中でのことであった。
これもまた、セレンディピティと言えるかもしれない。
「湯川博士は、日頃、熱心に研究していたから、そんな夢を見ることが出来たのだ」
と思う人が多いと思う。確かにそうかもしれないが、それでも、努力は、直接の要因ではないのだ。
ただ、その直接の要因に結び付くために、現代では努力が必要なのだ。
電波工学の世界的権威であった関英男博士は、今後は、勉強しなくても何でも分かるようになるでしょうと言っていたが、それが本当かもしれない。
セレンディピティは、頻繁に、誰にでも起こるようになる。
縄文時代よりも昔の日本で、人々は、現代の科学をはるかに超えた宇宙理論、物質理論、生命理論を有していたということが、楢崎皐月 (ならさきこうげつ)が発見し解読した「カタカムナ文献」にあるという話があるが、別に、その時代に高度な機械文明があった訳ではなく、人々の生活は素朴だった。
カタカムナ文明の真偽はともかくとしても、老子、荘子、あるいは、エマニュエル・スウェーデンボルグらも、超古代の人々が高度な英知を有していたことを説いている。
古代の人々は、セレンディピティのようなものを、をありふれたものとして意識もしなかったのだろう。

セレンディピティとは、つまるところ、直観である。
しかし、現代人は、直観をあまりに軽視し、その何よりも重要な能力を葬ろうとさえしている。

「ミサトさん。この使徒の落下予想地点の根拠はいったい何ですか?」
「勘よ!女の勘」
「そんなアバウトな・・・(><)」
~『新世紀エヴェンゲリオン』より~

こんなものが笑い話になるというのも、勘、あるいは、直観を、無いもの、あるいは、低い能力と我々が見なしているからだろう。
だが、ミサトの勘は当たったのである。

直観の磨き方が書かれた本というのは、改竄されるか、あるいは、重要な部分が隠されるものだ。
本自体が消されることもある。
聖書、仏教の密教経典、カバラー、バガヴァッド・ギーター、老子、古事記などがそうだ。
しかし、著者は、はじめから、それを直観で悟り、わざとおとぎ話のような神話の形にしたのだ。
これらは、無心にただ読めば、自然に読む者に直観能力を与える。
ただし、優れた直観を得ようという欲望があっては、全く駄目なのだ。
だから、子供の頃から親しみのある、民族に伝わる神話を静かに読むのが一番である。

















↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ