宮澤賢治の有名な詩、『雨ニモマケズ』で、最もよく知られている部分は、最初の「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」だと思うが、私が最も感銘を受けるのは、最後の、

ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

である。
特に、賢治が、「皆にでくのぼう(木偶の坊:役立たず)と呼ばれ」るような者になりたいと願っていることだ。
だが、「苦にもされず」のところは、少し抵抗がある。
私は、大いに苦にされたい。
トータルで言うなら、「蔑(さげ)み疎(うと)まれたい」のである。

願うまでもなく、私は役立たずである。それにはいくらか自信も出来てきた。
だが、苦にもされていると思うが、まだ足りない。
自分では自分を蔑み、疎んで(嫌だと思うこと)いるが、社会の中で経験を積み、実践を重ねる中で多少の能力を得ると、なかなか他人からそう思ってもらえなくなる。

だが、私はもっと願うことがある。
それに関して、賢治はどう思っていたのだろうと思う。
彼には当然過ぎることだったかも知れないが、私なら願うことがある。
それは、

ダレモデクノボートヨバズ
クニシナイ

ことだ。
私に誉められても仕方がないので、別に、「ホメラレモセズ」の逆である、誉めようなどとは思わないが、私は、自分以外は、蔑み疎みたくないものだ。

人間は人を見下すことが大好きで、それをする機会があれば、誰もが喜んで誰かを見下す。
まこと、人間は、人を蔑むために生きているようなもので、それが講じ、誰かを蔑み疎む。
それは、改めて言うまでもなく、自分を顧みれば分かることであるが、人間は「自分が見たくないものは見えない」ものなので、分からない場合もあるとは思う。

実際は、人を見下し、馬鹿にし、蔑み、疎むというのは、生まれ付いての性質と共に、生きてきた中での条件付けによって、そんなことをするのである。
適切な言い方をするなら、そうするように、プログラミングされているのである。
だから、本当は、それをする本人には、責任はない。
イエスが言った通り、「彼らは、自分が何をしているか分からない」のである。
しかも、人を馬鹿にし、見下し、蔑むことは快感である。

だが、明らかに、絶対的に言えることは、いかなる相手であろうと、人を見下し、蔑む者に、人物(優れた人)は決していないということだ。
いや、人物どころか、そんな者は絶対的に卑しい者である。
こう言うと、
「しかし、あいつは馬鹿にされても仕方のないやつだ」
「見下されるのは、あいつが悪いのだ。あいつのやることを教えてやろうか?」
「あいつつのだらしなさ、責任感のなさで、俺や皆がどれだけ苦労していると思う?」
などと言うものだろう。
しかし、それは単に、そう言う者の価値観や流儀に合っておらず、合わそうとしない「あいつ」が気に入らないと言っているだけなのだ。

犯罪者や、弱い者を虐げるような者に対してなら、一応、蔑み疎むのも仕方がないとしてみよう。
しかし、そういう訳でもない人を見下すのは、ただ、心が汚れているのである。
そして、私は、出来ることなら、凶悪な犯罪者や極悪非道な人間であっても、見下すことも、蔑むことも、疎むこともせずにいたい。
これは、別に美しい意味ではなく、それが自分であるという、正しい認識をくらましたくないと思うからだ。
そして、やはり、見下し、蔑み、疎む者は、どうしようもなく醜く、出来るなら、自分がそんな醜い者でないことを願うのである。
私は、どんな愚か者よりも、その者を見下し、蔑み、疎む者の方が、卑しく、おぞましく、見苦しく、汚らしいと思う。
だが、そう思うこと自体が、自分も彼らと同等だという事実を表しているのだろう。
それならば、蔑み疎まれることに甘んじることだ。
良寛さんが、自らを「大愚」と呼んだ意味も分かるように思うのである。
そして、もしそのようであることが出来るなら、彼より強力なものはない。
水は、最も低い位置にいて、汚されるままになっている。しかし、それはいかなる場所にでも入り込み、いかなるものも打ち砕くのである。
老子が常に水を褒め称えるのは、そのためである。








  
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