いじめを受け、なすすべなく自殺した男子中学生のことが世間を騒がせている。
しかし、この問題について、はっきりしていることは次の3つのことだけだ。

(1)これまでにも、こういったことは沢山あった。
(2)現在、同じ状況にあり、今日にも自殺しかねない子もいくらでもいる。あなたの周囲にも見つかるだろう。
(3)この状況は、今後もずっと変わらない。

この事件について、有名無名の人達が個人的意見を主張しているが、どれも、何の役にも立たない。
彼らが何を言っても状況は決して変わらない。解決策はあるが、それが実施される可能性は無いからだ。
今後も、多くの子供たちが無念の中で死を選ぶだろう。
それは変えられない。
もし、日本が後百年続くとしても、百年後も変わらず同じことが起こり、その時も、人々は同じような大騒ぎをするのだ。

学校で、いじめはどんなふうに行われているのだろう?

作家の森山風歩さんは、小学生の時、筋ジストロフィーという筋肉がなくなっていく病気にかかり、身体が動かなくなっていった。
それで歩き方がおかしい彼女は、物理的にも全く抵抗できないまま、毎日いじめられたのだが、優等生も、教師がいなくなるといじめに加わるのだった。
教師は黙認するだけでなく、いじめを助長することを平気で言ったようだ。これは、教師のいじめと言って間違いない。
また、太宰治の愛人の娘である作家の太田治子さんは、子供の時、母と二人暮らしでひどく貧しく、バラック(粗末な建物。小屋)に仮住まいし、小学校では、給食費を払うことができなかったせいで、担任の男性教師に無視され続けた。これも、立派な教師のいじめである。
私は、いじめは、生徒より教師の方が好きなのではないかと思っている。

彼女達が通った学校が特殊だったとは、決して思えない。
そして、彼女達は、たまたま自殺しなかったから、いじめに関しては全く問題にされなかったのだ。
学校とは、そんなところなのだ。
誰がいじめっ子というのではない。誰も、そして、教師も皆、いじめをするのだ。
それなのに、どんな対応策があると言うのだろう?

それでも、ささやかな解決法を言うならこうだ。
学校に行くべきでない状況になれば、自主的に家に閉じこもれ。
学校に行かなくて良いのではない。行ってはならないのだ。
それについて、誰にも説明する必要はない。
一番良い態度は、
「特に理由はない。学校には行かない」
だ。これで通用しないなら、本当はおかしなことなのだが、世間はおかしいのだ。
ならば、もし理由を聞かれたら、
「コード094を適用した」
とだけ言い、後は余計なことを言うな。
納得などしてもらう必要はない。
そのコードを示せば、学校に行く必要はなくなるのだ。
根拠と聞かれたら、「ITスペシャリストが語る芸術」というブログに書かれていると言え。
そうだ。私が決めたのだ。

他に有効な方法は決して無いという意味で、上記は正当化される。
学校や教育委員会の無責任振りを糾弾しても意味はない。
最初から、それらは、責任など持っていないのだ。
まず、こういった正しい認識を持つことが、悲劇を避けることにつながる。
あなたは、狼から救ってくれた虎に感謝するだろうか?
そんな馬鹿な認識は持ってはならないと言っているだけである。

尚、上に挙げた森山風歩さんの場合、この方法すら無効だった。
親こそが、最も遠慮なく、彼女をいじめたからだ。つまり、虐待である。
世間的には名士の父親は、フランス人の超絶美人である母親が、風歩さんの髪を掴んで、顔を床に叩き付けるのを、黙って見ていたそうだ。風歩さんは、抵抗する力が無いので、舌を噛まないよう、必死で歯を食いしばるだけだったという。
彼女は、「1人殺していいなら母を、もう1人いいなら父を」と著書の最初に書いているが、誰が責められようか?

『クリスマスツリー』という、1968年のフランス映画で、あるお金持ちの男は、10歳くらいの息子に望むものを何でも買ってやった。それが本物のトラクターでもだ。
少年の叔父だったかもしれないが(申し訳ない。忘れた)、少年の父に警告する。
「そんなに甘やかしたら、ろくでなしになってしまうぞ」
すると、少年の父は言った。
「なれるものなら、どんなろくでなしにでもなって欲しい」
少年は、事故で被爆して白血病に侵され、余命は長くなかったのだ。

何より大切なことは生きることだ。
私は、泥棒に家のものを盗まれても、「そうしないと飢えて死んだ」と言うなら、泥棒を褒める。まして、自分だけでなく、家族も飢え死にから救ったなら、追加で褒章を出したい。
アントニオ猪木さんの事務所に泥棒が入り、250万円の現金が盗まれた時の、猪木さんの怒り方が巣晴らしかった。
「なんで俺のいる時に来ない。俺がいたら500万やる。猪木の事務所は250万しかないのかと思われたらカッコ悪いじゃないか」
私は、これだけで猪木さんが好きになった。どんな名言よりも、これが私の座右の銘だ。見栄を張るなら、こんな風にやるものだ。
さすが、政木和三さんの友人だっただけある。私も金があれば、猪木さんのようでありたい。

死ぬくらいなら、引きこもれば良い。
それがいつまででも良いのだ。
学校に行かなければ、知性や人間性が進歩しないなどと思うなら大誤解だ。逆に、学校に行った場合よりずっと良くなるはずだ。
学校に行くと、バカでろくでなしになると思えば、まあ、間違いないだろう。
私は、中学2年以来、授業を聞いたことはないが、それで困ったことは一度もない。
今は、一流大学を出ていても、基本的な算数が出来ない者がいくらでもいる。
それでも大丈夫なのだが、学校に行かなければ、精神的な逸脱を起こす要因が無くなり、望むなら、学問の本当の基礎を身に付けることが出来るだろう。
熱心に勉強すれば、間違えて一流大卒ばかりの会社にでも入ったら、周りがみんな馬鹿に見えてしまうほどだろう。学校とは、その程度のものだ。

エジソンも、教師にいじめられて8歳で学校をやめたようなものだった。当面は教師であった母親が勉強を教えたが、その後は独学で勉強した。
アインシュタインも、学校では、吃音症(きつおんしょう)の彼を辱める発言を繰り返す教師の指示に従わず、また、学校の有り様にも反発し、教師に何を言われても黙り込んでいた。当然、劣等性であった。大学でも、彼は講義には全く出席せず、独学で勉強した。
ただ、エジソンとアインシュタインは、アメリカで、大学の存在意義に関して対立した。
大学不要を唱えるエジソンに対し、アインシュタインは、大学は教わるところではなく、思考を磨く場所として有益な面はあると認めた。
エジソンの考えは極端であるとは言え、小学校にも居場所が無く、出ていくしかなかった彼の無念を思えば、彼が目の前にいれば、私は、「もちろん、君の言う通りだとも」と言うしかないだろう。

ちょっと話を変えよう。
私は、自分がよく自殺しなかったなあと思う。
しようと計画したことはあった。
ところが、私は、超個性派でありながら、教師には散々な目に遭うも、なぜか、生徒には、あまりいじめられなかった。
皆の前で、大将格の子をボコボコにしたせいかもしれない。まあ、彼とはその後、仲良くなったがね。
だが、今は、時代が違う。
タイマン(一対一)で勝負してくるような、クール(格好いい)ないじめっ子など、今はいない。
不良だってそうだ。今の不良は、老人や身障者相手にしかスゴめないのだ。
昔の不良は、むしろ、真面目な美少女に惚れられたものだ。

昔のお父さんは、息子がいじめられたら、「やられたらやり返せ!」と厳命を下したものだ。
しかし、今、そんなことを言って、息子が本当に従ったら、殺されかねない。
今のいじめっ子は、精神がひどく逸脱していて、自己制御が効かず、状況把握する能力が全くないのだ。

しかしね、いざという時のために、身体を鍛えておくことだ。
武道家の堀辺正史さんの本を読んで、ちっとは喧嘩に備えておくと良いかもしれない。
これは、経験上有効と思う。
別に、本当に喧嘩をしなくても、どこか雰囲気に表れるのだと思う。
それに、いろんな悔しさをぶっつけて、腕立て伏せやスクワットに励むというのは、どこか楽しいし、割に健全だ。
身体は確実に強くなるので、自信も出来るだろう。
だが、やるなら、毎日欠かさずやることだ。
普通の部活のトレーニングよりは、毎日欠かさず、腕立て伏せやスクワットをやる方が、絶対に強くなれる。
栗山天心さんの本に書いてあったが、「大きな銃を持っている大人より、ナイフをいつも磨いている少年の方が不気味だ」というのも、常に何かに努力している者は、やはりどこか違うのである。

自分が磨くべきと思うことを磨けば、学校の勉強など、どうでも良いのだ。
数百冊の著書を持つ、仏教学者のひろさちやさんは、『空海入門』の中で、こんな話を書いておられた。
ひろさんの子供さん達が学校時代、彼らに、「お父さんは学校で成績はどうだった?」と聞かれた時だ。
ひろさんは、「分からない。気にしたことがないから」と答えた。
その理由はこうだ。
「お父さんは、絶対に自分が一番だと思っていた。だから、試験をして、私が一番でないなら、それは試験問題が悪いからに決まってると思っていた」
ひろさんは、子供達にはそう言ったが、その本の中で、実はそれは嘘だと告白している。
だが、なぜ、子供達にそんなことを言ったのかというと、子供達には、たかが学校の成績など、気にして欲しくなかったからだった。(ひろさちやさんは東大卒の大学教授だった)。
人間は、まず、自分の価値観を磨かなければならない。
そのために、偉人の伝記を読んだり、『バガヴァッド・ギーター』のような聖典を、決して大人に教わらずに自分で読むのだ。
そうやって価値観を少し磨けば、世間の価値観が馬鹿げたものだと分かる。
そして、自分が信じる価値観で自分を評価し、その評価が高まるよう励めば良いのであって、学校や世間の評価など気にしてはならない。
私は、会社の評価も気にしたことはなく、会社の評価対象となっている通信講座など絶対にやらなかったし、月に200時間以上残業しても、残業を一切申請せず、業績は一番だったが、評価は最低だった。しかし、それで何か掴めたのだから良かったのだ。
岡本太郎も言ったではないか。
「評価されなくていい。いや、されてたまるか」
太郎は天才でも何でもない。ただ、かなりまともな人間だったのだと思う。













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