人の運命は、生まれてから死ぬまで完全に決まっていて、決して変更できないと言うと、「それなら、皆、好き勝手してもいいのじゃないか?」と言う人達がよくいる。
事実は逆である。
もし、運命が決まっていないなら、皆、好き勝手なことをして、地球は3分で滅んでしまうのである。
人間は、自分で考えているのではなく、何を考えるかも全て決められている。
だから、何を考えても自分の責任ではない。
そう言うと、責任が無いなら、皆、自分勝手なことや悪いことばかり考えるようになるのではないかと言う人がいるだろう。
これも全く逆だ。
もし、人が自由に考えることができるなら、人類全員、3分で発狂するのである。

アメリカには、スーパーマンという架空のヒーローがいる。
無限のパワーを持つ無敵の存在だが、なぜ、彼が世界の帝王になったり、逆に、世界の悪者達を片っ端からやっつけないのだろう?
それは、漫画や映画の制作者達がそう決めたからという理由のみによる。
もし、作家達が、スーパーマンが独裁国家の支配者達を叩きのめして人民を解放するように作品を作れば、スーパーマンはそんなことをせざるを得なくなるが、作品が成り立たなくなってしまうだろう。
もし、現実の世界にスーパーマンがいたらどうなるかというと、世界が存在できない。スーパーマンが存在できる法則と、世界が存在できる法則が両立しないからだ。
もし、神が何らかの理由で、あるいは、無目的にスーパーマンを創造したとしたら、スーパーマンは、その存在を決して知られないようにするだろう。
人の意識が、スーパンーマンの存在を認識することで世界が成り立たなくなるからである。
しかし、認識しなければ、スーパーマンは存在しないことになるのである。

古代から、インドの聖者達は、徹底して、心を破壊する教えを説いてきた。
インドには、3千年をはるかに超える、カーストという厳しい身分制度があり、下級のカーストや、まして、カースト以外の者には、何の希望もなかった。
カーストは1950年に憲法で廃止されたが、実際は現在も存在する。
ところが、カーストを認識する心が消えれば、カーストは存在しないのである。
それしか、貧民が救われる道はなかった。
インドの聖者の教えを学ぶ際には、そのあたりの事情は少し考えても良いと思う。
中国も、インドほどではないが、やはり似たところがある。
日本にも、当然ながら身分差別というものはあったが、日本という国は、伝統的に、支配者が庶民を大切にした。もちろん、自分だけがいい思いをすることしか考えない支配者も少なくはなかったが、古事記の中で、庶民の生活に配慮した天皇家を、支配者達が敬い続けた稀有な国なのである。
だから、日本では、インドのように、心を否定せず、心の成熟を重視するのである。
ただ、現在の日本においては、希望の無い人々も増えてきてしまった。
例えばだ。社会に馴染めず、社会に入っていかなかったり、いったんは入っても、そこから出て、二度と入ろうとしない人は少なくはない。
それは、一般に引きこもりと言われ、英語の辞書にも、hikikomoriという言葉を作らせたほどである。
40歳まで社会から引きこもったら、そこから一般の国民として生きることは不可能である。
そんな人達は、インド式に、心を消す道を選ぶしかないと思う。
ラマナ・マハルシや、ニサルガダッタ・マハラジらは、そんな方法を説いた純粋な聖者で、彼らは、最低限の範囲で、肉体との同一化をするための希薄な心を持っていただけだった。
彼らの教えが必要な人達が多いように思われる。それは日本の伝統に反することではある。









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