7月27日からのロンドンオリンピックや、8月29日からのロンドンパラリンピックを控え、選手達へのインタビューをテレビで見ることが多くなった。
金メダルが有望視される選手であれば「金メダルを目指します」といったことを確実に言うだろう。
また、よほど運が良ければ金メダルもありえない訳ではない選手なら、一応、「メダルを目指します」と言うが、ほぼお約束の質問、「どの色が欲しいですか?」と聞かれたら、「一番いい色が欲しいです」とか、「金以外はいりません」と答えるのもパターン通りだが、これはファンへのサービス精神というよりは、彼らの本音だろう。
そして、メダルは難しいが、やはり幸運のハプニングが起これば僅かな可能性があるのかなという選手達も、「メダルを目指します」と言う。

だが、どんな選手だって、自分の思うままに結果が出せる訳ではない。
結果は、選手や関係者、あるいは、ファンの想いとは全く関係なく起こるものだ。
初めての小説を読む時、結末をあらかじめ聞くか見るかでもしていない限り、ストーリーの最後はどうなるかは分からない。しかし、本の最後の方に書かれたフィナーレはもう決まっている。
それと同じだ。
ほとんどの人が、選手や関係者の努力で結果が変わると信じているが、人間が出来事をコントロールするこは決してできない。ものごとはただ起こるだけだ。
期待を裏切る結果となったとしても、それがあらかじめ決められた運命だったのであり、選手にも関係者にも、何の責任もない。
逆に、予想外の素晴らしい結果になったとしても、単に、それが運命であったというだけのことで、選手が賞賛される理由もない。
こう言うと、「選手の努力を褒め称えるべきだ」と言う者は多いかもしれないが、人は、自分の意志で勤勉になることも怠惰になることも出来ない。
常人に不可能な努力をすることも、それがその者の定められた運命だったのである。
いや、実際は、いかに小さな努力であろうが、それをする運命になければ出来ないのだ。

金メダルを取る運命にあれば、金メダルを取ることは避けられないし、その運命になければ、どれほどの努力をしようとも、金メダルを取ることは決して出来ない。
1984年のロサンゼツスオリンピック男子体操で、個人総合とつり輪で金メダルを取った具志堅幸司選手が、さかんに、「神様が(金メダルを)取らせてくれた」と言っていたが、彼は直観で分かったのだと思う。運命を書く者を神と言うなら、まさに、神が彼に金メダルを取るような運命を用意していたのである。
だが、神がなぜ、彼に金メダルを取る運命を与えたのかという意図は決して分からない。それを人間の浅はかな知恵で推測してはならない。
一方、日本中の期待を背負ってマラソンに出場した(と本人は思っていた)ある女子選手は予想外の惨敗となった時、「日本に帰れないと思った」と言っていた。しかし、そんな結果になるのが彼女の運命だったのであり、彼女に何の責任もないばかりか、その結果に対し、彼女は何の関係もないとすら言える。
全ての選手は、ただ、運命として決められた通りに競技し、決められた通りの結果を表現するだけの、神の操り人形である。
「負けたのは俺の責任だ」と言うなら、むしろ不遜である。神でない人間に、結果を左右する力など、あるわけがない。

だから、結果など気にせず、選手は、それが自分の意志であるかのように、ただ思い切り競技に挑めば良いのである。
自分がどう思おうと、結果は既に決まっているのだ。ならば、競技を楽しまずしてどうするのか?
神が決めた結果は、望むものとは違うかもしれない。しかし、その結果は決して変わらない。なら、試合を楽しむだけのことである。
ファンもまたそうである。
好きな選手の勝利、優勝を望むのは仕方がないことだ。しかし、いかに願おうが、祈ろうが、結果は既に決まっている。それは喜ばしいものかもしれないし、残念なものかもしれないが、結果は、選手が生まれる前から決まっていることで、それが変えられることは絶対にない。ならば、結果を願うのではなく、好きな選手の戦い振りを、良いところも、悪いところも、素直に見守ろうではないか?
そして、結果が良ければ、一瞬喜んで忘れれば良いし、同様に、期待通りの結果でなくても、一瞬は落胆するとしても、すぐに、「まあ、よくやったよ」で忘れれば良い。
それが、自然で晴れ晴れとした、真のスポーツ観戦の仕方、応援の仕方ではないだろうか?









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