かつては、子供が見るような舞台劇やアニメに、生涯の理想の女性像となるようなヒロインがいたかもしれないと思う。
しかし、現代ではそれはもう適わない。
現代のほぼ全ての作品は、利益を上げるために、大人が楽しめるものとして制作されており、ヒロインは理想性ではなく、人間および女としての魅力が優先される。
断言するが、ディズニーだって、本当は、子供のための作品を創ったことなど決して無い。あくまで大人に好まれることを目的としていたからこそ、巨大な利益を上げ続けたのだ。

かつては、宮崎駿監督が、自分の理想の女性像をアニメ映画に登場させていたが、理由はともかく、それはやめたと宣言した。
そのヒロインとは、『天空の城ラピュタ』のシータ、『風の谷のナウシカ』のナウシカ、そして、『ルパン三世 カリオストロの城』のクラリスで、特に、クラリスに関しては、宮崎駿監督が理想の女性像と明言されておられたと思う。
いずれも、作品公開から長年月が経過しているに関わらず、高い人気を誇る。
これらのヒロインは、決して子供向けではなく、恋人にしたいタイプの設定が強い。しかし、理想の女性像としても、悪くはないと思う。
では、なぜ、彼女達が理想的なのだろう。

宮崎監督は、クラリスに関し、ルパンの口を借りて、「空を飛び、湖の水を飲み干させる力を与えてくれる」存在であると言う。
そのような存在は、単なる美少女とは一線を画するだろう。
ただし、それは、決して母性というものでもない。このあたりは誤解が多いと思う。
母性というのは、必要なものも不要なものも、一方的に与える存在である。
だが、理想の女性というのは不要なものは一切与えないのだ。

若き日のルパンが傷付き倒れていた時、幼いクラリスは一杯の水を持ってきた。
彼女には、他に何をする力も無かったということもあるが、必要なものだけを持ってきたのだ。
これが、理想の女性の原型なのである。
17歳になったクラリスは、身を挺してルパンを守り、時には、ルパンの指示に逆らってまでルパンの命を救った。
だが、最後に、ルパンに「ついてくるな」という意思表示をされたら、無理にルパンについていこうとはしなかった。
ルパンも、一瞬はクラリスへの執着を見せる。だが、ルパンがクラリスのためを思ったということもあるが、彼にも、クラリスは必要ではなかったのだ。
言ってみれば、我々が通勤のためにフェラーリが必要でないようなものだ。欲しいとは思うかもしれないが、得るべきではないのである。

では、クラリスのそのような性質とは、一体何なのだろう。
それは、クラリスには自我が無いということなのだ。
自我とは、自分を行為者とみなし、そこから発展して、自分には状況を動かす力があると思い込んでいる心の機能だ。
だから自分は何もしておらず、自分には何もできないと思っているなら自我が無いということだ。
ルパンは、クラリスに「泥棒の力を信じろ」とは言ったが、「自分の力を信じろ」とは決して言わなかった。クラリスは、ただ、泥棒(ルパン)に盗まれれば良かった。
そして、クラリスは素直にそれに従った。
しかし、クラリスはルパンを、「空を飛び、湖の水を飲み干す」スーパーマンにするのである。
クラリスが何をしても、クラリスには自分が行為者だという自覚は全くない。
クラリスは、全く何もしていない。

幼い時のクラリスが、傷付いたルパンに水を持ってきたのは、ルパンを哀れんだからでも、人を助けないといけないという義務感からでもない。
このあたりに誤解がある場合が多いが、クラリスは優しいから素晴らしいのではない。たまたま優しいだけで、優しくなくても素晴らしいのだ。
ここらの誤解が無くならないと、我々は魂を束縛から解放できない。
クラリスの心に、「水を持ってこなくちゃ」という想いが浮かび、それを実行した。それだけのことだ。
そして、自分の行為に対し、良いことをしたという気持ちもなく、ルパンに恩を着せるつもりもない。実際、クラリスはすっかり忘れていたのだ。

ある意味、クラリスは自動人形なのである。
いや、実を言えば、誰もが自動人形なのだ。
ただ、普通の人は、自分の考えや、自分の行いに執着してしまうのだ。そして、執着は妄想を生み、妄想に思い煩うのだ。
しかし、クラリスはそれを全くしない。それをする自我が無いのだ。

幼いクラリスが傷付いたルパンを冷たく見捨てるとか、最後に駄々をこねて無理にルパンについていくという展開もありなのだ。
それでも、クラリスは理想の女性像であり続けただろう。
幼いクラリスが自分を見捨て、警察に連絡したとしても、ルパンは彼女に不思議に惹き付けられるものを感じただろう。
クラリスはただ、運命の定めのままに行動するだけだ。
そして、クラリスをつれていったおかげで、ルパンは落ちぶれ、悲惨を味わったとしても、隣で何も思い煩わない(思い煩っても、すぐに忘れてしまう)クラリスを見て、「これでいいのだ」と深く確信することだろう。実に素敵なことだ。

映画での、去っていくルパンを見送るクラリスの明るい表情が、彼女の全てだ。
決して、泣いたり、寂しがったりはしないのだ。

ただ、有り得ないこととしては、クラリスは、17歳の若さで自我が破壊されていることだ。普通は、もっと歳を取るまで自我を鍛え上げ、個性を強くする必要がある。堅く乾燥した木が燃えやすいのと同様、個性は強くなってこそ、神の火で簡単に燃やし尽くされるのだ。
だが、ラマナ・マハルシは16歳でそれが起こった。しかし、彼の場合は、さらに、3年の沈黙の行を必要としたのだ。
そこは、クラリスが、創作の世界のヒロインだからということでもあるし、また、理想の女性像を示すために、そのように制作される必要があったということだ。彼女の、17歳の美しく清純な姿は、この作品を見る運命にある者のためのものだった。

ドイツの女流作家テア・フォン・ハルボウの『メトロポリス』では、自我を持たないメイド・ロボットが、主人の肥満した富豪を突き飛ばすが、それは、そのロボットに自我が芽生えたのはなく、それが神の定めたシナリオと思えば良い。極めて稀にではあるが、神は不思議な出来事を起こすこともあるのである。













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