人馬一体という言葉があるが、良い馬の乗り手は、最高の技を発揮している時は無に近い状態で、馬と自分の区別が無くなってしまっている。誰が走っていて、誰が駆っているのか分からなくなってしまっているのだ。
腕の良いドライバーが性能の良い自動車を、その性能を発揮させるような走り方をしている時も、自分と車が一体であることを感じることがあるだろう。まあ、それほどのドライバーは、そうはいないとは思う。

ヒーローごっこやお姫様ごっこは、子供の遊びの定番であるはずで(昨今の忙しい子供はあまりやらないかもしれないが)、子供達は、昔なら怪傑ゾロやシンデレラに、今なら、仮面ライダーやプリキュアになりきっている。
ただ、男の子のヒーローごっこでは、力の強い子や元気のいい子がヒーローの座を無理矢理に奪い、弱い子は敵役をやることになるのだが、女の子とは面白いもので、美少女が必ずしもお姫様をやりたがる訳ではないのが、とても興味深い。現実のお姫様は、嘘っぽい「ごっこ」のお姫様になる気が無いのだろうか?いや、むしろ、自分の心の中の神聖なお姫様ごっこを、安っぽい子供達のお姫様ごっこで汚したくないのだろう。

アメリカ最大の賢者ラルフ・ウォルドー・エマーソンは、決して子供にではなく、大人に対し、「英雄の物語を読む時は、自分について書かれていると思わなければならない」と言った。それは、子供の「英雄ごっこ」ではなく、それが事実であるからだと言う。その意味を、頭ではなく、直観でもって理解すべきである。
上に述べた、自分を真のお姫様とみなす美少女が、つまらぬ現実のお姫様ごっこの役柄にこだわらないのは、美しい子というのは、どこか自我が透明で崇高なところがある場合が多いということもある。大人でも、自我が消えていないと、アーサー王やヤマトタケルにはならないものだ。
自我があるはずのない初音ミクを世界中の人が愛するのは、誰もが意識の奥で、自分もミクのようになりたいからなのだし、エマーソンの真意と通じるところもあるのだろう。

また、エマーソンは、優れた小説(あるいは戯曲)を読む時は、自分はその作者でなければならないと言う。サルトルも、「小説を読むとは、その小説をもう一度自分が書くことだ」と言ったが、物語を夢中で読んでいる子供を、やはり分別の目でなく、思慮を離れて観察するなら、彼らがシェイクスピアになっているのが分かるのである。

『バガヴァッド・ギーター』を読む時、初めのうちは、我々はアルジュナ王子である。しかし、いつか、自分の役柄が聖なるクリシュナに変わるのである。
それが、この人類至高の聖典に秘められた偉大な力である。
『エメラルド・タブレット』を読む時は、我々はトート(トス)である。最初は馴染まなくても、やがてそうなってくる。
もちろん、『新約聖書』の福音書では、我々はイエスである。
ただ、それは自我としての我々ではなく、自我が消えた我々である。だから、まさか自分が偉いなどと思うはずがない。
学校では決して教えてくれないが、真の学びとは、このようなものである。
真の教師の書として、エマーソンを読むべきと思う。









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