人類は20万年ほど前から、脳の容量自体に違いはなく、むしろ、古代人類の方が大きかったとも言われる。
ところが、2~3万年ほど前から急に知性が発達し、現代の人類のような文化を有するようになる。
なぜそんなことになったのかは分からないようだ。

2~3万年以上前の人類は猿とさほど変わらなかったのだ。
本能のみで生き、それで不都合はなかった。そのまま、「ゴリラのような力はないが、ちょっと利口な猿の一種」だったかもしれない。
ところが、これは化石を調べて分かることではないが、2~3万年ほど前に自我を持つようになったのだ。
なぜ自我を持つようになったかは分からない。だが、何かあったのだろう。
フロイト博士の考えでは、人類は本能が壊れたらしい。それで、本能を補完するために自我を作り出したという。しかし、自我は自然に立脚したものではなく、幻想のようなものだという。
「唯幻論」で知られる精神分析学者の岸田秀さんは、このフロイトの論を全面的に支持している。

実際は、物質的な形のない高度な生命体が、人類に自我を与えたのである。その高度な生命体は、宇宙人と考えても良いが、とりあえず神としたい。いずれにせよ、我々に分かることではない。
自我を得た人類は、知性を発達させ、物質文明を作るようになる。
というより、神が人類に物質文明を作らせるために自我を与えたのだ。
だが、自我そのものに、さほどの知性があるのではない。それは、現代においてもそうなのである。
自我というのは、宇宙の英知の通用門のようなものだ。そこを通して、神の情報が流入するのだ。
イエスが、「私は門だ」と言ったのはそれを指し、また、「人の子の上に天使が出入りする」と言ったのも同じ意味だ。
だが、自我に宇宙の英知が流入するには条件がある。
それは、自我が透明であることだ。欲望によって自我は曇り、本当の意味での知性は消え、ただの猿知恵が残るだけだ。
だから、欲望のための行い・・・例えば、受験合格とか、兵器開発とか、自分だけ儲かれば良い式のビジネスは全て猿知恵であり、すぐに破綻するのである。
欲望を消し、自我が無になれば、人は本物の知性を発揮するのである。
言い換えれば、イエスに近付くほどに、人間は真の知性を持つのである。

神がなぜ人類に知性を与え、物質文明を築かせたのかは分からない。色々想像する者はいるが、あくまで想像でしかない。
人と神との差は圧倒的であり、たとえ天才と言われる者であっても、神の意図など決して分からない。あなたが犬に餌を与えたところ、腐っているものが混じっているように思ったので、それを犬から取り上げようとしたら、その意図の分からない犬はあなたに向かってうなり、吼え、攻撃的になるだろう。犬には、あなたの意図が分からないからだが、神から見た人なんて、人から見たそんな犬のようなものなのだ。

普通に言う知性というのは自我に含まれるものであり、全く大したものではない。
人の知性というのは、神の知性に従って作業をするためにある。その程度なのだ。
ところが、人の知性を過大評価して何かをすれば、問題が起こり、悲惨な結果になるのである。
古代ギリシャのデルフォイの信託に、「身の程を知れ」という、人間に対する警句があるのはそのためである。

グラハム・ハンコックとエハン・デラヴィが、独自の視点から、人類の不思議な進化の謎について述べている。あまり賛成は出来ないながら、面白いのでご紹介しておく。
尚、『エメラルド・タブレット』が書かれたのが2万年前。『バガヴァッド・ギーター』は1万年前と言われることもある。
私が最も推薦するバガヴァッド・ギーターである、三浦関造氏の翻訳『至高者の歌』がようやくAmazonに在庫が入ったので、お奨めする。









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