楽聖ベートーヴェンの臨終の言葉は、「喝采を、諸君。喜劇は終った」であった。
このブログで何度か書いたが、ダンテの叙事詩の傑作『神曲』の本当の題名は『神聖なる喜劇』で、さらに、ダンテ自身は、単に『喜劇』としていたのだ。
『神曲』という題名は、森鴎外がいわば勝手に付けたものだが、鴎外自身が『神曲』の翻訳をしたのではなく、彼は、アンデルセンの『即興詩人』のドイツ語版を翻訳したのだが(原典はデンマーク語)、『即興詩人』の中で引用されていた『神聖なる喜劇』を『神曲』と訳したのだ。
『神曲』は『神聖なる戯曲』の意味だったのかもしれない。鴎外は、喜劇という言葉に抵抗があって、それを戯曲としたのではないかと思う。

一方、アイルランドの詩聖W.B.イェイツは、「人生が悲劇であると認識した時、人は始めて本当の生を始める」とか言ったらしい。
人生が、喜劇か悲劇かは、見方、考え方の違いに過ぎないような気がするが、この喜劇という言葉には、「どうしようもない悲劇なので、笑うしかない」といった意味が感じられるように思えるのである。

人生が、喜劇か悲劇かは考え方次第であるが、劇であるのは確かだ。
なら、脚本家は神である。
そして、アインシュタインが言ったように、「神は老獪である。ただし、悪意はない」のである。
ところが、アインシュタインは、「神はサイコロ遊びをしない」と言った。
彼には、不確定性理論による、「観測するまで結果は分からない」という考え方を受け入れることができずに、そう言ったのだ。
だが、神はサイコロ遊びをするのだろう。
Akiさん作詞の初音ミクの歌『可能世界のロンド』の中に、「サイコロが転がる 現実が生まれる 世界が動き出す 軈(やが)て答えを探す」という歌詞がある。
ただ、上にも挙げたイェイツは、「神のサイコロは無限の目を持つ」と言った。
神がなぜサイコロを投げるのかは分からない。古代インドでは、それはただのリーラ(遊び)だという。遊びの意図はあるのかもしれない。
しかし、ソクラテスも信条としたデルフォイの信託にあるように、その意図を知ろうとするのは、たかが人間には不遜というものだろう。
我々に出来ることは、アインシュタインが言うように、神に悪意が無いと信じることくらいである。

ところで、イェイツは自分の神秘体験について語っている。
霊的な視野がぱっと開け、全ては良いのだと確信する。壁の絵は語りかけてくる。
これは、ロマン・ロランの言う大洋感情、あるいは、アブラハム・マズローのいう至高体験と同じと思われる。
大洋感情、至高体験とは、万物と一体化する没我の体験であり、イェイツはそのまま、「芸術の目的はエクスタシ(忘我)」であると言った。
およそ、文豪と言われる者の作品には、同じ神秘体験が、一度は必ず描かれている。文豪かどうかの識別のようなものだ。
だが、イェイツは、そんな体験がなぜ起こるのかは分からないと言った。
分からないが、彼は、「人を憎むのをやめたときに起こると思う」と述べていた。

では、その起こし方を教えよう。
それは、人生をせめて喜劇とみなすことだ。
喜劇であるのだから、シナリオがある。神の書いた素晴らしいシナリオだ。
ならば、誰かを恨んだり、妬んだりするのは愚かなことだ。また、自分を誇ったり、嘆いたり、悔やんだりするのも滑稽だ。
ベートーヴェンの喜劇は終ったが、我々の喜劇は続いている。
だが、我々は役者であり、脚本家ではない。与えられた通りに演じるのみだ。いや、演じるしかない。
それは悪いことではない。我々は、何をしても、何の責任もない。
これは、慰めでも何でもない。本当のことだ。
ひろさちやさんが本に書かれていたが、一生、ひきこもりで過ごすのも、仏様の書いたシナリオであり、本人に責任はない。私もそう思う。
別に、怠惰、放埓でなければならないと言っているのではない。ただ、人生は喜劇だと言っただけだ。
そして、自分の思うままに怠惰にも放埓にも、勤勉にもなれない。我々に筋書きは決して決められない。
だが、大金持ちでハーレムの主になるより、はるかに大きな喜びはあるだろう。
文豪達の神秘体験は、それを垣間見させたものである。
尚、まさたかPさんによる、初音ミクの『可能世界のロンド』のビデオクリップは芸術品と思う。収録DVDを下にご紹介する。








  
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