フランスの作家アルベール・カミュのノーベル賞受賞の要因となったとされる短編小説『異邦人』の主人公の青年ムルソーはモデルがいるようだが、非常に興味深い男だ。私は、彼を悟りに近い人間と思うのだ。
25歳のコリン・ウィルソンを、ほとんど一夜で世界的作家にしたエッセイ『アウトサイダー』のはじめの方でも取り上げられた作品である。

精神分析学者の岸田秀さんは、三島由紀夫は精神的な死人で、彼の自我は、三島が自分で構築した人工的な不自然なものであり、それが彼の作品にも現れていると述べていたが、『異邦人』の主人公ムルソーは、どこかそんなことを、私に思い出させた。
作品は、ムルソーの一人称「私」で書かれるが、冒頭の言葉が、「今日、ママが死んだ。いや、昨日だったかもしれない」で始まる。
要は、母親の死は、ムルソーに何の感慨も与えていないのだ。
母親は養護施設に入っていたが、さしたる年齢でも病気でもない。これに関しては、ムルソーの収入が少ないということで世間的に容認されていた。
擁護施設に入る時、母親は泣いたらしいが、きっとムルソーは平気だったろう(せいぜいが、うんざりしただけだろう)。
母親が死んだことで、全ての人がムルソーに気遣いするが、それはムルソーにはただ煩わしく、不快ですらあった。
だが、ムルソーは自分に(同時に読者にだろうが)言う。
「ママのことは、多分、好きだった」

母親の葬儀のために取得できた休暇の間に、ムルソーは、以前の職場で一緒だったチャーミングな女の子とプールで偶然に再開し、そのまま一緒にホテルに行くが、それが、後にムルソーの世間的破滅に繋がる。
ムルソーは、その女の子をよく見て、きれいな娘だと気付く。だが、それだけのことだ。
彼女が、ムルソーに、「結婚してくれる?」と尋ねると、ムルソーは、あっけなく「いいよ」と答える。
しかし、喜ぶ女の子が、「私を愛してる?」と尋ねると、ムルソーは、「分からないけど、多分、愛していない」と答え、彼女を戸惑わせる。

読者は、終始、ムルソーを変な男だと思うことだろう。
有名な作品であるので、多くの評論家や作家が、ムルソーのことを色々に書くが、その趣旨は、「どんな原因で、こんな変な男が出来たのか?」といった感じと思う。
だが、読者の中には、どこかムルソーに好感を感じている人も多いだろうし、どうしても、ムルソーを受け入れられないという人は意外に少ないのではないかと思う。

私にとって、ムルソーは変でも何でもない。彼の思考、行動はよく理解できるし、私も、だいたいが同じことをするかもしれない。ただ、しないかもしれない。
きれいな女の子に結婚してくれと言われても、応じても断っても、同じことだ。
つまり、こういうことだ。
母親の死に対し、ムルソーには何の責任もない。彼女が擁護施設に入ったことに関してもだ。母親は、養護施設で案外に平和に暮らしていたが、そうでないとしても、ムルソーには何も非難されるべきことはないのだ。
その女の子と結婚するかどうかも、する時はするし、しない時はしないという程度のことだ。結婚する宿命なら、結婚すればいい。その結果、幸せになろうが不幸になろうが、それはムルソーに何の関係も責任もない。
これが真実なのだ。
こういったことを、自分でコントロールできると考えることが世間の人の問題なのだが、ムルソーは、完璧ではないながら、普通の人のように考える自我が非常に希薄なのだ。
ムルソーのような人は感じるだろうが、世間の人の方がよほど変なのだ。人生を支配できると考える世間の人が。

ムルソーは、最後は悟りを開いていたのだろう。
彼は、何1つ、自分の思い通りにならなかった。
きっと、だから、彼は魂の束縛を脱したのだと私は思う。
我々も、よく考えれば、人生で、自分の本当の想いを叶えたことなどないに違いない。
それを受け入れることが出来た時、我々は神に近付くのだ。









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