誰でも、人生の選択に迷うことが、あるかもしれない。
ただ、選択には、積極的選択と消極的選択とがあるだろう。
積極的選択とは、2つ(それ以上の場合もあるかもしれないが)の道があるが、本当はどちらもやりたくて悩んでいるというものだ。アメリカのスポーツ選手には、大学で野球とフットボールの両方をやり、いずれのスポーツのプロ球団からも熱心に誘われるという例は少なくないようだ。それで、実際に、プロ野球とプロフットボールの両方の選手をやっているという場合すらあるが、普通はいずれかを選ぶ。
こういった積極的選択が出来る人は、他人からは羨ましいが、本人はいたって深刻なものだろう。
もう1つが、消極的選択といって、2つ(それ以上の場合もあるかもしれないが)の道のどちらも嫌だが、どちらかを選ばないといけないというもので、現実的には多いものだ。
例えば、学校を続けるかやめるか、あるいは、会社を続けるかやめるかといったものだ。やめた場合は、その後のことは全く白紙という場合が多いに違いない。
また、積極と消極が混じったようなものもある。
例えば、学校や会社をやめてミュージシャンになりたいが、成功するかどうか全く分からない世界なので、仕方なく現状を続けるか、思い切ってやってみようかといったものだ。

自分の力で道を切り開いた成功者の多くは、「リスクがあってもやりたいことをやるべし」なんて勇ましいことを言う。自分がたまたま上手くいっただけだということを知らず、自惚れている人だ。
また、上手くいなかった場合に責任を問われるのを恐れてだろうが、「とりあえず現状を続け、その中で新しい道への準備を進めて・・・」といった、毒にも薬にもならないことを言う人も多い。

『美少女戦士セーラームーン』の作者の武内直子さんは、薬剤師になったが、漫画も描いていて、漫画が売れたので、漫画家専業になったという、これも羨ましい人だ。
いまどき珍しく、作品の多くがアニメ化された漫画家のこげどんぼ(以前はコゲどんぼ)さんは、漫画家になることに挫折してOLになったが、イラストも描いていて、そのイラストが人気が出て、アニメのキャラクタデザイン等をやっていると、漫画も描くことになり、漫画家で大成功したが、OLの方も続けているという変わった人だ。
まあ、才能がなければ、彼女達のようなことは出来まい。
では、さしたる才能も無い我々はどうすべきか?
世間には、「才能はあると思えばある」なんて勝手なことを言って、騙して儲けようという者が多いから、気をつけた方が良いのだろう。
才能というのは、確かに誰にでもある。しかし、それがメシの種になるかどうかは別問題なのだ。例えば、天才的な木彫り工の才能があったって、食べていけるまでになれるのは、百人に一人いないのではないかと思う。
ちゃんと楽団に所属している、高度な腕前の演奏家が、年収400万円(あるいはそれ以下)なんてことも珍しくも何ともない。楽器は自前なので、そんな収入では、一人で食べていくのも難しい。たまたま美少女に生まれた演奏家が、一時的に高収入を得ることがあるが、それは極めて稀な例だし、そうなったらなったで、色々大変だ。

さて、どうすればいいかだが、我々は、自分の思うように選択できる訳ではない。
学校や会社をやめるということも関しても、自分の思うままにやめたり、続けたりすることなど出来ないのだ。
私も大学をやめ、仕事もいくつかやめたことがある。その時は自分の意志でやめたり、自分がやめる原因を作ったように思えたが、全てはなりゆきだ。結果は既に決まっていたのである。
優雅に飛んでいるカモメは雑食性で、本当に何でも食べる。ゴミバコはひっくり返して餌を漁るし、虫でもトカゲでも食べる。このあたり、リチャード・バックの『かもめのジョナサン』にも書かれているが、カモメの群にパン屑を投げてやると、カモメ達はそれを争って奪う。しかし、取り逃したかもめが悔しがる訳でも、「私はなんて駄目なんだ」と悩む訳でもない。
我々もカモメの真似をすればいい。
ただし、重要なことがある。以下は、『かもめのジョナサン』には書かれていない。
ジョナサンのように、せっかく取ったパン屑を他のカモメに投げてやるというのも、別に彼の意思ではない。彼は、彼の脳にプログラミングされた通りにそうしたのである。そのプログラミングは、彼が生まれた時に、脳内に作られたのだ。他のカモメには、そんなプログラミングはなかったというだけのことだ。だから、ジョナサンは、他のカモメが自分のようにしないからといって心を乱す必要はなかったのだ。

思慮分別を捨て、なりゆきに任せることだ。
ただ、こう言うと、「なるほど、小賢しい理屈を捨ててこそ、最適な判断が出来るのですね」などと言う人がいる。
そうではない。実際は、なりゆきに任せようが、そうでなかろうが、結果は変わらない。ただ、それなら、なりゆきに任せた方が心が平和だというだけのことだ。
ラマナ・マハルシなら、「誰が迷っているのか?」と言うことだろう。

手塚治虫さんの『ザ・クレーター』という短編集の中にこんなお話がある。
ある青年には、2つの道があり、いずれの道でも成功する自信が彼にはあった。
それで悩んでいると、不思議な雰囲気の紳士が現れ、コインを投げて決めろという。その奇妙な説得力に押され、青年はコインの示すまま、1つの道を選ぶ。
青年は成功するが、やがてひどい状態に追い込まれた。それで、選択を後悔していると、またあの紳士が現れ、一度だけやり直しが出来ると言い、青年はそれに従う。
もう一方の道でも、青年は成功する。しかし、やがては最悪の事態になり、青年はまたも後悔し、青年は2つの世界に分裂してしまった。
問題は青年にある。
どんな事態になろうと、青年は平気でいられたのだ。そして、平気でいようが、悩み苦しもうが、結果に変わりはない。
『バガヴァッド・ギーター』や『荘子』には、そのあたりのことが見事に説明されている。
ただ、『荘子』では、「これが理解出来る者は滅多にいない」と言うが、『バガヴァッド・ギーター』では、宇宙で最も賢い至高神クリシュナが、アホなアルジュナ王子のために、分かるまで教えるのである。

ただ、私は、『バガヴァッド・ギーター』には、続きがあっても良いと思うのだ。
もっとも、『バガヴァッド・ギーター』は、大叙事詩『マハーバーラタ』の一部であるから、『マハーバーラタ』の別の部分にあったりするのかもしれないが、私は知らない。ただ、何を書くべきかは知っている。それはまた、追々教えよう。













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