思い出すだけで赤面したり、叫び声を上げたくなるような恥ずかしいことをした経験なんて誰にでもあるだろう。
作家の吉行淳之介さんが、エッセイの中で、そういったことを、「首がきゅっとすくむような思い出」と表現していたのを、中学生の時に読んだ覚えがあるが、その時でも十分に納得したものだ。
吉行さんは、そんなことがないなら紳士と言えない。そんなことがあることが紳士の証であるようなことを書いていたように思う。

現在、若い人の間で、「痛い」という言葉を、やや独特の意味で使われることがあるが、これは、精神的に苦しいという意味と共に、「恥ずかしい」という意味がかなりあると思う。
辛くて恥ずかしいというのが、「痛い」だと思えば、大体合ってるように思う。
だが、吉行さんの言う、「首がすくむ」と、「痛い」では、やや異なるところがある。
吉行さんの、「首がすくむ」にも、精神的に苦しく、恥ずかしいという意味があるが、苦しく恥ずかしいのは、行為をした自分だ。
しかし、今の流行語の「痛い」は、やっている本人は、辛くも恥ずかしくもなくて、それを見ている者が、行為者を「苦しいやつ」「恥ずかしいやつ」と言う場合が多いように思う。

「痛車(いたしゃ)」というのをご存知だろうか?イタリア車のことではない。
車体(ボンネット、ルーフ、ドア、あるいは窓にまで)などに、アニメ等のキャラクターの絵を描いた車のことだ。アニメのキャラクターといっても、美少女キャラが圧倒的に多い。アニメではないが、初音ミクのものも多く、本物のレーシングカーにも、初音ミクの痛車というのがあるらしい。
痛車を運転していて、痛車にした本人が、精神的に苦しかったり、恥ずかしいと思っているというより、それを見る者が、その車の持ち主を恥ずかしいやつだと思ったり、その車に同乗させられる、家族、友人、恋人が恥ずかしいくて辛いという場合が多いように思う。

ところで、別に痛車ではないが、車のドアを開けた途端、カーオーディオの音が周囲に響き渡るような車がよくある。
あるいは、ドアを開けるまでもなく、開いた窓から、音を撒き散らしている車にも時々出会う。
また、電車の中でよくいるが、イヤホンで音楽を聴いているのが、音が大き過ぎて、音が完全に漏れているような者がいる。
彼らを見ている者は、そんな連中を「痛いやつ」・・・苦しいというより馬鹿なやつ、そして、恥ずかしいやつと思うだろうが、本人はいたって平気なのである。
だが、彼らは、単に、自己中心的なのではない。
彼らにとって、音を撒き散らすのは、もっともっと辛い欲求のためなのだろう。
自分が撒き散らしている音楽により、自分を認めて欲しいという、本当に悲しくも恥ずかしい願望なのだ。
あるポップミュージックを、神聖で高貴なものと捉え、それを聴いている自分が、その音楽の通り、神聖で高貴だと認められるべきだと、本気で思っているのだ。一言で言うなら、「自己陶酔」であるが、恥ずかしい勘違い、つまり、「痛い」自己陶酔だ。
痛車の場合も、そんなところが相当あるように思う。

昔であれば、暴走族とかいって、車やバイクのマフラーに細工して、わざと大きな騒音が響くようにして走り回る者がいた。今でもいるらしい。
そういうのは、「痛い」というより犯罪なのであるが、心情としては、痛い者達と同じで、やはり、自己陶酔がしたいのである。
だが、ある意味、そんな暴走族を、少しは認める(買うという意味)人もいる。自己陶酔のために、少しはリスクを冒しているという点だ。

考えてみれば、現在の若い女性の奇抜な衣装やメイクもまた、痛車に乗るのと同種の自己アピールなのだろう。
そして、実を言えば、人は誰でも痛いことをしているのだ。若者に限らず、中年や老人、あるいは、子供でも。
それに対し、吉行さんの言うように、首がすくむならいいが、恥ずかしい部分を、たとえば、集団効果(みんながやっている)で消そうとしたり、苦しい部分を、手前勝手な論理で正当化することで誤魔化している者が多いだろう。
首がすくむなら、痛い行動をせざるを得ない原因を除いてあげることができる。これは必ずできる。それは、悟りにすらつながる。
しかし、痛いことが平気になれば、救いようがないのである。









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