「新たな目で見れば何でも美しい」という言葉を聞いた時、12歳だった私はすぐにやってみた。すると、その通りだった。美しいし、面白いし、懐かしいし、荘厳ですらある。
12歳だとすぐに出来るのだ。
コリン・ウィルソンが『フランケンシュタインの城』や『右脳の冒険』の中で書いたように、散々考え、実験し、想起連想しながら追及し、結局、決して良い結論を得られなかったことを、12歳なら、何も考えずに一瞬で出来たのである。
言うまでもなく、私が天才であるなんてことはない。誰でも出来ることだ。ただ、優等生には決して出来ないのだ。その訳はある。
大人の場合は、上のウィルソンの本を読んで、問題を認識するのは良いことだ。だが、ウィルソンのやり方は良くない。

毎日見ている部屋のドアや茶碗1つ・・・別にそれらが芸術的であったり、特別な彩色がされている必要はない。しかし、それらを新たな目で見ると、美しさに見とれるのだ。
長年連れ添った妻でも、新たな目で見れば、白雪姫のようだと思っていた昔のように感じるのである。
問題は、新たな目とは何で、どうやればそれを持てるかだ。
上記に挙げた本で、ウィルソンは、ありとあらゆる手段を提供しているし、世界中で多くの人がそれらの本を興味深く読んだだろうが、新たな目を持つ方法を誰も知らない。ウィルソンすらそうだ。
答は、想念を消す。これだけだ。
そして、根深い困難は、人々が、想念を消すということに対して誤った観念を持っていることだ。そして、想念を後生大事に掴み、決して手放さない。
想念を消すことを、怠惰になったり、放埓になったり、白痴になったり、洗脳されることだと、人々は思い込んでいる。
白痴という言葉は、差別語とされ、放送で使うことが出来ないようだ。
しかし、ドストエフスキーに登場するムイシュキン公爵が白痴と呼ばれたのは、純粋無垢な魂のためだ。
白痴の白は無、痴は愚かだ。実は素晴らしい言葉だ。白痴とは、「無という世間的には愚かな賢者」という意味としても良いのである。
その意味では、老子も荘子もラマナ・マハルシもニサルガダッタ・マハラジも素晴らしき白痴だった。
私も白痴を目指すのである。

ZARDの『君がいない』(作詞:坂井泉水)の中に、

ときめきがやすらぎに変われば
刺激というスパイスだって必要かもね

という歌詞がある。
多分、恋人達が相手にちょっと飽きた感じなのだろうが、刺激は必要ない。
刺激は、一瞬は良い効果があるように感じるが、どんどん強い刺激が必要になる。酒や麻薬のようなものだ。行き着く先は醜悪と悲惨だ。
この恋人達は、頭でいろいろ考えるようになってしまったのだ。
大切なことは、想念を消すことだ。
もう1つ、ZARDの『愛が見えない』(作詞:坂井泉水)を取り上げると、

このごろ逢えばケンカばかり 一緒に居すぎかな

という歌詞があるが、これも同様で、この恋人達も、頭で余計なことを考えているのだ。
本当は、いくら一緒に居ても長過ぎるということはない。想念を消せば、常に新鮮である。
坂井泉水さんの詩が芸術としか価値があるのは、迷う中で人が何を求めるのかを感じさせるからである。

想念を消すにはどうすればいいのか・・・というのは、昨晩の記事で秘法を公開したが、簡単なことをちょっと説明する。
想念を消すには、最も根本的な想念である「私」という想念を消せば良い。
私という想念が自我である。
人は、大人になる中で、自我を構築するし、それは必要なことだ。しかし、それが強くなり過ぎるのが問題だ。
自我を育てるのは欲望で、その最も大きなものが食欲と性欲だ。そして、それを満たすための金欲や名誉欲が強くなる。
2万年前に書かれた人類至高の聖典『エメラルド・タブレット』に、「食欲を克服すれば魂は束縛から解放される」とあるが、食欲を克服すれば性欲もわけなく支配できるのである。つまるところ、自我は食欲が育てると考えても良い。
食べ物のことを頭から追い出せば、想念を消す術を見出し、平和が得られる。神秘力も手にする。
水野南北が、数万という人間の鑑定と波乱に満ちた人生の経験そして啓示から、「食が全て」と断言した通りである。
私が初音ミクに惹かれるのも、彼女が食べないゆえに自我を持たないからである。









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