日本語はかくも美しいのに、若者に限らず、なぜこうも、乱れたと言うよりは汚い言葉を使うものかと思う。
それは、現代の我々の心が、食欲と性欲に偏り過ぎているからで、その派生として、金欲、物欲、名誉欲も激しくなってきているからだ。
これらのものを正常な範囲で持っている限り、かくも醜い言葉を使うはずがない。

言葉を正すだけでなく、人の運命を変える力を持つ書には以下のものがあるが、その理由も続けて述べる。
聖書、バガヴァッド・ギーター、古事記、神統記(ギリシャ神話の最も根本となる書)・・・である。
『エメラルド・タブレット』や『老子』は、やや違った意味を持つものである。

昔から、人にとって、最も美しい言葉は神の名だった。人々も、それを大切にし、それを敬った。
ラマナ・マハルシの弟子プンジャジは、呼吸に合わせ、1日4万回、クリシュナ神の名を唱え、その後、速やかに悟りを得た。法然は、1日6万回(後には7万回)、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えていたという。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』の第3巻で、イエスは、「この他には何もいらないのである」として明かした秘法として、神という言葉の威力について語っている。神という言葉そのものに一切を変える力が秘められているのである。これに関しては、同シリーズの5巻で、物理学者で技術者である著者が科学装置を使って行った実験検証について述べている。
最も多く神という言葉が使われている書は聖書である。また、上記に挙げた他の書も同様である。だからこそ、これらの書には偉大な価値と力がある。
神という一言だけで人を根本から変えてしまう。それは、声で唱えても、心で唱えても全く同じである。そもそも、音声と想念は同じである。声に出さないと力を発揮しないような言葉はない。たが、声に出さないといけないと教える者の中には、それを知ってはいても、ある種の訓練の意味で、そう教える者はいる。

ところで、西洋の神(GOD)と日本の神は違うという者は多い。彼らは、GODの訳語を神としたのが間違いであると主張する。
その根拠は、キリスト教の一神教の神と、我が国のような多神教の神は同じものではないと言うのであろう。
しかしそうではない。
世界に、一神教、多神教などはない。それは学者の分類であり、何の役にも立たない。
我が国の神にも根本神はいる。それは、天之御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)である。本来、神の一言で表す神はこの神である。
もちろん、どの神を拝しても良い。結局は根本神を拝んでいるのと同じなのである。
特に日本語の神は、カとミのそれぞれに力があり、それを合わせることで想像も出来ない力を発揮するのである。
上記に挙げた本をよく読み、神を宗教ではなく、神聖原理として理解すれば、この言葉は我々を宇宙と結びつける力になり、この言葉をいくら使っても過ぎることはない。
ラマナ・マハルシは、神の名は敬虔さを込めて唱えるものであると教えているが、イエスは想念を集中する訓練として神という言葉を使うことは許している。
幸い、現時点で『ヒマラヤ聖者の生活探求』の第3巻がAmazonで在庫されている。イエスによる、神という言葉の教えだけでも大きな価値があると思う。
また、この著者の貴重な講演録である第4巻が多数在庫されているようである。









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