「馬鹿と言う者が馬鹿」という言葉は、誰もが一度は言ったことがあるだろうし、少なくとも聞いたことはあるだろう。そして、どこか納得しているのではないかと思う。
これは、精神が幼い時ほど、他人が馬鹿だと感じるものであるから、その段階を早く脱却させようとする戒めや助言なのだろう。
ただ、誰かに「馬鹿」と言われ、その相手に向かって、「馬鹿と言う者が馬鹿だ」と言う時、それは、「俺を馬鹿だと言ったお前が馬鹿だ」と言っているわけだから、結果として、「私は馬鹿だ」と言っていることに気付かないという滑稽さはある。
「俺を馬鹿だと言ったな?馬鹿と言う者が馬鹿だ。つまり、お前は馬鹿だ。しかし、そう言う俺は馬鹿だ。つまり、俺達は両方馬鹿なのだ」
ここまでの結論を引き出せれば、馬鹿は卒業である。

何の映画だったかさっぱり覚えていないが、こんなシーンだけ覚えている。
音楽家の団体(20名くらいだろうか)を前に、兵隊の隊長らしき者が、「構え!」と命ずると、兵士達が音楽家達に向かって銃を構える。今考えると、国家思想に反逆したか何かだろうか?よく分からないがそんなところだったかもしれない。ところが、1人の老音楽家が前に進み出て、「やめろ!やめんか!馬鹿者!」と一喝する。言うまでもなく、彼は自分の命を救いたいのではなく、仲間の音楽家の命や道理を救おうとしていることを描いたのだろう。自分の命を捨てていなければ、こんなことは出来っこない。
そして、彼は兵士達や、号令を与えている隊長、そして、そんな者達を通して、国家に馬鹿と言ったのだ。相手が誰にしろ、馬鹿と言ったのだから、彼も馬鹿なのだろうか?
やはり馬鹿なのだ。「やめろ」と言われて、兵士達もその隊長もやめるわけにはいかない。彼らは義務を果たしているのだし、彼らだって、やらなければ自分達が銃殺だ。
いや、国家だって、何を言われたって、やめることは出来ないのだ。
音楽家達も、馬鹿でないなら、そんな状況になる前になんとかすべきだったのだ。

だが、その映画では、音楽家達も、あの威勢の良い老人も殺されなかった。
ドストエフスキーは、銃殺の直前に恩赦の伝令が来て、間一髪で命拾いしたことがあったらしい。並の人間なら、恐怖のために精神に深いダメージを受けるかもしれないが、彼の精神は強靭だったのだろう。彼は、生の喜びをしみじみ感じる方に行けたようだ。
私も経験がある。ただし、夢の中で。とはいえ、リアルな夢だった。
広場に、仲間のレジスタンス達と一緒に集められ、周囲を、火炎放射器を構えたナチス・ドイツ兵みたいな連中が取り囲んでいた。仲間は若い男が多く、深い痛恨の感情を押し殺した無念さや、死への恐怖と恨みが入り混じった表情が忘れられない。私は、自分がどんな顔をしていたか分からない。恐ろしくはあったが、仲間達の様子を見るだけの冷静さはあったようだと、今なら思う。
だが、私は、兵士達に向かって、あの映画の老人のように、「やめろ!馬鹿者」とは言わなかった。そんなことに何の意味もないことは十分に理解できた。
結局、私達は火炎放射器の炎を浴びせられ殺された。今生では、死刑になっても、火あぶりは多分無いというのがありがたい。
普通は、殺される寸前に目が覚めるものだ。
しかし、私は、殺された後しばらく、目が覚めなかった。そして思った。「死んでも生きている」と。
Winkの『ニュー・ムーンに逢いましょう』という歌(作詞は及川眠子さん)の中の、「生命(いのち)のさざなみが不思議にきらめく」というのが、なかなかその感じを表していると思う。仲間の生命の光、私の生命の光を感じていた。それは、空間という概念ではなく、どこかに帰還するのだ。その精妙な構造まで見えたのだ。
いずれにしろ、死はそんなに悪くはない。
ソクラテスも、死後がどんなものかは知りようがないが、それがどうであっても、悪いはずがないと言ったようだが、大した洞察力である。その通りだ。
『青い鳥』のメーテルリンクも、そのあたりをもっと真剣に考えようと言っていたのである。そして、やはり、死は、少なくとも、世間で言うほど悪いものではないという思いに至った。
だから、死なんか恐れるな。そうすれば、あなたは自由である。









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