私は最近まで、朝、腕振り運動をする時は、東に向かってやっていたが、数日前から、方向にこだわらないことにした。
これは、1つの意識の変革だ。
東を向くというのは、太陽を拝むとか、あるいは、日の神である天照大神を拝礼するという意味があるのではと思う。だが、太陽、および、天照大神への敬愛や思慕と、方向にこだわることは別だろうと思う。
阿弥陀如来を崇拝する者には、西には決して背を向けないという人がいるらしい。西には、阿弥陀如来の国である西方極楽浄土があるからだ。ところが、阿弥陀如来の信者の中に、西を向くのは恐れ多いからという理由で東を向くなどという者もいるのではないだろうか?

無論、天照大神や阿弥陀如来への深い信仰や愛から、自然に、太陽の方向、あるいは、西方を臨むというのであれば良いことである。
そして、イエスやラーマクリシュナが言うように、人にとって最も大切なことは、自分や世間をはるかに超えた至高の英知を愛することで、それを、宗教や信仰では、神を愛するという言葉でシンプルに言い表せるのであるから、やはり、非常に良く、悪いことではない。
しかし、多くの場合、東に礼拝すれば、あるいは、西を拝めばご利益があるという気持ちからであると思う。

黒住宗忠は、天照大神の開運を祈ったという。これは、神への愛からの行いである。だが、ご利益を求めてこれを真似する者が多いかもしれない。
宗忠の礼拝は美しいが、醜い意味での東への礼拝をするくらいなら、まずは自分の心を今一度、よく見るべきだろう。
元々、形は重要ではない。
宗忠が信仰した天照大神は、古事記に登場する女神というだけの意味ではなく、宇宙の根本神という意味があったはずだ。ただ、人は何らかの象徴がないと、心を向けることが難しく、神は、天照大神の姿を示したのだろう。
阿弥陀如来も同様で、別に、大仏様のような姿が、阿弥陀如来の本当の姿ではない。阿弥陀如来は、宇宙全てを照らす知恵と力と慈悲の大光明だ。しかし、仏像や仏画の阿弥陀如来の姿を、阿弥陀如来そのものと思っても、もちろん構わないのだ。
そして、天照大神といい、阿弥陀如来といい、それは、宇宙のあらゆる場所に遍満する存在で、実際は、時間も空間も超え、我々の思考や感覚でどうにも捉えられるものではない。
敢えて言えば、神仏への正しいアクセス経路は、自分の心の奥深くに向かうことである。
だが、こう言えば、「必ず方角は無視しなければいけないのか」と言いだす極端な心を持つ者もいる。一番に捨て去るべきは、このような極端論で、仏教ではそのために、中道ということを教えるのだろう。
本当に重要なことでなければ、どうでも良いのである。
ある地域では、天動説を信じている者も地動説を信じている者もいるが、両者が仲良く暮らしているそうである。昔は、それぞれを主張する者どうしが争い、殺しあいまでしたらしい。重要なことは仲良くすることだ。それが出来れば、天が動こうが、地が動こうが、どうでも良いことだ。科学的にすら、どちらとも言えない。単に重力のバランスの中で、軽い方が重い方の周りを回っているように見えるだけのことである。
カート・ヴォネガットは、「私が知っている、地球上で唯一の規則は、人に優しくすることだ」と言ったが、この重要なことを除けば、後は大抵、どうでもいいことだろう。









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