我が国の決闘の中で、最も知られているものは、宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島の決闘ではないかと思う。
ところで、この巌流島の決闘も含め、剣の道を極めんとする、武蔵の生涯を、奇妙に美化する風潮がある。
武蔵は、13歳の時、初めての決闘を行って相手を殺し、その後、幾たびも決闘を繰り返し全勝したとある。戦国時代であり、武蔵は、戦にも何度も、一平卒(下っ端の兵士)として参加し、「自分より前を走る者はいなかった」と、自分の勇猛さを自画自賛する。
その武蔵の生涯の集大成として書かれたのが、『五輪書』だ。これには、戦いに勝つテクニックや、その心構えが細々と書かれ、身体を張った実践者が書いた生々しい実用性が評価され、海外でも、一部に人気がある。
だが、武蔵の生涯がどれほどのものだったのだろう?
上にも述べたが、それが美化して語られることが多く、武蔵の崇拝者も多いかもしれない。
困ったことに、武蔵の物語は、我々は、冷静に考える前に語られてしまっており、気が付かないうちに崇高なもののように思わされてしまっていることが多いのだ。
その、迷信を覚ますためにも、あえて言い切れば、武蔵の生涯は、あまりに馬鹿げた、悲しくも愚かな修羅の道でしかない。
私は、今、武蔵がいれば、彼もそう言うと確信しているのだ。

武蔵は、小次郎と決闘をした29歳の時以降、その足取りが全く残されていないという。当時、29歳といえば、もうかなりの晩年だ。体力も衰え、1対1の勝負ならともかく、剣豪の誉れ高い武蔵を倒すために、多勢で押し寄せてこられれば、武蔵も自信がなく、こそこそ隠れて過ごすしかなかったのではと思う。
そして、武蔵は安住の地を求め、士官を希望する。だが、有名な剣豪でありながら、武蔵は、どの藩からも拒否される。当然ながら、武蔵は武芸師範の地位を求めたが、武蔵の、実用本位ではあっても、心が無い武芸は関心を持たれなかった。既に戦国の世ではない。武芸は、戦いのものであると共に、心を磨くためのものであるという認識が広まっていた。武蔵は、指揮官も出来ると宣伝したが、武蔵にそんな経験は無く、少し話せば、人を見る目を持つ者が誤魔化されることはない。武蔵に出来ることは、ただ、個人の能力で敵を切るだけだ。
さらに、どの藩も、武蔵の人間性を問題にした。人間として、1つの能力でしかない武芸の力をことさらに誇る武蔵が、人間関係を乱すことは確実と思われた。
だが、数を当たれば、武蔵を採用する藩もついに出た。だが、それまで武蔵を拒絶した藩の見る目は正しかった。武蔵は、過去の自慢話ばかりする、嫌われる惨めな老人だった。
武蔵の本当の修行は、そんな晩年であった。
そして、武蔵も、いくらかものが分かってきた。養子に迎えた息子には、武芸を教えず、学問をさせた。息子は立派な人物となり、藩の要職についたといわれる。

昭和の巌流島の決闘と言われたものに、力道山と木村政彦の決闘があった。1954年のことである。
日本のプロレス王、力道山と、全日本柔道選手権13連覇の無敵の柔道家であった木村政彦の対決は日本中の注目を集めた。木村も当時はプロレスラーであり、決闘とは言っても、あくまでスポーツの試合で、日本ヘビー級王座決定戦として行われた。
この試合についての真実は、諸説あって、本当のことは分からない。しかし、最近も、非常に詳細に書かれた分厚い本が出ており、いまだ、その関心の高さはあるのだろう。
それで、事実らしいことは、この試合は引き分けの約束が出来ていたということだった。大きな利害が絡めば、力道山と木村だけの意志ではどうにもならないことも出てくるだろう。
だが、結果は、力道山が木村を完膚なきまでに叩きのめし、病院送りにしている。なぜそんなことになったか、はっきりしたことは誰にも分からない。木村自身、著書『鬼の柔道』で、当時のことを少し触れており、また、テレビで語ったこともあったと思うが、それも木村の推測でしかない。
木村は、史上最高の柔道家の名誉を失ってしまった。
だが、彼は、後に指導者として素晴らしい働きをし、尊敬されるようになった。
なんだか、木村政彦に、宮本武蔵が重なって感じる。戦いに勝ち続けたことではなく、それを捨て、己を省みた時に、本当の道が見えたのだ。

決闘などというものは、人間のやるものではない。
西洋の騎士道では、実は、決闘においても、大人の余裕を失うのは恥ずべきことで、どこか遊びに感じるところがあるものだ。
力道山と木村政彦の決闘のずっと後、アントニオ猪木は何度もジャイアント馬場に対決を申し入れたが、馬場は全て無視した。もし、馬場が応じたとしたら、また、力道山と木村政彦の時のような馬鹿げたことがくり返されたかもしれない。彼らは武道家ではない。プロスポーツ選手であり、沢山の利害関係の中でビジネスをするプロモーターだ。当然、そうなったはずだ。馬場は、「そんなことは猪木だって分かっているはずだ」とよく言っていたようだ。

スポーツの試合でも、あまりに勝敗にこだわるのは、いかがなものかと思う。
サッカーの試合や、フィギュアスケートの競技大会の報道を見ると、利得を貪り、権威を得ようと血眼になる、浅ましく卑しい修羅の世界しか見えてこない。
我々に大人の余裕、遊び心がまるでなく、猿のように欲望を満たそうとする中で、子供達への影響も深刻なものになっている。
この現実世界に、修正の余地は既に無く、いったん壊すしかない。釈迦やイエスも予言した世界は来るのだろう。だが、恐れることはない。どんな世界でも安全でいることはできるのである。









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