世界中の聖典の多くは神話や伝説で、キリスト教やユダヤ教の『旧約聖書』や、ヒンズー教の『バガヴァッド・ギーター』や『ヴェーダ』はまさにそうである。
ギリシャ神話や北欧神話、ケルト神話なども、その中の物語に基づいた信仰を持つ人々には聖典として扱われる。
『老子』はちょっと変わっていて、論文のような雰囲気もあるが、神秘的な詩で、それは『荘子』もだが、こちらは物語のようなところが多い。『列子』は多くの短い伝説を集めたもので、とても面白く感じる。
仏教の経典の中にも、神話のようなものはある。

これらを、面白いところはあるが、神秘的というよりあまりに突飛で奇想天外なお話と考える人も多い。
しかし、これらの中に至高の英知が秘められていると考える人もいる。

例えばの話であるが、これらのお話は、賢いが普通の人たちが作り上げたのではなく、霊的な存在や、他の星から来た者が書いたとか、あるいは、そのような者に教えられて、選ばれた人間が書いたと考える者もいると思う。
それらの中に、あまりに深く高度な英知を見出すと、そう考えりより他ないのであろう。

ところで、日本では、仏教の経典で10世紀、聖書も5世紀と、翻訳とはいえ、かなりの歴史があり、日本語に馴染んできたと思う。その他のものも、多くの方々の努力で、素晴らしい翻訳を読むことができる。
とはいえ、その国の言葉で書かれたものが最も良いことは間違いがない。
我が国には、『古事記』があり、確かに、日本では、その中のお話はよく知られているのであるが、あまり『古事記』を熱心に読んでいるという人は多くないのではと思う。学校や塾の、国語や日本史の先生ですら、古事記を真面目に読んだことがないという人が多いのではないだろうか。
だが、『古事記』は、『旧約聖書』や『バガヴァッド・ギーター』に劣らないばかりか、それらに優るかもしれない驚くべき英知を秘めたものであり、何より、日本人に馴染みやすいものである。
面白いことに、『古事記』と、『旧約聖書』や『ギリシャ神話』は、偶然にしては似過ぎている部分もあり、それは、昔とはいえ何らかの交流によりお話が伝わったというよりは、ある真理を同じような象徴の中に込めたと考えた方が自然なのである。
外国の方々には、『古事記』を彼らの言葉に訳したものより、やはり、『聖書』や『バガヴァッド・ギーター』、あるいは、『ギリシャ神話』や『易経』などをメインに読むことが薦められるように、我々は、『古事記』をもっとよく読んでも良いかもしれない。
そればかりを期待するのもどうかと思うが、特に、インドや中国には、そこに伝わる聖典の教えを学んだ神秘的、超人的な存在が確かにいる。日本にもいるのかもしれないが、歴史的に言っても、あまりその存在が語られることがなく、むしろ、中国などから来た仙人との交流を語る者の方が多いように思う。水野南北も、仙人から教えを受けたことを明かしているが、やはりそれは中国から来た仙人のように思う。
『古事記』を読む時は、決して、ぞんざいに読み飛ばすのではなく、ヒマラヤに住む大師(悟りを開いた偉大な存在のこと)達が、『バガヴァッド・ギーター』や『ヴェーダ』を読む時のように、あるいは、ユダヤ教のラビ(偉大な教師)達が『タルムード』を読む時のように、一度に数節、一文を一日かけて読み、行間に秘められた英知を、理屈ではなく、内的な直感で感じるのが良いと思う。







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