日本人というのは、誰でも、大なり小なり、視線恐怖症だ。つまり、他人の目を強く気にする。
コケシの目が異様に細いのも、部屋の中で立てて置かれるコケシに見られている感じがしないようにするためと言われる。
日本人なら、目のぱっちり開いた西洋の人形が部屋にあると、気になって落ち着かないものだ。

これは、日本がずっと村社会であり、村の中で仲間外れにされる、いわゆる、村八分に遭うと、生きていけないという事情から来ていると考えられる。村の人に、自分が仲間に相応しくない人間であると思われることは恐ろしいことなので、疑われるようなことをしているのを見られないよう、常に人様の目を気にするようになったのだ。
日本人が、他人と同調しやすく、個性的であることを嫌い、お愛想笑いをして他人の目をかわし、世間を恐がるのも、そんな歴史的な原因があるのだ。

今でも、日本人はチャラチャラした人間関係を作って群れる傾向が強く、その中で、仲間外れにならないよう他人の目を気にするあたりは、昔と全く変わっていない。
一方、クリスチャン(キリスト教徒)である西洋人は、人様の目より、神様の目が恐いのだ。
これは、イエスの教えが歪められて伝わっており、天には、強大で高圧的な神様がいて、人々はその神様にいつも見られていて、神様の意に反したことをすると罰せられると、2千年に渡って教えられているのであるから、彼らが神様を恐れる気持ちは、我々日本人の理解の及ぶところではない。
離婚する際、日本人は親戚や世間に対して肩身の狭い思いをするが、西洋人は、神様に対して言い訳し謝罪する。懺悔して、神様の赦しを得なければならないと思っている人も多いと思う。そんなことをするのは、やはり神様が恐いからなのだ。そして、神様の罰を避けようとするかのように、旦那は慰謝料をたっぷり払い、離婚した後でも、両者共、なるべく良好な人間関係を続けようとするのだ。
精神分析学者の岸田秀氏が指摘していたが、教会での結婚式では、愛の誓いは、結婚相手にするのではなく、神様に対して行うのであるが、考えてみれば奇妙な話である。牧師は「汝、この女を永久に愛することを神に誓うか?」と問うが、我々日本人なら、「別に神に誓わんでも、花嫁に誓えよ」と思うかもしれない。しかし、彼らは、夫や妻への誓いを破ることが、必ずしも恐ろしい訳ではない。しかし、神様への誓いは重く感じるのである。

ともかく、日本人は人様の目が恐い。
そして、それにより、すぐに他人に同調して付和雷同し、個性を殺し、世間を支配する権威に弱く、自分でものを考えずに、世間の教義や信念に従いたがる。良いところは何もない。
まして、過度に他人の目が気になるなら、いろいろ不都合なことも多く、改善すべきであろう。

視線恐怖症の解決法は、2通りに分けて考えないといけない。
それは、自立度合いに拠るのだ。
まだ精神的に幼く、自我がしっかりと確立できていない場合は、まずは鍛えて自立する必要がある。いわゆる、大人になるということだ。ところで、よくある世間のデマであるが、大人になることと性体験などは何の関係もないことを言っておく。
重要なことは、自分のことは自分でできることで、それにより、自力で生きられる自信がつき、それが自立心になる。
学生であっても、年齢に相応しい自立心があれば、他人の目はそう恐くはない。
これはもう、親が甘やかさないことが大切であるが、不幸にして親に甘やかされている場合は、他人の元で鍛える必要がある。その目的なら、学校のクラブ活動が有意義な場合もあるだろう。
ところが、逆に、幼い頃に、親が十分にかまってやらなかった場合も、自我の構築がうまくいっていないことがある。
他にも、成長の過程なんて千差万別で色々な場合があるだろう。
しかし、どんな場合も、鍛える必要は必ずある。自分で困難に打ち勝った経験が強い個性を作り、それで自我が確立するのである。

適当な手段が無ければ、自分で自分に、ある程度厳しい試練を課し、それを達成し、力を付けることで自信を得ることだ。
斎藤一人さんは、中学生の時、論語を千回読んだという話を何かで見たことがある。斎藤さんがどんな子だったか知らないが、それだけやれば、自我が高度に確立し、自信が出来たはずだ。別に論語でなくても、家にあるもので良い。千回とは言わないが、百回読めば良い。ミルトン・エリクソンは、家に聖書と辞書しかなかったが、なぜか辞書を選び、繰り返し読んだそうだ。おそらく、数百回は読んだのではないだろうかと思う。
本でなくても、空手を習うとか、楽器を練習するとかでも良いが、自信が付くよう、そこそこには高いレベルになる必要がある。いずれにしても、他の人に出来ないことが出来るのは自信になる。
そして、やることは自分で決めるのが望ましい。それをやり抜いてこそ、自立心が養えるのだ。

さて、次に、経済的にも自立しているのに、他人の目が異常に気になる場合だ。これは、日本人病と言うしかない。必ず脱却すべきである。
西洋人で、神様の目が異常に気になる場合も同じだ。神様が、どこか遠いところから見ていて、悪いことをしたら罰を与えるなんてのは、言うまでもなく迷信であり、迷妄であるが、クリスチャンの多くには、いまだそんなイメージがあるのだ。神様はどこか遠くにいるのではなく、我々のハートの中にいると考えた方が良いに違いない。イエスも、父なる神は、いつも我々と共にいると言ったはずである。

他人の目に過剰に反応しているのは、言うまでもなく心であり、それは自我と同じである。なら、その自我を大人しくさせないといけない。
自我(心)の反応の仕方に問題があるのだが、自我の自動的、反射的な反応のパターンは、これまで生きてきた中で身に付けたものである。そして、心がなぜそのように反応するのかを知らなければならない。そのためには、自分の心に常にしっかりと気付いていることだ。心が心を見張るのである。それは、まるで、家に盗みに入ろうとしている泥棒を見張るように、注意深く油断なくやらなければならない。
ただし、心の動きに対して、一切の批判や評価をしてはならず、ただそれを冷静に観察するのだ。すると、心は心の正体が分かるようになる。そうすれば、心は大人しくなるのである。
静かになった心は、生命と一体化し、大きく広がる。そんな心は、もはや、他人や、偽りの神を恐れることはない。







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