私が謝辞を述べる時というのは、面倒事を避けるための社交上のことであったり、あるいは、相手に気を使ってのことだ。
本当に感謝したことって、どのくらいあるだろう?多分、ほとんど無い。
世の中には、無理にでも感謝したり、「ありがとう」って言えば言うほど運が良くなるなんて説く人もいるが、私は今は信じない。
ついでに言うと、他人の幸福を願ったこともない。だが、そういったことを薦める人もよくいるようだ。例えば、「あなたに良いことが雪崩のごとく起きますように!」なんてね。
しかし、考えてみてごらんよ。
感謝ってのは、無理にするもんじゃない。人の幸せなんてのも、無理に願うもんじゃない。つまり、無理に愛するもんじゃない。
そういったことをすれば運が良くなるだの、自分も(実際は、「自分が」)幸福になるだのというなら、それは下心であり、卑しいことじゃないか?実際、そんなことをやっている人を見ると、申し訳無いが醜いと思う。かつて、そんなことをやっていた自分も恥ずかしいのだ。

小説家、評論家の澁澤龍彦(しぶさわ たつひこ)さんの何かの本にあったと思うが、未来には男性の性欲が衰える危惧があるが、そんな時には、男はセーラー服を見ながらがんばって欲望を起こさないといけないとか書いてあったが、馬鹿げたことだ(三島由紀夫は本としては賞賛したようだが)。どういっても、性欲って無理に起こすもんじゃないだろう?
それと同じで、感謝だの、他人の幸せを願うことっていうのも、無理にするもんじゃなく、自然に起こるべきものだ。

これは重要なことだ。
性欲や食欲は、無理に起こしたり、あるいは、無理に起こさせることもできる。
実際、性欲や食欲が果てなく増大するものであることを利用した商売は非常に多く、我々は異常なまでに食べたがり、欲情するよう煽られているのである。
だが、感謝の心や隣人愛は、無理に煽って起こさせることはできない。
しかし、その反対の、不満や憎しみなら、いくらでも起こさせることができるのである。それもまた、悪い目的によく使われていることは分かると思う。

大切なことは、お恵みがあるからという下心で、心のこもらない感謝や愛を上っ面で演じるのではなく、不満や憎しみやを「本当」に捨てることだ。
それは難しくても、現実に可能なのだ。
また、食欲や性欲を無理に抑えることは出来ないかもしれないが、煽られることを断固拒否し、それを慎むと、自分の高潔さを少しは認めることが出来るし、外にも恩恵も計り知れない。しかし今は、我々は悲惨な状態にあるのだ。

参考程度に言うと、「20世紀最大の詩人」と言われたノーベル賞作家のW.B.イェイツは、「愛は神の領域で人には理解できない。しかし、憎しみは人の領域であり、それを止めることは出来る」と言った。そして、それを行った時に、不思議なことが起こる。それは、およそ、天才作家と言われる者なら、ほとんど例外なく知っている神秘な体験だ。ドストエフスキーは、「その10分と引き換えに、人生を全部差し出しても良い」と作中の人物に言わせたくらいだ。

食を慎み、不満や憎しみを感じることを拒否する。
そうすれば、自然に感謝し、隣人を愛するようになるかもしれない。その時に、本当に幸運も訪れるだろう。







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