少し前に、品格なんて言葉が流行ったが、品格なんてものは、常日頃考えていること、常日頃の行いそのもので、それは隠せないものだ。
最近は、就職難と言われ、確かにそうなのだろうが、就職を希望する学生は、常日頃、立派に働くことを常に考え、立派に働く人らしい行いをしているのだろうかと思う。そんなことは就職指導でも言われることはなく、就職活動は就職活動に限定したものであるかのような指導をしているのだろうが、そんな学生に、目を惹くような品格があるはずがないだろう。
品格は、常日頃と全く同じであることを忘れてはならない。
モテないという人は、やはり、常日頃、異性が付き合うに相応しいことを考え、行ってはいないのだろう。
人は、人間性を、常に大声で宣伝しているようなものだ。それは、常日頃の行いや考えを大声で宣伝しているということだ。
真言密教には、三密という考え方があると聞く。それは、身(行い)、口(言葉)、意(考え)で、その3つを仏陀と同じにすれば悟りを開いた仏陀になるのである。それは仏陀に限らず、何でも同じだろう。
人気モデルになりたいなら、行い、言葉、考え方を人気モデルに相応しいものにすれば良いし、お金持ちになりたいなら、やはりその3つをお金持ちと同じにすれば良いのだ。人気モデルになってちやほやされたいと思って、そんなイメージをいくら思い浮かべてもそうなるはずがないし、お金持ちになって贅沢するイメージを焼き付けることと、本当にそうなることとは何の関係もない。それなら、人気モデルやお金持ちになることは、あまり割に合うことでないことが分かる。例えば、人気モデルになりたければ、甘いお菓子を食べるのは我慢しなければならないし、友達と遊びに行くのをやめて、レッスンやトレーニングに精を出さないといけない。そう考えると、自分はどうも人気モデルの器でないということが分かると思う。お金持ちだって、その実体を知れば、常日頃をお金持ちと同じにすることは、そんなに良いものではないとすぐに分かるはずだ。

ニートが働けるようになるのに必要なことも同じだ。
身(行い)においては、毎日、夜更かしして遅くに起きているというのを、早寝早起きにしなければならないし、好きな時間に食べているのを、食事の時間を一定にしなければならない。そんな当たり前のことを教えない、ニートからの脱出法を教えている者が多いような気がする。そして、常日頃の言葉や考え方を、ニートらしいものではなく、社会人らしくすれば、ニートでなくなるのは当たり前だ。あくまで「常日頃」である。

ただ、常日頃の身口意を一度に理想的なものにするのは難しい。
真言密教といえば空海だが、空海は、この3つを仏陀に相応しいものにしたので仏陀になった。
だが、彼に続く者は、身、口、意のそれぞれについて、仏陀になろうとした。
例えば、道元は、「ただ座れ」と、身を重視し、法然は、「ただ念仏せよ」と口を、そして、親鸞は師の法然とやや異なり、「仏を信ぜよ」と、意に関することを説いた。
我々も、望みに対し、まずは1つという考え方もあるのではと思う。ただ、あくまで「常日頃」になっていなければならない。
岡田虎二郎は、岡田式静座法を創案したが、「生活しながら静座するようではいけない。静座しながら生活することだ」と言う。常日頃が大切であることを見事に表現していると思う。法然の念仏に関しても「生活しながら念仏してはいけない。念仏しながら生活するのでなければ本物でない」と言う。法然は、1日6万回、「ナムアミダブツ」の念仏を唱えたと言われる。
本物の指導者は、何を教える場合でも、「1日中やれ」と必ず言うのだ。だから本物なのである。岡本太郎の言う、「人生即芸術」の意味も、そこにあるのだろう。







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