有名人の講演会は盛況なものが多い。また、さほど世間で名が通っていなくても、立派な経歴や実績のある人物が、大学や、あるいは、高校、中学などに来て講義をするといったこともある。
ところが、特に、超大物の超有名人の講演や、高校の野球選手達に対する、元プロ野球の一流選手の講義で、それらの講師を崇め過ぎることがあるが、それは問題だ。
もちろん、自然な尊敬を持って真面目に話を聞くのは良いことだが、度を過ぎた崇拝をしてはいけない。特に、1人の人間の思想、哲学に関する部分は、影響され過ぎないよう、中立の立場でいなければならない。あくまで同じ人間であり、いかなる偉大な人物であろうと、人間としての価値は自分と対等であることを忘れてはならない。その人物の全てを学ばなければならないという先入観を持ってはいけない。また、いかに偉大な実績を上げた人物であっても、必ずしも人間として優れているとは限らない。実際、偉大な人物ほど、歳を取ると人間性が平凡な人間以下に堕落していることも多いのである。
そして、本当のところは、偉大な人物に学ぶべきことは、平凡な人物から学ぶべきことと、さほどの違いはないか、あるいは、全く同じである。単に、ちょっと変わったことを学べる可能性があるというだけのことである。
むしろ、普通の人以上の致命的な欠点があることも多く、経験の浅い若い人に教えさせる場合は注意が必要かもしれない。教えてはいけないのではなく、無理に学ばせてはいけないということである。

本当に思慮ある偉大な人間であれば、自分の話を聞いてもらうにあたって、必ずこう言うのである。「私をあまり尊敬しないで下さい」「何も考えずに、私の意見を受け入れないで下さい」と。
イエスや釈迦がたとえ話をしたのは、分かりやすいからではなく、聞く者に考えさせるためだ。いかに真理であっても、何も考えずに鵜呑みにするなら、ただの洗脳である。良いたとえ話は、聞く者が自己本位の考え方をすぐに持ち出すことを止める。それをさらに発展させたのが禅の公案だ。普通に考えても答えが出るはずのない公案は、修行者に考えさせつつ、これまでの習慣化した考え方をさせない。達磨大師が編み出した、実に素晴らしいトレーニングである。

自己開発プログラムには、CD等に録音された教えを何度も繰り返し聞くというものがある。何百回、何千回と、聞けば聞くほど良いという。
しかし、それはまさに洗脳である。それはただ、固定観念を作り、条件反射で反応するだけの心になるだけのことである。解脱や悟りというのは、それらを全て取り去った後に訪れるものだ。
いかに優れた教えであろうが、ただの観念であれば、自我を肥大化させ、特定のものにすがり付いて精神の自在性を失うだけだ。それで作られるのは愚かな人間である。

偉大な人物の教えや偉大な思想、哲学、秘法を学ぶ際は、それで得をしてやろうとか、それで力を得て他人に対して優位に立とうなどといった欲を決して持ってはならない。
老子は、自分は3つの宝を持つと言い、それは、慈愛と倹約と、天下の人の前に立たないことだと言うが、この3つ目の「天下の人の前に立たない」の解釈が難しく、権威者も色々な解説をしているが、本当は、このように、「偉い人になるな」「優越感を持つな」程度の意味と思う。







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