昨日(23日)の朝日新聞の朝刊の教育欄に、プロレスラーの蝶野正洋(ちょうのまさひろ)さんが父親のことを語った記事があった。タイトルは「けんかの理由、聞いてくれた」だ。
蝶野さんが中学2年生の時、友達が隣の学校のグループにボコボコにされ(集団暴行と思われる)、蝶野さんが復讐に乗り込んで乱闘し、相手の1人に大怪我を負わせ補導された。それで父親が呼び出されたのだが、父親は、蝶野さんに、怒らずにけんかの理由を聞いてくれたという。父親は、すでに癌で亡くなられたらしい。
最後に、蝶野さんが父親を誰よりも尊敬していると言ったと書かれていた。
良い話ではあるが、ちょっと困った誤解を生みかねない。
父親が、中学生だった蝶野さんに、怒らずにけんかの理由を聞いたのは、別に彼のためではない。もちろん、多少はあるだろうが、本来の目的は「責任を取るため」だ。怪我をさせた相手の中学生、その親、社会に対してだ。
責任を取るには、正確ないきさつを知る必要があるのだから、怒らずに聞くのは当たり前だ。感情を交えたら、冷静に事態を把握できないではないか?
ひょっとしたら、蝶野さんを取材した記者、朝日新聞、さらには、蝶野さん自身が勘違いしている可能性もある。
現在の日本は、政府まで含め、責任ということをすっかり忘れてしまっているのである。

責任というのは、一番偉い者が取るのである。会社なら社長だし、政府なら総理大臣だ。
オリンポス12神というものが本当にあるなら、そこで何か問題があれば、責任は大神ゼウスが取る。(里中満知子さんの「マンガ ギリシャ神話」で、そこのところが冗談っぽく描かれた場面があり、面白いが、里中さんの立派な見識があってこその冗談になっている)
そして、家庭であれば、父親が一番偉いのであるから、子供がやったことの責任は、当然、全て父親が取るのが当たり前である。蝶野さんの父親は、モーレツ・サラリーマンだったようだが、人間としての常識がしっかりしているところがとても偉いのである。
また、父親は責任として、必要なら子供を厳罰に処しなければならない。それでこそ、責任を果たしたと言えるのである。社会や、そして、子供に対してである。

もし、家庭で父親が尊敬されないとしたら、その父親が、家族の責任を取らないからだ。父親の権威が無くなったと言われて長いが、それが、日本人に責任意識が無くなった証拠である。
会社で社長が尊敬されないとしたら、やはり、会社で起こったことの責任を取らないからだ。そんな社長をテレビ等でよく見るかもしれない。
我が国の総理大臣も全く尊敬されていないが、それも当然であることが分かると思う。

その場所で誰が一番偉いかを見るのに、肩書きはあまり関係がない。責任を取る人、取れる人が一番偉いのである。いくら、なんとか長という肩書きがあっても、責任を取らないなら一番下っ端と同じである。
別にニートでも構わないが、ニートは何の責任も取れないし、取る気もないだろうから、家庭で一番下なのである。そして、歳を取るたびに、そのランクは下がる。小学生の弟や妹がいても、それ以下だ。たとえ30歳、あるいは、40歳や50歳を超えていても、親に責任を取ってもらう立場なのだから、母親よりずっと下なのである。その自覚があれば、ニートでも良い。つまり、父親や母親には絶対服従が当たり前で、そうしているならである。

本物の軍人は、艦隊で一番偉い人なら、軍艦と共に海に沈んだという。全ての責任を自分が取るという意味である。決して、船が愛しいなんて意味じゃあない。部下を死なせたこと、軍艦を破損させたこと、作戦に失敗したこと、更には、敵を殺したことも含め、全ての責任を自覚しているのだ。
イエスは、全人類の責任を取ったのだろう。どう責任を取ったかは我々凡人の知るところではないが、その行為ゆえに、イエスは人類で最も偉大なのである。







↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ