非暴力、不服従主義を唱えたガンジーが、腕力で誰かを懲らしめていたり、ぺこぺこして誰かに従っていても、別に矛盾はない。
しかし、マスコミというのは、ガンジーが派手にストレートパンチでも放っている写真でも撮れれば、「ガンジー、暴力主義に転向」とかいって大きく報道するものなのだろう。
戦争に賛成するはずもない禅僧が、戦いを迷っている武士に、「がんがん戦いなさい」と言っても、おかしなことではないし、実際にそう言った禅の名僧もいた。

中国の古典「荘子」には、無為の教えが説かれている。しかし、およそ、荘子の中に出てくる、神人、至人(最高の境地に達した人間)は、皆、有能で、よく働く。庖丁(ほうてい)という、名料理人は、見事に牛をさばいて見せるなど、無為どころではない。しかし、何の矛盾もない。
ある聖者が、「世俗の仕事などに関わってはならん」と言いつつ、自らは財務長官の仕事を見事にこなしているかもしれない。

私は、子供の時見た、ある英国のテレビドラマで言われたあるセリフが忘れられない。それは、
「攻撃こそ最大の防御なり。そして、最大の攻撃とは無抵抗なり。つまり、何もしないのが一番強いのさ」
である。真理をついていたから覚えているのだろう。
ちなみに、そのドラマの中で、その言葉を言った者は、無抵抗どころか、素晴らしい攻撃振りだった。だが、別に矛盾を感じなかった。

至道無難という禅僧は、「生きながら死人になりはてて、思いのままになずわざぞよき」と言ったようだ。まあ、「生きたまま死人になっちゃえば、やることはみんな良くなる」といった意味だろう。
岡田虎二郎なんて人は、「自分を地下3万キロメートルに埋葬しちゃった気分でやれよ」と言ったものだ。実際は「身を棺桶の中に投じ、地下千万丈に埋了したる心ありて初めて如上の目的に到達するを得べし」と荘厳に言ったのだけれどもね。

これらは、道元が言った、「仏道とは自己を忘れること」ということなのだろう。
自己を忘れ、つまり、自分というものが無ければ、暴力を振るっているようでも暴力を振るっておらず、作為しているようで無為である。責任感を持って熱心に仕事をしているようで彼は何もしていない。
最大の攻撃をしていても彼は無抵抗である。
自己を忘れていれば、全ては自動的にあるべき方向に進む。それは、一見、悪い方に向かっているように見えるかもしれないが、それも必要なことなのだろう。

およそ、この世の優れた教えは全て、自己を忘れるための教えである。
ただ、忘れるためには、一度、自己を確立しなければならない。
生木のうちは燃えにくいが、成熟し乾燥した木はよく燃える。
まずは、強い個性を育てることだ。そのためには、世俗にまみれるのが唯一の方法と思う。社会で磨いた個性が強烈であるほど、自己を忘れることも容易くなる。
さて、そんな訳で、嫌だけど今日も仕事に行こう。







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