私が、肩書きは大学生だが実際はニートだった時、書店でたまたま手にした教育書に「最高の教師は空気のようなものだ」と書かれていたのがずっと忘れられない。
多分、ルドルフ・シュタイナーの本だったと思う。当時私は、シュタイナーのことは全然知らなかった。シュタイナーは、オーストリア帝国(現在のクロアチア)出身の哲学者、神秘思想家で、ゲーテ研究の権威として知られ、また、現代の万能の天才でもあり、芸術、建築、農業、医学などで、現代にも強い影響を与える実績を残している。そして、教育分野では、シュタイナー教育とも呼ばれるシュタイナーの教育論、教育法、教育哲学は、現在でも世界中に信奉者が多くいる。

ところが、英国の著名な作家コリン・ウィルソンが、シュタイナーの評伝の執筆を依頼され、シュタイナーの著作を読み始めたところ、すぐに断りを入れたそうだ(結局、執筆した)。ウィルソン言うところ、シュタイナーの本は、恐ろしく抽象的で、古くなったトーストのようで食えたものでない。まるで信用詐欺にあったようなもので、かつがれているんじゃないかと思わざるをえない・・・という訳だが、私も、シュタイナーの本を読む度に思ったことだ。
道元の「正法眼蔵」を読んでもそう感じるのではないかと思う。だが、こんな話がある。我が国を代表する数学者である岡潔は、さっぱり意味が分からないながら、正法眼蔵を座右の書としていたが、20年ほど経ったある日、一瞬で全て理解できたという。悟りのようなものだろう。

さて、初めに書いたが、「最高の教師とは空気のようなもの」という意味はなかなか分かるものではない。
いかにも、存在感の無い、清浄なだけの教師のように感じるかもしれないが、空気のような教師が体罰を行うこともある。こう言うと、「シュタイナー教育では体罰は禁止されている」と言う人もいるかもしれないが、矛盾は無いのである。
現在は、体罰は厳禁ということになってしまっているが、体罰のない教育なんて成立しないことは、本当は誰でも知っている。しかし、あまりにアホな教師ばかりなので、体罰を認める弊害の方が大き過ぎるということなのだろう。まず、国家の、教員養成の思想や制度が根本的におかしいことは間違いがない。

オールコットの「若草物語」で、末っ子の12歳のエイミーが学校で体罰を受ける話がある。
どんな体罰かというと、手の平を小さな鞭で打つというもので、私はよく憶えていないのだが、エイミーは教師を睨み付けていたかもしれない。
エイミーの母親は学校に抗議し、毅然とした行動を起こしたのだと思う。
だが、場合によっては、母親は体罰を認めたかもしれないと私は思う。体罰が悪いのではなく、悪い体罰だっただけだ。
母親も、「私は必ずしも体罰に否定的ではない」とも言っていたように思う。
「無門関」という禅の公案集の「百丈野狐」という話に、弟子が師に質問し、師が「言ってやるからこっちに来い」と言ったら、いきなり弟子が師の横っ面をぶん殴るというものがある。師は大笑いする。

抗議した母親、師をぶん殴った弟子、空気のような教師の3つが、全て私の中で重なった。
この母親は最上の教師だった。ぶん殴られた師は、「ここにも達磨がいた」と言った。つまり、弟子を最高の教師である達磨と同等に見たのだ。
共に、空気だった。これは、道元言うところの、自己を忘れた者であるということだろう。
この母親は、今のモンスターペアレントとは全く違い、自我が我慢ならんので抗議したというのではない(多少はあったかもしれないが)。弟子は、師が気に入らなくて殴ったのではない。
自我を滅し、自己を忘れると、命の知恵が自在に現れるということだろう。だが、意識ははっきりと覚めていなければならない。意識が蒙昧としていれば、ただの夢遊病だ。
自己を忘れ、命の知恵が現れている教師の体罰は子供の命を膨らませる。だが、握ったままの自己が命の知恵を覆い隠している教師の体罰は、子供の命を損なうのだ。

ところで、記事にも書いた、ウィルソンのシュタイナーの評伝で、ちょっと不思議で面白いことがあったので、私の旧ブログの該当記事のリンクを付けておく。
不思議な出来事が知らせること







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