お嬢様というのは、どうも嫌なものだ。別にお嬢様そのものが嫌いな訳ではなくて、それが、どうしても不幸と悲惨を呼ぶ幻想でしかないからだ。
お嬢様というのは、父親の経済力が前提となる。少なくとも、平均をかなり上回る収入もしくは財力を有する父親(あるいは母親)の娘でなければお嬢様にはなれない。
それだけではなく、親に人間としての高貴さを尊ぶ美徳があり、それを身に付けるよう幼い頃から教育されたのがお嬢様で、単に贅沢に育ったというのではない。

しかし、世の中は諸行無常だ。父親の財力を決定する地位がずっと順調という保証など、たとえいかなる人物であってもあるはずが無い。
そして、没落というのは、いったん始まると、坂を転げ落ちるがごとく加速する。
強力な父親の後ろ盾を失くした時、お嬢様ほど、何の力も無いことを思い知らされるものも無い。
だが、いかなる者も、早いか少し遅いかの違いだけで、凋落を免れた者など、ただの1人もいないのである。

これをマイナス思考というならその通りであるが、世間で生きるには、最悪を想定することが大前提であるほどに重要なのである。
芥川龍之介が「六の宮の姫君」などという短編を書いた理由は分からないが、そんなこの世の悲哀を、憂鬱になるほどに描いてくれている。
この小説の姫君は、まさにお嬢様の中のお嬢様で、世間知らずで純粋無垢。何も望まないが、ただただお父上、お母上がお達者であればそれで不満はなかった。しかし、父がなくなり、母もすぐにその後を追い、乳母と残されると、使用人達は言うことを聞かなくなるだけでなく、家のものは勝手に持ち出し、そもそも給金も払えなくなり、誰もいなくなる。食べていくことも難しくなり、面倒を見てくれそうな殿方がいれば望まれるまま身を任せる。そんな身持ちに落ちぶれては正妻に迎えられることもなく、哀れな身の上となり、貧困と恥辱の中で死ぬしかない。

しかし、不幸があるということは、根本が間違っていたのだ。
結果としての悲惨は、特に大したことではない。
最も間違えていたのは、お嬢様をお嬢様にした父親、母親だ。本来、親が死ぬのは当たり前で、それで娘が不幸になるはずがない。
娘を不幸にしたのは、親の我の心である。そして、それが、一見清らかに見える娘の我の心を育てたのだ。
過ぎた我の心が無ければ不幸など存在しない。
現代は、ごく普通の家の娘でも、表面的には、昔のお嬢様以上かもしれない。これは、良いことというより、不幸が確定しているようなものだ。
だが、もう言っても無駄かもしれないが、食を慎み、それでいて謙虚であれば、不幸になどなりようもないのである。







↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
↓Social Network Service
このエントリーをはてなブックマークに追加