友達は無くて良いし、無い方が良い。いや、有ってはならない。
学校の休み時間は、他の子達が運動場かどこかに行ってしまった後、教室でひとり、ぽつんとしていれば良い。「子供は元気に外で遊べ」などと馬鹿なことを言われて教室を追い出されたら、校舎裏や、どこか人の来そうにない場所でじっと立って、風と日の光、あるいは、雨を感じ、ひっそりと咲く花を眺め、草木を心で愛で(出来れば世話をすればいいが)、空気の中に潜む、あるいは、空を覆う不思議なものを想像してみれば良い。
やたらと、授業や課外活動で、2人組になれだの、グループを作れだのと言われて1人残されても、普通の人間とは精神の色(つまりは波長)が異なるのだから、それで普通だと理解するしかない。
遠足に行って、他の子達のように、群れることをせず、1人でお弁当を食べることになっても、空の果てを目指す者は、どうしたってそんなものなのだ。地球をりんごに見立てた時、その皮のほんのちょっと上あたりの空ではない。青い地球をはるかに見下ろす空だ。無言で飛ぶ準備を進めれば良い(荘子は、そんな自分を鳳凰という鳥に喩えたことがあった)。
古くから伝わっているお話を、他の子達が、教えられる通り、表面的にしか読まなくても、あなたはそうしてはならない。無理に意味を分かろうとする必要はない。いや、分かった気になってはならない。古事記やギリシャ神話は、あなたや、あなたのかつての友人達の物語だし、今でも変わらぬ仲間である。古いお話は、大抵がそうなのだ。そんなに古くなくても、シェイクスピアやアンデルセンは、我々と心が通じ合っていて、自分の心の中にひょっこり現れたりする。
友達ではなくても、親切にしてあげれば良い。だからといって、彼らに何か期待する訳ではないのだけれど、出来ることはしてあげると、自分が賢くなる。あげて困らないものなら、あげたら良い。もったいないと感じるものまであげなくても良いのだけれど、もし、あげてしまえば、身体の中に、その細胞や原子の中に光を集めることが出来る。その光は一生消えずに輝くものだ。魔法の力の源だと思っても良いだろう。
友達がいないと辛い目に遭わされることもあると思うが、そんな時は、出来るだけ静かに息をすることだ。これは神秘的な秘法、秘術だ。猛獣に出遭ったら、死んだふりをしたらいいって聞いたことがあるかもしれない。あの本当の意味は、連中が死んだ人や動物を食べないからじゃない。だって、見たり、匂いをかいだら、活きのいい餌かどうかなんて分かるはずだからね。彼らが寄ってきて、あなたに顔を近付けるのは、あなたの心の音を聞いているのだ。呼吸が幽(かす)かだと、実に美しい心の音なので、彼らはあなたに贈り物をする。動物というのは、種族で1つの魂を持っており、その魂の持つ神秘力を呼び起こす力を与えるのだ。それは何も猛獣ばかりではなく、犬や猫や鳥や虫もそうだ。もちろん、魚もそうであり、魚を食べたことがない人が水辺に来ると、魚が寄ってくることがよくある。実際は、魚は人に釣られたり、食べられることを嫌がるのではなく、むしろ喜ぶのだけれど、敬わずに食べるような人間には何も与えない。
あまり食べず、あまり息をしないと、いよいよ不思議なものが、あなたの回りに姿を現すようになる。アイルランドのイェイツという詩人は、子供の頃のそんな思い出を本に書こうとしたのだけれど、途中でやめてしまった。その原稿は残っているが、ところどころに宝石のように美しい神秘が隠されている。聖母や精霊の少女の美しさは、この20世紀最大の詩人でも言葉に出来ないし(だから書くのをやめたのだろうか)、あるいは、得た光を人間の少女に投影したので、人には過ぎた美しさに輝かせることも出来た。残った原稿は本にされたので(「まだらの鳥」という本)、読んでみてもいいけど、誰でも自分で体験できることだ。
そうすれば、人間とは偉大なものであることも分かると思う。







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