本日でGWも終わり、明日から学校や会社に「行かなければならない」人が多いだろう。
この憂鬱で惨めな気分を一言で表現するなら、「閉塞感」と言えるのではないだろうか?
つまり、閉じ込められて、行き場がなく、広い外が見えない。何か大切なものとの交流が絶たれてしまった・・・そんな感じだ。
英語の地獄(Hell)ってのは、覆い隠されたとか閉じ込められたって意味だから、まさに、世間とは地獄だ。
閑吟集(かんぎんしゅう)という、室町時代の歌謡集に、「なにせうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ」なんて唄があり、大体の意味は、「人生なんて夢なんだから、深刻にならずにメチャメチャにやんなさい」という意味だが、仏教学者のひろさちやさんは、この唄がお好きらしく、真意を言えば、「世間が狂っているのだから、自分も狂えばいい」となるらしい。私も全くそう思う。
岡本太郎流に言えば、「狂ってていい、いや、狂わなければならない!」とでもなろうか。
閉塞感に満ちたところが世間で、それは地獄なのだから、真面目に地獄の亡者してないで、「狂った亡者」になれば良いのだ。
しかし、よく考えると、「狂った世間で狂った者」「地獄の不真面目な亡者」とは、「まともな者」「天使」なのだ。

地獄が「覆い隠されること」「閉じ込められた場所」なら、覆いを取って明らかにし、壁を壊して出て行ってしまうことが狂うことだ。
殺人や暴力、いじめをやる者は、この世で狂ってるんじゃなく、この世という地獄の中では真面目な亡者なんだ。だってそうだろ?彼らは、最大の閉塞感を持った連中ばかりじゃないか?そんな連中をいくら糾弾してみたところで、明日は自分がそんなことをするかもしれないのだ。私は、凶悪な犯罪者を見ていると、それが自分だと感じたものだ。本当は、皆同じではないだろうか?だからこそ、かえって、みんな彼らを罵倒するんだ。自分が彼らに全く似ていないなら、憎しみより哀れみを感じるはずなのだ。

「涼宮ハルヒの憂鬱」で、憂鬱な美少女ハルヒさんが、閉鎖空間を発生させるなんて、著者の谷川流さんの素敵な冗談だ。
ハルヒは、中学時代、ずっと狂ってたのだから、もっと大いに狂いなさいと言いたいところだが、高校生になる頃には、地獄に馴染んできたようだった。小説の感じとは違うかもしれないが、キョンに出会って、またまた派手に狂いだしたのだからいいじゃないかと言いたいところだ。そういえば、今月、2年振りに新刊が出るようだ。さて、どうなるのか。

さて、あなたも真面目な亡者していないで狂えば良い。いや、狂わねばならない。
良い表現が無いのでこう言うが、決して視聴覚障害者を愚弄する意図はないが、「盲人の国では目明きは盲人」だ。我々は、それになることが必要だ。
そして、この世で最高の目明きは、実に、肉体的には見えず、聴こえなかったヘレン・ケラーだった。彼女は、「五感は幻想。純粋観念のみが真理」と言ったのだ。

地獄での正しい狂い方は、殺人や暴力を振るったり、快楽に耽ることではない。それでは、単に「まとも」で、地獄で表彰されちまう。
世間で、美食を広めて人々の心身を損なわせ、自動車を売りまくっていろんな問題を起こし、子供を良い学校に入れるよう煽りまくると、やっぱり狂った世間で賞賛される。
地獄や世間で最高に狂うとは、英知を賞賛し、それに従うことだ。そうすれば、間違いなく、世間では狂人にされる。英知に従えば、飽食、美食にならないし、必要がなければ車に乗らないし(ほとんど無いさ)、学校の成績なんて気にしない。
そして、英知は本当は我々の中にある。
英知を覆い隠すこと、それが本当の地獄だったんだ。
神である本当の自分を閉じ込めてしまうことが地獄だ。
「吾神なり」って、地獄や世間での最高の狂い方で、地獄では逮捕され、世間では呆れられる。
イエスさんみたく、海の上を歩き、嵐を叱って静め、水をワインに変え、食べ物を空間から無限に出したら、やっぱり彼と同じように犯罪者扱いされちまう。イエスさんは「吾キリスト(神人)なり」って言ったのだから。
だから、「吾神なり」と自分に言い聞かせることだ。だが、「だから俺は偉い」なんて思ったら、それでは地獄の亡者と同じだ。
衣食住を意思で出現させられるようになっても、偉くもないともない。そんなの、当たり前でしかない。
閑吟集では、狂い方まで教えていない。壁を壊して飛んでいってしまう方法を教えていない。
それは、自己を神と見ることだ。そこまで自信が持てないとしても、まずは、不可能はないと考えることだ。神に不可能はないのだからね。







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