神話をなくした国は滅ぶと誰かが言ったが、言った人はその訳を理解しているのか、それとも直観的に分かったのかは知らない。しかし、それは本当のことだ。
思想家の吉本隆明(「たかあき」「りゅうめい」いずれも使われる)さんは、「共同幻想論」で、国家が幻想で成り立っていることに気付いたと述べているが、神話と関係付けると、「神話という幻想で、民族としてのアイデンティティー(同一性)を守っている」という意味にもなると思う。そういった1つの主体性があるのだから、フロイトは、民族や国家の精神分析すら出来ると言ったのだろう。(ただ、彼は理論は超一流だが、精神分析という実践は下手だった。それでよく誤解される。)
しかし、そういったことは2番目の理由ではないかと思う。
もっと単純で、もっと重要なことがあるのだ。

国家元首を神として崇めるというのは、善政さえ行われていれば、それで案外、国は栄え、民衆は幸福なものなのだ。
だが、これも常なのだが、元首自体が堕落してしまうのだ。日本のように、元首であった時すら高貴さ、高潔さを持ち続けた日本の天皇というのは、特例中の特例であり、もっと見直してみても良いと思う。ただ、周囲が良くない場合が多かったので誤解されているのだ。

結論を言うと、人間には「崇める」という気持ちが絶対に必要なのだ。
崇めるとは、自我の上位に、自我に絶対的に優るものを置くということだ。自我は王様になってはならないのである。自我は、自分の上に、より強く尊いものを置いた時に制御されているのだ。すると、偉大な人間の側にいれば、その偉人に似てくるように、自我はその尊いものに似てくるのである。
ギリシャ神話や古事記の神様は、必ずしも高潔な性質ばかりを持っているのではない。だが、それでも人は崇め、従うのである。それは時には理不尽である。しかし、神様には、必ず人間に優るところがある。1つは、その神様が司ることでの絶対的な力であり、そして、もう1つが、神様は決して誓いを破らないことだ。神様ですら、掟には従っている。自分で立てた誓いを必ず守るという高貴な掟だ。これは、人には極めて難しいことである。
だから、人は、神様を「崇めないといけない」のではなく、「崇めさせてもらえる」のである。人には、崇めるものが必ず必要なのだ。それが無いと、暴走した自我が、自分や民族を滅ぼすのである。
国家元首は、いかに神と崇められても人間であり、彼自身も、崇める絶対的なものを持たないといけないのだが、それを持たなくなる危険性が高いのが自我の性質だ。そして彼は堕落する。しかし、日本の天皇はそうでなかったのである。きっと、天皇には、何か貴い誓約があるのだろう。それを持つものが神である。我々も、もし神のように誓いを絶対的に護れるなら、神と言って差し支えないと思う。

神は死んではならない。人は崇めるものを持たなくてはならない。
だが、ちょっと楽な話をしよう。
いつの時代でも、若者とは無作法なものだ。若者は道を譲らないし、そもそも、前を見て歩いていない。憤る向きもあるだろうが、あなたも若い頃はそうだったかもしれないのだ。
私も、通勤中に中学生達とすれ違うが、確かにそうだ。
だが、思わず道を譲ってしまうというか、譲らざるを得ない相手がいる。譲るのではなく、譲らせていただくような気持ちだ。
中学生なのだが、ギリシャ神話のアルテミスのような美少女がいるのだ。お前はアルテミスに逢ったことがあるのかと言うなら、あるといっておきたい。彼女がキュンティア(アルテミスの別名。英語のシンシア)なのだ。
私の自我を屈服させる気持ちを起こさせる相手がいるのは偶然ではない。宇宙の英知が仕組んだことであり、その意図を感じ、アルテミスを通し、宇宙の英知を自我の上位に置くことで、私はそれと溶け合い、一体化するのである。だから、奇跡も、この世も私のものなのである。神は神に道を譲る。彼女と私もそうだ。これを、神が神に逢うというのである。







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