「自信を持て」と言われつつ、「謙虚であれ」と言われる。
さらに、「謙虚であれ」と言われつつ、「卑屈になるな」と言われる。
確かにその通りなのかもしれないが、これらに関する世間のさじ加減は独断的で、実際のところ、我々は混乱してしまっている。

だが、誰もが、今、このままで自信を持つべきなのである。
自信があってこそ謙虚でいられるのだ。自信の無い、表面上の謙虚さを卑屈と言い、それは、相手によって露骨に態度を変える。自信の無い者が、弱い相手に見せる傲慢さがその本性である。
人は自信を持つべきだし、誰もが、自信を持つに値するはずなのである。
壮大なる自信の言葉を述べよう。

私は世界の所有者、
七つの星と太陽年の所有者、
シーザーの手腕、プラトンの頭脳の所有者、
主キリストの愛、シェイクスピアの詩の所有者。

これは、アメリカ最大の賢者ラルフ・ウォルドー・エマーソンのエッセイ集「精神について」で、「歴史」と題したエッセイの冒頭に書かれた詩だ。
エマーソンは、「歴史」の中で述べている。
「偉人や英雄について書かれたものを読むとき、自分について書かれていると思わないといけない」
世間に教育されていない子供はみんなそうしていると言う。
福音書は、イエスであるあなたについて弟子達が書いたのであり、「神統記」は、詩聖ヘシオドスがゼウスであるあなたの物語を描いたのだ。
そして、エマーソンの「歴史」や「自己信頼」を読むと、それが紛れもない事実であることが分かる。
ジョセフ・マーフィーは「あなたは不安なしに生きられる」(絶版)で、旧約聖書を読む時、その意味を知りたければ、かつて自分がそれを書いた時のことを思い出せば良いのだと述べている。
シェイクスピアもウェルギリウスも、全て自分が書いたものである。
サルトルも言った。本を読むことは、それをもう一度書くことであると。
ダ・ヴィンチの絵を見た瞬間に自分でそれを描いたのであり、ベートーヴェンを聴く時にはベートーヴェンになっているのだ。

ひろさちやさんは、「空海入門」で、普通の仏教は、仏陀になることを目標とした教えだが、空海の密教は、今すぐ仏陀になって、仏陀として生きる仏教であるという。
ニサルガダッタ・マハラジは言う。「神であることを体験しなさい。体験が一番だ。時間も空間も超えた者。身体も心も超えたものとして振る舞いなさい」
仏陀とは、人のままの仏(如来)であり、キリスト(神人)とは、人のままの神であろう。なら、仏陀が傲慢なはずがないし、キリストが謙虚でないはずがない。
いかに王でも、奴隷の真似をしていれば家来は従わない。王は王らしくあるべきである。
あなたが本当はキリストであっても、キリストらしくなければ神の力は発揮されない。イエスは、それを教えるために、キリストらしく生きる手本を示したのである。それを弟子達が記したのが福音書である。













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