人生を変えるような天啓は、他愛もないような出来事をきっかけとして訪れる。

昔のある高僧は、焚き木が燃えているのを見ていたら、それが「バチッ」と音を立てるのを聞いて悟ったと言われる。
電燈が点くのを見て、不意に天啓を得たという人もいる。
そもそも、お釈迦様が、一説に拠れば、たまたま聞こえてきた、「(琵琶の)弦を締め過ぎれば切れるし、緩め過ぎれば音にならない」といった意味の歌が悟りのきっかけになったといわれる。
明治、大正の偉人、岡田虎二郎は、畑のあぜ道に座ってぼうっと夕陽を眺めていた時に天啓を得たとも言われている。

これは他愛もないこととは言えないかもしれないが、目の前で犬が落雷に打たれて死ぬのを見た時に感じた荘厳な衝撃が人生を変えたという偉人もいた。
また、ある劣等感に取り付かれ、引っ込み思案で自分には何も出来ないと思っていた男が、「俺はなんて駄目なやつなんだ」と言った時、かたわらにいた人が、「君はちっとも駄目じゃない。自分でそう思い込んでいるだけだ」と言うのを聞いて感じるものがあり、数日、その言葉を思い続けることで偉大な賢者に生まれ変わった。
しがない肉体労働者として人生を送るうちに老境に達したある男は、自分と同じような年齢の男を後部座席に乗せた超高級車が通り過ぎるのを見て、「同じ人間なのに、なんて違いなんだ」と思う。しかし、なぜか、自分とその男に本質的な違いは無いという思いが起こる。その後、この肉体労働者だった男は、超高級車の後部座席に座ることになった。

ある平凡な主婦は、朝日の中、夫や子供達が朝食を食べているのを見て、不意に圧倒的な幸福感に襲われて恍惚となる。これは、コリン・ウィルソンが至高体験という状態の事例としてよく述べるものだ。
至高体験は心理学者のマズローが提唱したものだが、作家のロマン・ロランの言う大洋感情と同じものと思われ、万物と自己が一体化したような忘我の状態と言われる。忘我は英語でエクスタシーなので、その状態を簡単にエクスタシーと呼んでも構わないが、単なる興奮状態をエクスタシーと言うのではない。似たところがあるというだけのことだ。尚、W.B.イェイツは、芸術の目的はエクスタシーだと言ったようである。
マズローは、偉大な人間と平凡な人間の唯一の違いは、至高体験を持つかそうでないかだけであると言う。しかし、至高体験は偶然に起こるのを待つしか無いと考えた。
つまり、天啓は、たまたま訪れるものであるということだ。
しかし、コリン・ウィルソンは、至高体験は、誰にでもあるものだし、意図的に起こすことも間違いなく出来ると言う。

谷川流さんの小説「涼宮ハルヒの憂鬱」の中での、ハルヒに訪れたある重要な感情は、谷川さん自身の体験と深く関わるものであろうと想像出来る。
ハルヒは、小学6年生の時、家族に連れられて初めてプロ野球観戦に行き、球場に埋まった満員の観衆を見て、自分のちっぽけさを強烈に感じることになる。その時から、それまでは楽しいと思っていたはずの自分の人生が色褪せて見え、やがてそれを解消したいと考えるに至る。

天啓というのは、割によく訪れるものであるかもしれない。
ただ、それを忘れてしまうか、温め続けて孵化させるかの違いであろう。
それには、心が世俗の喧騒にかき乱されていては駄目で、静かでなければならない。
食や性の欲望、物欲、虚栄心といった、個人的欲望にとりつかれた心は落ち着きが無く、天使のささやきはとどまらない。
そして、天啓を受けた時というのは、皆、何かに驚き、息を呑んでいた、つまり、呼吸は停止していたのだ。
呼吸と心は同じ根っこから出ていると言われる。
偉大な悟りは、深い嘆きの中で、心が死にかけて静まった時に起こるが、幸福な天啓は清らかな心に当たり前に訪れる。心が晴れていれば呼吸も穏やかだからだ。
作為的な呼吸の制御は身に付かない。静かな呼吸が出来るような生き方をすることだ。そうすれば、大切な願いが叶うだろう。







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