ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2021年10月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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怠け者の魔法の使い方

「魔法は存在する」と言ったら、変なヤツだと思われるだろう(笑)。
「魔法の定義の問題だ」と言ったところで、ほとんどの人は、寓話やアニメのイメージの魔法しか思い浮かばないだろう。
しかし、そんな魔法を、敢えて言葉で言えば、
「自分は働かずに幸せになる」
技術と言えると思う。
そして、幸せとは何かというと、良い想いをすることと言って良いと思う。
だから、魔法とは、俗っぽく言えば、
「自分は働かずに良い想いをする」
技術なのである。
軽薄な感じがするかもしれないが、大体、合っていると思う。
そして、私にとって、魔法のマスター、あるいは、魔法の師匠は、会ったことはないが、俳優だった丹波哲郎さんだ。

丹波さんは、戦争中、二等兵(最下級の兵隊)だった時、他の二等兵のように、上官の服の洗濯みたいなことはせず、その他のことも、あまりにも何もしないので、「何も出来ないやつ」として、何もしなくて良い暇な農場に送られ、終戦までのんびり平和に過ごした。その間も、わけあって、現地の女の子にモテまくったり、良い想いばかりしたようだ。
また、丹波さんは、サラリーマン時代は、本当に全く仕事をせず、出社と同時に遊びに行った。それでも、3年、給料をもらっていたという。
まあ、結果、会社はクビになったが、失業中、ゴロゴロしている時、友人に「怠け者でも務まる仕事はないか?」と言ったら、「それは俳優くらいのもんだろう」と言われ、「じゃあ、俳優だ」と俳優養成学校に入り、それで俳優になったらしい。
素人ながら、私は、丹波さんの演技がうまいとは思わない。はっきり言って大根と思うが、存在感は凄いのではないかと思う。

では、そんな丹波哲郎さんの魔法の神髄とは何か?
それは、本人が著書で「こだわらないこと」と明確に述べている。
「こだわらない」とは「執着しないこと」とも言えるが、具体的に、どんな態度が「こだわらない」「執着しない」と言えるだろう?
それが分かれば、丹波哲郎さんのように大成功するかどうかは分からないが、あなたも、丹波さんのように、良い想いが出来る。
これは、丹波さんを見習って、いつも良い想いばかりしている私が確信している。

「こだわる」という言葉には、良い意味もあるから難しい。
例えば、料理人が味にこだわるといった場合である。こんなこだわりは、あって然るべきかもしれない。
そこで、「こだわらない」という言葉を、もっと明確にしないといけない。
実は、「こだわらない」とは「欲張らない」ということなのだ。
給料が安過ぎてどうにもならないのならともかく、もっと欲しいとは思うが、十分やっていけるなら、満足することだ。
そういう、「欲張らない」ことを、「こだわらない」と言うのだ。
難しく言えば「足るを知る」だ。
ところで、「こだわらない」について、もう1つ、大切なことがある。
それは、「面子(めんつ)」を持たないことだ。
SF映画『スタートレック』に、こんな場面があった。
宇宙船USSエンタープライズは、ジェームズ・カークが長く船長を務めたが、カークが提督となって引退した後は、ミスター・スポックが船長になっていた。
だが、ある極めて難しい任務にUSSエンタープライズが挑む時、スポックは、カークに船長に戻るよう言うが、カークは、スポックの気持ちを思いやり、やや言葉を詰まらせた。
その時、スポックは言ったのである。
「バルカン星人に面子などないのです。より相応しい者がその役につくのが当然です」
バルカン星人は、運を呼ぶことについても、超論理的なのだ。

なぜ、「欲張らず」「面子を持たない」と運が良くなるかというと、丹波さんが言うには、「守護霊が守り易いから」だそうだ。
宗教家の五井昌久さんは、「上位の神には、なかなか願いが届かないので、自分の守護霊や守護神に守ってもらう方が良い」と、著書で述べられていた。
また、政木和三さんも、「力を付けるには、自分の生命体(第一生命体)を丸い円満なものとし、強い第二生命体、第三生命体を呼ぶことだ」と言われていた。
欲張らず、面子を持たないことで、高次の力が守り易い円満な人格になり、守護霊、守護神と言うかはともかく、ごく身近にいる神と和する(親しくする)ことが出来るのであると思う。








2種類の賢い人

今日(10月31日)はハロウィンで、ハロウィンとは何かと言うと、一般的認知ではオバケの仮装をする日だ(笑)。
ハロウィンはキリスト教とは関係がない。
最も簡単には、ハロウィンはケルト人の大晦日(1年の終わり。年の暮れ)である。
ところが、ケルト人とは何かという定義は難しい。
ところが、ところが(笑)、ケルト文化という確固としたものがあり、自分はケルト人だという強いアイデンティティーを持つ人は少なくないと思う。
そして、ケルト文学、ケルト音楽、ケルト神話、その他ケルト式の様々な工芸、芸術などのケルト文化があり、それらは愛好者が多く、実のところ、私も大好きである。まあ、あまり詳しくはないが。

私がハロウィンと聞いて、すぐ思い出すのは、レアード・コーニクの小説『白い家の少女』(1974)で、1977年に、当時14歳だったジョディ・フォスターの主演で、この小説にほぼ忠実に、カナダ、フランス、アメリカの合作映画が作られ、1977年に公開されている。
『白い家の少女』は、小説も映画も、リンという名の少女(映画ではジョディ・フォスターが演じた)の14歳の誕生日から始まるが、それが、10月31日のハロウィンの日だった。
イギリスから、作家の父親と共に移住してきたリンは、ハロウィンの習慣を知らなかった。
まあ、イギリスといい、アメリカ、その他の国といい、ハロウィンのイベントやパーティーの習慣のある場所もない場所もあり、当時は、インターネットなどない、世界事情はテレビや書籍でしか知ることが出来なかった時代である。

リンは、美少女という以外は、外見は普通だが、普通の少女・・・いや、少年も含め、普通の14歳とはかなり異なるところがあった。
それは、彼女が聡明だということだが、それは、学校の成績が良いなどといった意味ではなく、もっと根本的な意味でだ。
高名な作家であるリンの父は、高い知性を持っていたと思われるが、リンも遺伝的に頭が良いのだろう。
だが、それだけではない。
リンは学校に行っていなかった。
それは、父親がそうしたのだと思われるが、父親は、リンにその理由を話し、リンもそれを十分に納得していた。
リンのように賢い子にとって、学校は、害悪でしかない。
いや、別に賢い子でなくても、学校は、害の部分の方が大きいのだが、賢くない子にとっては、学校に行くのは、やむを得ないことかもしれない。
そして、リンの父親は、リンに学校が必要ないということ以上に、リンが学校に穢されて欲しくなかったのだろうし、今や、リン自身がそう思っている。

岡本太郎は、小学生の時、授業中、両耳を堅く両手で塞ぎ、自分の崇高な頭脳に、穢れた教師の言葉が入って来ないようにしたと言うが、リンは、両手で耳を塞ぐ以前に、学校に行かなかったのだ。
リンも岡本太郎も正しい。
馬鹿以外は、学校に行くべきではない。
学校に行けば(正確には学校に馴染めば)馬鹿になることは確実である。
アインシュタインも授業を聞かず、教師に返答を求められても黙っていたという。

そして、リンや岡本太郎やアインシュタインのような、賢くて個性的な子供を、大人は許さない。
学校は、彼らを徹底的に攻撃し、改造しようとする。
岡本太郎やアインシュタインは、それで苦しめられたが、リンの父親は、リンを、そんな目に遭わせたくなかった。きっと、自分がそんな目に遭ったのだろう。
そして、リンに「大人と戦え」と言ったのだ。「負けるな」ともね。
しかし、それは無謀というもので、リンは、いろいろ大変なことになってしまう。

リンの父やリン、そして、『白い家の少女』という作品には、欠けていることがあるのだ。
それは、高次の力・・・一般的には、神の力の活用法だ。
リンも、リンの父も、『白い家の少女』の作者も、そんなものに頼りたくなかったのかもしれない。
しかし、仮に天才としても、1人の人間の力など、たかが知れている。
岡本太郎もアインシュタインも、「高い力」のことは十分に認め、そして、助けを得ていたのだと思う。
レアード・コーニク(Laird Koenig)は、Wikipedia(英語版)によれば、94歳で存命のようだ。








念仏で奇跡を起こす

私は、念仏だ、マントラだ、経典だ、奇跡だ・・・などと言ってる割には理屈っぽいのである。
ここらは、私が、システムエンジニア・プログラマーということもあり、仕方がないところだ。
ところが、量子力学をそれなりに高度に修めた人が、引き寄せなどの神秘現象を量子力学的に語るのを見ると、ある部分は論理的かもしれないが、それ以外は、論理の飛躍も甚だしいことが多いのである。
例えば、電子には意思があり、人間の意思と呼応するということを、理論的、実験的に導くことは出来るかもしれない。
しかし、だからと言って、人間の願いが物質世界で実現するというのは、論理の過度な飛躍だ。
これはあくまで極端な例だが、もっと緻密に語っているように見えるものでも、誤魔化し(と言って悪ければ個人的思い込み)が非常に多いように思うのである。

神秘世界を、現代科学で完全に語ることは不可能である。
むしろ、役に立つのは、経験と直観になる。
ただ、経験というものは、自分の経験に関しても、誤解が多いのである。まして、他人に正確に伝えるのは難しい。
だが、純粋にして明晰な直観というものは確かと思う。そして、これは他人に伝えない。あくまで個人的なものである。
その個人的な、純粋で明晰な直観は正しいのである。
とはいえ、それほど純粋で明晰な直観は、容易く得られない。

関英男博士などは、神秘現象を理論家する際、大胆な仮説を立てたが、その仮説の多くは直観によるものだったと思う。
だが、関博士は、なまじ、科学的知識があるだけに、直観に曇りがあったと思う。
釈迦が、現代の科学者にすらインスピレーションを与える(つまり正しい)直観的理論を示せたのは、現代の科学を知らなかったから、直観が曇らなかったのだと思う。
また、偏見の問題もある。
相対性理論に関しては完璧な理論を示したアインシュタインは、なぜか量子力学では迷走した。
これについては、アインシュタイン自身が、「自分が持っている偏見のせいで、量子力学が正しいことを認めたがらない」と分かっていたのだから、大したものである。
そして、釈迦は、おそらく、偏見がなかったのだ。

だが、残念ながら、釈迦の教えを記したと言われる経典が、偏見だらけの人によって、翻訳され、解釈され、釈迦の教えのかなりの部分が、正しく伝わっていないのだと思う。
それで、これは正確なことではないかもしれないが、釈迦が「念仏だけが有効なものとして残る」と言ったことが、かなり確かなのだと思う。
しかし、その念仏が、いろんな人によって、歪められて伝わっている。
だから、最も良いのは、念仏の意味など誰にも聞かず、ただ、「ナムアミダブツ」と唱えれば良いということだ。
ただ、これは、「南無妙法蓮華経」でも、「南無観世音菩薩」でも同じだし、「イエス様」「マリア様」でも同じである。
本当に長い時間、念仏や、好きな神仏の名を唱えて奇跡が起きなかったことはないし、それは自分で実証出来ると思う。
どうしても理屈が気になるなら、念仏であれば、法然や親鸞の教えが書かれた本、あるいは、『十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん』の中の『易行品』を読み、とにかく念仏を唱えれば良いと分かれば、そこで、読んだことを全部忘れて念仏を唱えると良い。
あるいは、サイババの『ナーマスマラナ』を読み、神の名を唱えれば良いと分かったら、そこで読んだことを全部忘れて、ただ実践すると良いと思う。








一番賢い人

「謙譲の美徳」ほど良いものはない。
しかし、「謙譲なフリ」はいくらでも見られるが、本物の謙譲を見ることは、まあ、滅多にない。
謙譲とは、謙遜のことで、遜(へりくだ)ることである。
とても偉い人が、自分は全く偉くないという態度を見せれば、誰もが、その人物を本当に偉いと感じるが、見せかけだけでそうすれば、そいつは、実は大したやつじゃないと分かってしまう。

アルベルト・アインシュタインの人格が美化されていると言われることもあるが、おそらく、彼は、本当に自分を重要人物だと思っていなかったと思う。
その意味では、彼は、大変な謙譲の美徳を持っていたわけだ。
彼のエピソードには、快いものが多い。
彼は、物理学者としての自分について、「趣味で物理学を続けてきたが、別に大したものじゃない」と手紙に書いていたことがあったらしい。
アインシュタインは、ドイツからアメリカ亡命後、プリンストン高等研究所の研究員になった。
ところで、プリンストン高等研究所に入る際の給料額の交渉の時、希望額を聞かれたアインシュタインは「500ドル」と言い、相手に、「月500?それでは少な過ぎませんか?」と言われると、アインシュタインは「いえ、年です」と言ったという話がある。
この話には、別バージョンがあり、研究所では元々、アインシュタインに年棒2万ドル(当時では超高給だ)を用意していたが、もっと高い額を希望しているかもしれないので、アインシュタインに希望額を聞いたところ、アインシュタインが「1000ドル」と言い、あまりの安さに担当者が「え?!」と驚くと、アインシュタインは慌てて「いえ、500だっていいんです」と言ったらしい。
別に、アインシュタインが、天才にありそうな、お金の計算が出来ない人だったわけではない。彼は、本当に、あまりお金を必要としていなかったのだ。
彼は、自動車を所有せず、研究所までの何キロもの道を、毎日、バスにも乗らず、歩いて通っていた。自動車通勤する職員がアインシュタインに同乗を勧めても、アインシュタインは応じたことがなかった。
また、ある母親が、中学生の娘が、近所の数学の先生に宿題を手伝ってもらっていたと知り、誰かと聞いたら、アインシュタイン博士だと聞いて卒倒しかけたというが、アインシュタインは、全く当たり前にそんなことをするのだった。
アインシュタインは、自分の頭が良いとも思っていなかった。
エレベーターの操作を妻に聞いた時、
「お前がやってくれ。私が難しいことは一切苦手だって知ってるだろ?」
と言ったという話もある。
ちなみに、彼の妻(再婚の妻)は、高校も出ていなかった。
洗濯石鹸でヒゲを剃っていた理由は、「2種類の石鹸の区別が出来ない」からだった。
与太者とも仲良くし、お金を乞われると、大らかに渡し、妻には怒られたが、アインシュタインは、別に、間違ったことをしたとは思っていなかった。「自分のものは人のもの」だったのだ。
彼が、エネルギーと質量を区別せず、重力と加速度を区別せず、時間と空間と重力をどこかごっちゃにしていたのは、まさに、自分と他を区別していない発想から来ていたように思う。

荘子が言っている。
「最も賢い人は、区別をしない」
「次に賢い人は、区別はしても、優劣をつけない」
アインシュタインは区別をしない人だったのだ。
なら、我々は、せめて、「優劣をつけない」のレベルを目指したい。
それが、「自分を偉いと思わない」ことだ。

私は、あるホームレスの男性が、「神様の奇跡が起こる」と1日中唱えていたら、奇跡が次々に起こった(1憶円が2回当たったことも含む)理由は、この言葉を唱えると、区別が消えるからだと思う。
神様の前では、人間なんて、どれも大したことはない。
いかにホームレスとはいえ、やっぱり、自分は偉いと思っている。それがなくなる。
そして、さらに延々唱えると、一切の区別が消える(これはやや複雑だが、自我が消えると共にトランス~変性意識~に入る)。
奇跡のメカニズムが分かったように思う。








高品質アファーメーション(2/2)

今朝に続き、特に高品質で、汎用的で、どんな人にも適応性が高いアファーメーション(肯定的確言)の2つ目である。

「予期しないことが起こり、道は開ける」

奇跡の第一の特徴とは何かご存じだろうか?
それは「予期出来ない」ことだ。
「20世紀最大の詩人」と呼ばれ、ノーベル文学賞を受賞しているアイルランドの詩人・劇作家であるウィリアム・バトラー・イェイツの戯曲『カルヴァリー』の舞台は、日本の歌舞伎を参考にしたと言われる。
その『カルヴァリー』の中で、極めて印象深い場面がある。
それは、イエス・キリストとローマ兵との間で交わされる、福音書とは異なる会話の場面だ。
イエスは、神の力の偉大さを説き、自分が、神から、地上の一切の権限を任されていることを宣言した。
ローマ兵達は、イエスの言葉を疑ってはいなかった。
だが、ローマ兵の1人は、イエスに言う。
「それがどうした?お前の神は我々の神ではない。サイコロが我々の神だ。予期せぬことでさえあれば、どんなことでも起こることが最善だ」
イエスは、ローマ兵達の強さに屈服する。

確かに、イェイツは、ニーチェやオスカー・ワイルドらと同様、アンチ(反)キリストだった。
とはいえ、彼らは、決して、イエスをナメているわけでも、低く評価しているわけでもない。
ただ、反発したいのだ。
ニーチェは、『ツァラトゥストラはこう語った』で、ツァラトゥストラに、イエスが高貴な魂の持ち主であると言わせているし、イェイツも、イエスの教えの巧みさを称賛していた。
だが、イェイツは、上の『カルヴァリー』で、イエスを裏切ったイスカリオテのユダに、イエスに向かってこう言わせている。
「俺は、お前が神であることを疑ったことなどない。俺がお前を裏切ったのは、お前が万能に思えたからだ」

ここらは、少し困惑するかもしれない。
だが、何かを感じるのである。
『カードキャプターさくら』でも、魔術師クロウ・リードの生まれ変わりであるエリオルが、聖獣スピネルと、こんな会話をしている。
「この世で一番楽しいことは何か知っているかね?スピネル」
「何ですか?エリオル」
「それは、予想しないことが起きることだよ」

予期しないことを受け入れる者は強いのだ。
予定された、決まったレールの上を行きたがる者は弱い。
分かり易く言えば、強い心の持ち主、勇気ある者は、冒険を恐れず、むしろ、冒険を求める。冒険こそが人生なのだからだ。
そして、奇跡とは、冒険を楽しむ者・・・つまり、予期しないことを待ち望む者に訪れるのである。

神の力は想像を超える。
讃美歌では、神の業のことを、度々「奇し(くすし)」と言う。
「奇し(くすし)」とは、神秘的であるという意味で、人間には不思議なことだ。
神が、人間に予想出来るような、当たり前のことをするはずがない。そんなものは人間にやらせている。
だが、当たり前のことしか起きなければ、大きな発展はない。
山のような大きな問題が解決することもない。
偉大な救い、歓喜する喜びもない。
だから、予期しないこと・・・神の業を受け入れるのである。
そのための言葉が、
「予期しないことが起こり、道は開ける」
なのである。
あなたは今、八方ふさがりかもしれないし、いかに努力しても、厚い壁はビクともしないかもしれない。
しかし、奇跡は起こるのである。
あなたが受け入れさえすれば。
だから、「予期せぬことが起こり、道は開ける」と、常に唱えることにより、神の奇しき業で道は開かれ、あなたは勝利し、歓喜するのである。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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