ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2021年06月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

まるで駄目男も救える真言

真言を唱えれば、全てがうまくいって楽が出来る。
そうしたら、生きることに余裕が出来るはずだから、その分、人に優しく出来れば幸いだと思う。
モーセの十戒とか、仏教の五戒とか言っても、要は、人に優しくするようにすれば、自ずと守られる。
十戒は、宗教的に独特な部分もあるので、五戒の方を挙げると、

不殺生戒 生き物を故意に殺してはならない
不偸盗戒 他人のものを盗んではいけない
不邪婬戒 不道徳な性行為を行ってはならない
不妄語戒 嘘をついてはいけない
不飲酒戒 酒類を飲んではならない

である。
十戒と本質は同じと思うが、十戒の「父母を敬え」がなく、「酒を飲むな」が入っているところが顕著な違いと思える。
しかし、「父母を敬う」は、戒律で定めるようなことではなく、敬うべき父母なら、敬って当然なのだろう。
ところで、「酒を飲むな」は、最澄は真面目に禁じたが、空海は少しは許したそうで、「酒を飲むな」ではなく「飲み過ぎるな」ということだろう。
それは、「嘘をつくな」も同じで、何ごとも極端に捉えてはならないのであり、この「嘘をつくな」は、十戒の方の「偽証するな」の方が正確であるが、とにかく、賢く理解すれば良いのである。

ところが、法然や親鸞は、これらを破っても、全然構わないとしている。
ただ、親鸞が「無理に破る必要はないが」と述べたことがある程度だ。
法然と親鸞の教えは当然、念仏を唱えることであるが、念仏も真言である。
では、念仏を唱えても、幸運に恵まれ、楽が出来るかというと、出来る。
それは、特に、親鸞の国宝『十帖和讃』の中の、『浄土和讃』の『現世利益和讃』十五首に明確に書かれ、法然においても、『選択本願念仏集』に一部、それを示唆している。
また、『法華経』25章『観音経』においても、真言である「南無観世音菩薩(あるいは、観世音菩薩)」を唱えれば、あらゆる難を逃れることが出来るとあるが、別に、その代償を求められてはおらず、ただ、観世音菩薩の名を呼べば良いと書かれている。
実際、いかなる真言を唱えても、幸運になり難を逃れるが、そうなれば、敢えて五戒を犯す必要もなくなる。
だが、犯すような縁(運命と言って良いだろう)であれば、犯してしまうというのが、親鸞の教えである。
逆に言えば、犯す縁がなければ、それこそ、犯そうとしても犯せないのである。

善い人だろうが、悪い人だろうが、真言を唱えれば上手くいくし、私の実感としては楽が出来る。
これをいきなり言われたら、おかしく感じる人が多いだろうが、そう毎回説明しないが、全て道理にあっているし、おそらく、科学的、論理的にも正しいはずである。
私の場合、阿弥陀如来真言「オン・アミリタ・テイセイ・カラウン」を中心に、観世音菩薩真言、念仏、般若心経の呪文を唱え、その他も、不遜ながら、付け足し程度に唱えた。
だが、おそらく、1つを真面目に唱えた方が良いのだと思う。
ところで、真言とはいえ、僧侶でもないのに(あるいはカナリアの美声でないのに)声に出して唱えると、周囲に迷惑がかかり、それこそ、人に優しくないこともあり、心で唱えると良い。

私が以前いた職場に「まるで駄目男」と呼称すべき、本当に駄目な男がいて、私はなんとかしてやりたかったが、あまりに駄目で、なんともならなかった。
しかし、そんな彼でも、何か1つ、真言を唱えれば、大逆転出来たはずなのである。
ただ、おそらく、彼に真言を勧めても、彼はやらなかっただろう。
うまくいく人間といかない人間、楽が出来る人間と出来ない人間。
太田裕美さんの『しあわせ未満』(作詞:松本隆、作曲:筒美京平)で言うなら、
ついている奴 いない奴
刺のあるバラ れんげ草
陽のあたる人 かげる人
といったことも、真言を唱えるか唱えないかで決まる。
尚、「刺のあるバラ れんげ草」は解釈が難しいが、高値の花として尊重されるバラと違い、れんげ草は可憐ではあるが、ギリシャ神話でニンフが気軽に摘んでしまったように、ぞんざいに扱われる存在、あるいは、簡単に踏みつけられるような存在だということかもしれない。
真言を唱え「ついている奴」「高貴なバラ」「陽のあたる人物」になっていただきたい。
どのくらい「つく」か、「高貴になる」か、「陽があたる」かは、宿命もあるが、宿命の範囲で「つき」「高貴になり」「陽があたれば」、少なくとも楽が出来るはずである。








真言の手引き(駄目な人向きかも…)

【お詫び】文中の、子年の守護仏とその真言に誤りがありましたので修正しました。申し訳ありませんでした。ご指摘いただいた方、ありがとうございました。

特に、私のような駄目な人には、お役に立つお話を書こうと思う。
(優秀な人にも全く役に立たないわけではないと思うが)

私は、長年のニート状態から仕方なく社会人になるという、かなり駄目なケースで、しかも、それほど意欲的でもなく、本当なら、社会の最底辺に行きかねなかったが、なぜか常に良い思いをして楽しく過ごし、初めに勤めたのはブラックな職場だったが、そこですら、なぜか良い思い出ばかりである。
職場が嫌になれば、楽々と軽やかに転職し、途中、全くのなりゆきでコンピュータープログラミングを習得し、一部上場企業に入ることも出来た。
成功しようとか、出世しようという意欲は、正直、なかったし、努力もしなかったが、常に驚くほど「良い思い」をしている。あまり大きな声では言えないが、女の子も常に沢山・・・だ(不思議なことだw)。
これほどいい加減に生きて、苦労の1つもせず、健康で、たとえ一時的に難病になってもすぐに治り、奇跡のタイミングで事故を免れたこともある。
有名な自己開発指導者のセミナーに行った時は、有名なプロスポーツ選手やオリンピック金メダリストも指導したという先生に、「お前の生き方はいい加減だ」と散々言われたが、それはそうだし、言い返す言葉もないが、別に困ってはいない。

それほどいい加減に生きても、楽をさせてもらった理由として、考えられるのは、働き始めた途端に、今では非常に尊敬している中岡俊哉氏の本を読み、阿弥陀如来真言「オン・アミリタ・テイセイ・カラウン」をそれなりに唱えていたことくらいである。
他の真言も唱えていたが、最も唱えたのは、この阿弥陀如来真言である。
ただ、これも、十分に唱えたとは言えないし、長い間、唱えなかったこともある。そして、唱えていなかった時期は、やや、流れが悪かったように思う。
もし、本当にしっかり唱えていれば、成功していたかもしれない。
実を言えば、成功する道が何度も開かれ、本当に支援者すら沢山現れたが、それは事業家としてのもので、私は、その方面は向いていないと思うので、その道に行かなかったことは、それはそれで良かったと思う。

そんなわけで、これに集中する必要もないと思うが、どうしても流れが良くならない人は、真言を唱えることを勧めるのである。
その上で、他のことをやれば、非常にうまくいくかもしれない。

一応、生まれ年(干支)と、守護仏、そして、真言の関係を書いておく。

子 - 千手観世音菩薩 オン・バザラ・タラマ・キリク ※指摘により修正しました。(2021/06/27 18:50)
丑 - 虚空蔵菩薩 オン・バザラ・アラタンノウ・オンタラク・ソワカ
寅 - 虚空蔵菩薩 オン・バザラ・アラタンノウ・オンタラク・ソワカ
卯 - 文殊菩薩 オン・アラハシャノウ
辰 - 普賢菩薩 オン・サンマヤ・サトバン
巳 - 普賢菩薩 オン・サンマヤ・サトバン
午 - 勢至菩薩 オン・サンザン・サンザク・ソワカ
未 - 大日如来 オン・バザラ・ダト・バン
申 - 大日如来 オン・バザラ・ダト・バン
酉 - 不動明王 ノウマク・サンマンダ・バザラダン・カン
戌 - 阿弥陀如来 オン・アミリタ・テイセイ・カラ・ウン
亥 - 阿弥陀如来 オン・アミリタ・テイセイ・カラ・ウン

だが、干支には、それほどこだわらず、好きな仏の真言を唱えると良いと思う。
また、例えば、大日如来真言は「オン・バザラ・ダト・バン」と「オン・バザラ・ダド・バン」があるが(「ダト」と「ダド」の違い)、どちらが正しいのかは、正直、分からない。
どちらかというと、「オン・バザラ・ダト・バン」が多いと思うが、私は、「オン・バザラ・ダド・バン」で唱えていたし、私が最も強いエネルギーを感じた真言はこれだった。あまりに威力がありそうなので、滅多に使わないほどである。
そんなわけで、些細な違いは気にしなくて良いと思う。
だって、それを言えば、般若心経の有名な呪文は、中国語からの音写では「ぎゃてい、ぎゃてい、はらぎゃてい、はらそうぎゃてい、ぼじそわか」であるが、サンスクリット語版では「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー」とかなり違うが、いずれも強い力がある。
さらに言えば、これの中国語版やサンスクリット語版それぞれにも、微妙に違うバージョンがあるのである。
西洋の他の言語となると、さらに異なった発音があるだろうが、どれもちゃんと効くはずである。

ところで、真言密教の密門会のサイトを見れば、大日如来の最も正しい真言は「オン・アビラウンケン」なのだそうである。
私は、密門会は信頼しているので、私もこれを正統と見なしているが、「オン・バザラ・ダト・バン」でも構わないと思う。密門会も、「オン・アビラウンケン」以外は駄目と言っているわけではない。

尚、「南無阿弥陀仏」「南無観世音菩薩」「南無妙法蓮華経」「南無釈迦牟尼仏」「南無弥勒菩薩」なども、まぎれもない真言で、上の密門会サイトの内容から考えても、いずれも力があると考えて良いはずだ。
どの真言を唱えるのが良いか迷ったら、『歎異抄』を読んで「南無阿弥陀仏」を唱えるか、『観音経』(『法華経』の25章)を読んで「南無観世音菩薩」を唱えると良いと思う。
私が最も唱えていたのは、「南無阿弥陀仏」と等しいと思う「オン・アミリタ・テイセイ・カラウン」だが、次が、「南無観世音菩薩」に等しいと思う「オン・アロリキャ・ソワカ」だった。
私も、今後は、ますます多く唱えようと思う。
尚、今朝も書いたが、私は、もっぱら、真言を無声で、つまり、心で唱える。
それで、間違いなく効果があったのである。








真言を声でなく心で唱えるべき理由

人間は、真言を数多く唱えれば、頭が良くなり、能力が上がり、幸運になり、世界は好ましいものになり、善い人になれるかどうかはともかく、世界や他人に害を与える可能性が少なくなる。
真言とは、念仏、高貴な呪文、神の名、祝詞、祓詞、想念を起こさせない特別な言葉・・・などである。

ところが、真言を唱えることを勧める者の多くが、「真言(念仏など)は声に出して唱えよ」とか、「声に出した方が良い」と言う。
それは間違いである。
真言は、無声で、心の中で唱えるべきである。
確かに、真言を教える、あるいは、指導する立場の僧侶などの場合は、手本の意味で、声に出して唱える必要がある。
また、僧侶や修行者の修行において、真言を声に出して唱えることが必要だということもあるだろう。
しかし、我々は、山の中や寺で修行するのでもない限り、真言は心の中で唱えなければならない。
これは、どんな偉い僧が反対の見解を述べていても、譲るわけにはいかない。
以下に、その理由を挙げる。

・周囲に迷惑をかける
声に出して真言を唱えると、周囲に居る人達が、強制的にあなたの真言を聞かされることになる。
あなたにとって、いかに高貴な素晴らしい真言であっても、それは、他人にとっては騒音に過ぎないのである。
自分の声が、他人を魅了するカナリアの声か、豚の鳴き声か、冷静に考えるべきである。いや、豚の声はまだ良いものだが、自我の雑味の入った声は、たとえ子供のものであっても耳障りなものである。ましてや、特にオッサンの声であれば。
他人の迷惑も顧みず唱えた真言に効能があるか、疑問にすら感じるほどである。

・疲れる
声に出して、ましてや、大きな声で唱えると疲れるものである。
人によっては、始終、大きな声を出すことに慣れていて、1日中、大声でしゃべり、ことによっては迷惑をかけている者もいる。友達にとっては、そんな者の声は楽しい場合もあるだろうが、赤の他人にとっては、やっぱり騒音なのである。
それはともかく、やはり、喋ることはエネルギーを使うので疲れる。
すると、真言を長時間唱えることが出来ず、また、真言を唱えることをしなくなる可能性が高くなる。
普段あまり喋らない人や、身体の弱い人の場合は、特にその危険が大きい。
真言は、可能な限り、いつでも、どこでも唱えることが好ましく、数が多ければ多いほど効果がある。
「声に出せ」と言われて、唱える前からおっくうに感じ、それで、やらなくなってしまった人も少なくないと思う。
私だって、「声に出して唱えよ」と言われたら、きっと、やらなかったと思う。

・神聖な存在は内にある
よく、観世音菩薩は、その名の通り「音を観る菩薩」であるので、声に出して真言を唱えた方が聴いてもらい易い、あるいは、聞いてもらえない・・・などは、もう言語道断である。
観世音菩薩ほどの方が、人の心を観ることが出来ないと言うのだろうか?
人の心が分からない仏に、どんな力があると言うのだろう?
イエスは「神は隠れたものを見たもう」と言ったではないか?部屋の中で、誰にも知られず、静かに祈ることを神は喜ばれるのである。
そもそも、神や仏は、我々の内にも外にも居る存在で、本当は内側にこそ居るというべきなのである。
一休さんは、心そのものが仏であると言い、『浄土三部経』の『大無量寿経』にも、「心が仏である」と書いてある。
そして、本来の心が、宇宙全体に広がっているのである。
それなら、心で真言を唱えれば、それが、心の中の神仏に届かないはずがないではないか?
心で真言を唱えることで、内なる神や仏と共鳴し、必要ならば不思議も起こるのである。

他にもいくらでも挙げられるが、このくらいにしておく。
折口信夫の『死者の書』のヒロインのモデルである中将姫のように、お経(彼女の場合は阿弥陀経)を唱える声が神聖で気高く美しく、聞く人々の心を清め癒すという人も確かに存在するのかもしれない。
しかし、自分がそれであると己惚れたら、愚か者の馬鹿である。
中将姫のような人は、神仏が、声に出してお経などを唱えるよう願っており、それが中将姫に届いているのだろう。
そして、本来は、僧侶であれば、声に出してお経を唱えれば、それが、聞く人の心を清め、安らがせるものでないといけないだろう。
しかし、近年の葬式のために唱えるお経や念仏の中には、言っては悪いが、聞いていて不快なものもあるように思う。
そもそもが、念仏は葬式のためのものではない。
私は、ある、浄土真宗のお葬式の中で、お坊様が「私に続けて念仏を唱えて下さい」と言われるので、参列者と共にそれに従った。
葬式で声を揃えて念仏を唱えるというのは、個人的には気持ち良くないが、そうは思わないことにした。
しかし、お坊様の暗い声の「南無阿弥陀仏」の後、それと似た調子で念仏を唱えるのは苦痛であった。
そして、それを、延々と長時間やらされ、すっかり、念仏に対するイメージが悪くなった。
お葬式は、もっと心安らかに行われるよう工夫しなければならない。

本来は、「南無阿弥陀仏」の念仏は、良いものであり、絶対に霊験あらたかでもある。
真言宗のある偉いお坊様すら、それを言っていたこともある。
私は、上の件で、念仏のイメージが悪くなったが、幸い、昔から、阿弥陀如来真言「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」を唱える習慣があったので、こちらを使えば問題ない。
また、『法華経』の25章『観音経』にある通り、観世音菩薩の名を唱えることは良いことで、翻訳書の多くに書かれている通り「南無観世音菩薩」と唱えても良いし、観世音菩薩の真言「オン、アロリキャ、ソワカ」を唱えても良い。
あまり、こういうことにこだわるのは良くないのだが、私は、斎藤敏一氏の本のおかげで「アジマリカン」のイメージが悪くなってしまい、大野靖志のある本のおかげで「トホカミエミタメ」のイメージが悪くなってしまった。しかし、これらの真言は本当は良いものであるので残念である。
しかし、真言は沢山あり、どれの効果も等しい。
「われの勧める真言がダントツ一番じゃ」などと言う者は、別に疑う必要はないが、信用も出来ないと思う。








腕振り運動とマントラ

解剖学者の養老孟子氏の何かの本に書かれていたが、昔の日本人は、毎日、長時間正座していたというだけで、特に運動をしなくても身体が強かったそうだ。
このことだけでも深く考えると、望むような人間になるヒントが得られると思う。
現代人は、運動をするために特別な時間を作り、ジムにまで行ったりして、「さあ、やるぞ」といった感じでやるのだが、このやり方は、いったん、やる気やモチベーションが落ちれば、やるのが嫌になり、なかなか続かないものだ。
現代の我々が正座で生活することは難しいが、暇があれば、とにかく少しでも多く腕振り運動をやるようにすれば、十分に身体は強くなる。
腕振り運動とは、スワイソウとかせい手とも呼ばれるが、自然に立って、真っすぐに伸ばした両腕を同時に後ろに、やや鋭く振り、惰性で前に振るという簡単な運動の繰り返しである。
これは、肩だけの運動ではなく、身体を直立に保つために、腹筋や背筋、それに、脚まで鍛えられる。
また、この運動は、両手のひらを内側に向けて行うことで、両手の間に気が発生したり、仙骨が調整されたりで、不思議な効果があると言われ、インドや中国では秘法として伝えられている。
これを毎日長時間やることで、仙人になることも可能という話まである。
腕振り運動は、毎日、時刻と回数を決めてきっちりやることも大切だが、とにかく、時間があれば100回ほどやるようにし、1日千回以上やるようにすれば、良い意味で驚くようなことが起こるかもしれない。
それに、腕振り運動は、動禅とも言われ、一心に行うことで脳も調整、あるいは、鍛えられ、頭が良くなったり、超能力を獲得することも無いとは言えないと私は思う。
私は、もう10年以上、腕振り運動は欠かさず毎日やっているが、どこか妖精めいた力が身に付いているように思うのである。

それと、後は、いつも述べる通り、やはり気がついたら、いつでもマントラ(真言)を唱えることに高い価値がある。
人間の脳は、放っておいたら、実にロクでもない働きをする。
脳は、1分間に300ものつぶやきをするという研究があり、普通の人では、その大半はマイナスのつぶやきで、それにより、エネルギーを失い、頭は悪くなり、運命まで悪くする。
「大丈夫」などのプラスの言葉を自主的に唱えることも良いのだが、なかなか続かない人がいることが分かった。
ところが、マントラの場合、ある程度続けていると、自動的に継続されている状態になり、むしろ、そのような状態こそ効果が高いとも考えられている。
しかし、その状態になるためには、とにかく普段から数多く、唱えることが必要である。
そして、マントラは、必ず、心の中で唱えないといけない。
これに関しては、声に出して唱えよと言う人もいるが、それには少しも賛成出来ない。
声に出して唱えるのは、僧侶だけで良く、本来は、心で唱えるものである。
そうすることで、やがて、心の中で自動でマントラが続き、それが、意識の深い部分にまで導いてくれる。
これは、喩えれば、海の深いところに潜っていくようなもので、その深いところに度々訪れて慣れてしまえば、普段の生活や仕事である海の表面でやることは、あまりに簡単なため、子供の遊びになってしまうのである。
また、腕振り運動とマントラには相乗効果もある。
マントラは、何でも良い。
「南無阿弥陀仏」でも「南無観世音菩薩」でも「オン、アビラウンケン(大日如来真言)」でも「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン(阿弥陀如来真言)」でも「オン、アロリキャ、ソワカ(観世音菩薩真言)」でも。
あるいは、「アメノミナカヌシノカミ」や「アマテラスオオミカミ」や「アメノミナカヌシ」や「アマテラス」、あるいは、「アミターバ(阿弥陀如来)」や「クリシュナ」や「イエス・キリスト」など、自分が好ましく思うもので良い。








本当に幸運な人

男子プロテニスで、ツアー109勝、シングルス1243勝の世界歴代1位の記録を持つアメリカのジミー・コナーズは、
「テニスプレーヤーには2種類しかいない。ウインブルドン(全英オープン)のタイトルを持っている者と持っていない者だ」
と言ったことがある。
それで言えば、4大大会(全米、全英、全仏、全豪)でコナーズと同じ8勝で、通算世界ランキング1位では、歴代4位(268週)のコナーズを超える270週(歴代3位)のイワン・レンドルは、ウインブルドンのタイトルだけは取れず、このコナーズの論では「2種類目」の選手になるが、確かに、レンドル自身も、ウインブルドンのタイトルは一番欲しかったようである。

アメリカの心理学者アブラハム・マズローは、
「偉大な人間と平凡な人間の違いは1つだけだ。それは至高体験があるかないかだ」
と言った。
だが、彼と交流のあったイギリスの作家コリン・ウィルソンは、
「至高体験は誰にでもある、ありふれたもの」
と述べ、後にマズローもそれを認めた。
要は、至高体験に気付いているかどうかだろう。
至高体験とは、およそ文豪の作品で現れないものはない精神状態で、世界と自分が一体になった忘我・没我・無我の状態だ。
マズローは、大学で、学生達に「自分が幸運だと思った体験」を語らせていったら、学生達が至高体験に達することを発見したという。

コナーズの方のは、そもそもがプロテニスプレーヤーに限定され、しかも、その中でも、ごくわずかな、実力と運に恵まれたプレーヤーを指すのであるが、確かに、彼が言った「分類」に意味があるほど。ウインブルドンのタイトルには権威があるのだろう。
一方、マズローの至高体験は誰でもあるので、それを自覚すると良いのであるが、ほとんどの人はそれをしない。

ところで、別の、そして、もっと重大な人間の分類法がある。
それは、ジャパ(真言や神の名を唱えること)を毎日行っているか、そうでないかだ。
それを行っている者は魔法使いであり、全てを、特に、永遠を手に入れる。
だが、人類を覆う運命が、ほとんどの人間には、それが出来ないように働きかけている。
ジャパは、口に出して唱えても良いが、心で唱える方が良い。なぜなら、継続し易く、長時間行えるからだ。
だが、多くの(ほとんどと思われる)場合、声に出して唱えるよう指示されることで、大半の者がやらないことになる。
声に出して唱えるのは僧侶だけで良いのであるし、また、必ずしも、僧侶が、毎日ジャパを行う運命にはない。
真言(あるいは神の名)は、良いもの(自分が良いと思うもの)であれば、およそ何でも良い。
「アウム」でも「南無阿弥陀仏」でも「オン、アビラウンケン」でも「トホカミエミタメ」でも、自分が良いと思えるものなら良いのである。
唱える回数が多ければ多いほど、本質的な能力が高くなり、この幻影の世界を自在に操れる。
その明確な根拠の1つは、脳は放置すると、無駄な活動で多大なエネルギーを消費してしまうということが分かっていることだ。
また、マントラは脳全体を統合的に共鳴させ、あるイメージ領域の配列を整え重要な機能を顕現させることが、ある程度分かっている。
しかし、マントラの重要な秘密の大半はまだベールに覆われている。
だが、実践すれば、その効果は誰でも分かることであり、至高体験も頻繁に起こると思われる。
とはいえ、今のところ、多くの者は、それをする運命にないようである。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
Kay Twitter Home

執筆のご依頼




最新コメント


月別アーカイブ
記事検索
ブログバナー&Mail


メールはこちらへ

PV since 2010/09/08
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

人気ランキング参加中
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ ひきこもりへ


タグクラウド
QRコード
QRコード