真言を唱えれば、全てがうまくいって楽が出来る。
そうしたら、生きることに余裕が出来るはずだから、その分、人に優しく出来れば幸いだと思う。
モーセの十戒とか、仏教の五戒とか言っても、要は、人に優しくするようにすれば、自ずと守られる。
十戒は、宗教的に独特な部分もあるので、五戒の方を挙げると、
不殺生戒 生き物を故意に殺してはならない
不偸盗戒 他人のものを盗んではいけない
不邪婬戒 不道徳な性行為を行ってはならない
不妄語戒 嘘をついてはいけない
不飲酒戒 酒類を飲んではならない
である。
十戒と本質は同じと思うが、十戒の「父母を敬え」がなく、「酒を飲むな」が入っているところが顕著な違いと思える。
しかし、「父母を敬う」は、戒律で定めるようなことではなく、敬うべき父母なら、敬って当然なのだろう。
ところで、「酒を飲むな」は、最澄は真面目に禁じたが、空海は少しは許したそうで、「酒を飲むな」ではなく「飲み過ぎるな」ということだろう。
それは、「嘘をつくな」も同じで、何ごとも極端に捉えてはならないのであり、この「嘘をつくな」は、十戒の方の「偽証するな」の方が正確であるが、とにかく、賢く理解すれば良いのである。
ところが、法然や親鸞は、これらを破っても、全然構わないとしている。
ただ、親鸞が「無理に破る必要はないが」と述べたことがある程度だ。
法然と親鸞の教えは当然、念仏を唱えることであるが、念仏も真言である。
では、念仏を唱えても、幸運に恵まれ、楽が出来るかというと、出来る。
それは、特に、親鸞の国宝『十帖和讃』の中の、『浄土和讃』の『現世利益和讃』十五首に明確に書かれ、法然においても、『選択本願念仏集』に一部、それを示唆している。
また、『法華経』25章『観音経』においても、真言である「南無観世音菩薩(あるいは、観世音菩薩)」を唱えれば、あらゆる難を逃れることが出来るとあるが、別に、その代償を求められてはおらず、ただ、観世音菩薩の名を呼べば良いと書かれている。
実際、いかなる真言を唱えても、幸運になり難を逃れるが、そうなれば、敢えて五戒を犯す必要もなくなる。
だが、犯すような縁(運命と言って良いだろう)であれば、犯してしまうというのが、親鸞の教えである。
逆に言えば、犯す縁がなければ、それこそ、犯そうとしても犯せないのである。
善い人だろうが、悪い人だろうが、真言を唱えれば上手くいくし、私の実感としては楽が出来る。
これをいきなり言われたら、おかしく感じる人が多いだろうが、そう毎回説明しないが、全て道理にあっているし、おそらく、科学的、論理的にも正しいはずである。
私の場合、阿弥陀如来真言「オン・アミリタ・テイセイ・カラウン」を中心に、観世音菩薩真言、念仏、般若心経の呪文を唱え、その他も、不遜ながら、付け足し程度に唱えた。
だが、おそらく、1つを真面目に唱えた方が良いのだと思う。
ところで、真言とはいえ、僧侶でもないのに(あるいはカナリアの美声でないのに)声に出して唱えると、周囲に迷惑がかかり、それこそ、人に優しくないこともあり、心で唱えると良い。
私が以前いた職場に「まるで駄目男」と呼称すべき、本当に駄目な男がいて、私はなんとかしてやりたかったが、あまりに駄目で、なんともならなかった。
しかし、そんな彼でも、何か1つ、真言を唱えれば、大逆転出来たはずなのである。
ただ、おそらく、彼に真言を勧めても、彼はやらなかっただろう。
うまくいく人間といかない人間、楽が出来る人間と出来ない人間。
太田裕美さんの『しあわせ未満』(作詞:松本隆、作曲:筒美京平)で言うなら、
ついている奴 いない奴
刺のあるバラ れんげ草
陽のあたる人 かげる人
といったことも、真言を唱えるか唱えないかで決まる。
尚、「刺のあるバラ れんげ草」は解釈が難しいが、高値の花として尊重されるバラと違い、れんげ草は可憐ではあるが、ギリシャ神話でニンフが気軽に摘んでしまったように、ぞんざいに扱われる存在、あるいは、簡単に踏みつけられるような存在だということかもしれない。
真言を唱え「ついている奴」「高貴なバラ」「陽のあたる人物」になっていただきたい。
どのくらい「つく」か、「高貴になる」か、「陽があたる」かは、宿命もあるが、宿命の範囲で「つき」「高貴になり」「陽があたれば」、少なくとも楽が出来るはずである。
そうしたら、生きることに余裕が出来るはずだから、その分、人に優しく出来れば幸いだと思う。
モーセの十戒とか、仏教の五戒とか言っても、要は、人に優しくするようにすれば、自ずと守られる。
十戒は、宗教的に独特な部分もあるので、五戒の方を挙げると、
不殺生戒 生き物を故意に殺してはならない
不偸盗戒 他人のものを盗んではいけない
不邪婬戒 不道徳な性行為を行ってはならない
不妄語戒 嘘をついてはいけない
不飲酒戒 酒類を飲んではならない
である。
十戒と本質は同じと思うが、十戒の「父母を敬え」がなく、「酒を飲むな」が入っているところが顕著な違いと思える。
しかし、「父母を敬う」は、戒律で定めるようなことではなく、敬うべき父母なら、敬って当然なのだろう。
ところで、「酒を飲むな」は、最澄は真面目に禁じたが、空海は少しは許したそうで、「酒を飲むな」ではなく「飲み過ぎるな」ということだろう。
それは、「嘘をつくな」も同じで、何ごとも極端に捉えてはならないのであり、この「嘘をつくな」は、十戒の方の「偽証するな」の方が正確であるが、とにかく、賢く理解すれば良いのである。
ところが、法然や親鸞は、これらを破っても、全然構わないとしている。
ただ、親鸞が「無理に破る必要はないが」と述べたことがある程度だ。
法然と親鸞の教えは当然、念仏を唱えることであるが、念仏も真言である。
では、念仏を唱えても、幸運に恵まれ、楽が出来るかというと、出来る。
それは、特に、親鸞の国宝『十帖和讃』の中の、『浄土和讃』の『現世利益和讃』十五首に明確に書かれ、法然においても、『選択本願念仏集』に一部、それを示唆している。
また、『法華経』25章『観音経』においても、真言である「南無観世音菩薩(あるいは、観世音菩薩)」を唱えれば、あらゆる難を逃れることが出来るとあるが、別に、その代償を求められてはおらず、ただ、観世音菩薩の名を呼べば良いと書かれている。
実際、いかなる真言を唱えても、幸運になり難を逃れるが、そうなれば、敢えて五戒を犯す必要もなくなる。
だが、犯すような縁(運命と言って良いだろう)であれば、犯してしまうというのが、親鸞の教えである。
逆に言えば、犯す縁がなければ、それこそ、犯そうとしても犯せないのである。
善い人だろうが、悪い人だろうが、真言を唱えれば上手くいくし、私の実感としては楽が出来る。
これをいきなり言われたら、おかしく感じる人が多いだろうが、そう毎回説明しないが、全て道理にあっているし、おそらく、科学的、論理的にも正しいはずである。
私の場合、阿弥陀如来真言「オン・アミリタ・テイセイ・カラウン」を中心に、観世音菩薩真言、念仏、般若心経の呪文を唱え、その他も、不遜ながら、付け足し程度に唱えた。
だが、おそらく、1つを真面目に唱えた方が良いのだと思う。
ところで、真言とはいえ、僧侶でもないのに(あるいはカナリアの美声でないのに)声に出して唱えると、周囲に迷惑がかかり、それこそ、人に優しくないこともあり、心で唱えると良い。
私が以前いた職場に「まるで駄目男」と呼称すべき、本当に駄目な男がいて、私はなんとかしてやりたかったが、あまりに駄目で、なんともならなかった。
しかし、そんな彼でも、何か1つ、真言を唱えれば、大逆転出来たはずなのである。
ただ、おそらく、彼に真言を勧めても、彼はやらなかっただろう。
うまくいく人間といかない人間、楽が出来る人間と出来ない人間。
太田裕美さんの『しあわせ未満』(作詞:松本隆、作曲:筒美京平)で言うなら、
ついている奴 いない奴
刺のあるバラ れんげ草
陽のあたる人 かげる人
といったことも、真言を唱えるか唱えないかで決まる。
尚、「刺のあるバラ れんげ草」は解釈が難しいが、高値の花として尊重されるバラと違い、れんげ草は可憐ではあるが、ギリシャ神話でニンフが気軽に摘んでしまったように、ぞんざいに扱われる存在、あるいは、簡単に踏みつけられるような存在だということかもしれない。
真言を唱え「ついている奴」「高貴なバラ」「陽のあたる人物」になっていただきたい。
どのくらい「つく」か、「高貴になる」か、「陽があたる」かは、宿命もあるが、宿命の範囲で「つき」「高貴になり」「陽があたれば」、少なくとも楽が出来るはずである。