ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2021年05月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

やっぱり楽なことしか続かない

成功するためには、良い習慣を持つことが大切なことは誰でも分かると思う。
それで、『7つの習慣』という世界的ベストセラーがあるが、7つは多過ぎるし、しかも、その1つ1つが、難しいというか面白くない。
世の中には、「30の習慣」だの「100の習慣」だのといったものがあるが、私には、その数だけで「正気か?」としか思えないし、見るまでもなく、徹底的に面白くない苦痛なことしか書いていないはずだ。

良い習慣を持ちたいなら、必ず考えないといけないことは、それが、
・自分にとって、一番楽なこと
だ。
「好きなこと」と言いたい人も多いだろうが、よく考えたら、好きなことは習慣にするどころか、むしろ、やめないといけないことの方が多い。
例えば、酒やお菓子やタバコやゲームやエロ本というふうに、好きなことは、習慣にするまでもなく、自主的にやってしまうが、制限しなければならない。
良いことであっても、楽でないと続かないし、続かないようなやりたくないことなら、やらない方が良い。
「鉄の意思で頑張る」って言ったところで、そんなやり方だと、多少長くやれても、1年も持たないだろうが(しかも無理をするので心が病む)、成功する習慣なんて、10年20年続けないと意味がない。
ただ、20年30年続くことなら、案外、最初の1ヵ月で何らかの成果が出ることが多い。

私は時々、腕振り運動を勧めるが、勧めた相手が、
「毎日50回やってます。今は100回は無理ですので」
といったことを言う人がいるが、100回も出来ないなら、やらない方が良い。
老人でもないのに、あんな楽な運動を100回出来ないなら、楽ではなく苦痛なのだろう。
ところで、楽かどうかは、考え方次第のところもある。
例えば、子供に、毎日ほうれん草を食べさせることは難しいが、ポパイが人気があった時のアメリカでは簡単だった。
ただし、必要以上に食べさせようとしたり、「ついでに」とピーマンやニンジンを食べさせようとして失敗する馬鹿な親も多かった。
ポパイがあったところで、楽に食べられるような工夫は必要だし、どうしてもほうれん草を楽に食べられないなら、食べなくて良い。
制限すべき、ケーキやアイスばっかり食べさせなければ、何を食べようが問題ない。

『ザ・シークレット』という引き寄せの本を読んでも成功する人が全くいないのは、あれに書かれたことをやるのは楽ではないからだ。
なぜ楽ではないかというと、不自然で無理があるからだ。
「住む家、着る服、見える目がある・・・など、何でもいいから感謝して下さい」
なんて書かれているが、そんな楽でないこと、続くはずがない。

「南無阿弥陀仏」という念仏を唱えることは良いことであるが、やはり、楽でなく、気力が必要なら、やらない方が良い。
ただ、自分の業といったものを深く感じている人間にとっては、これでチャラになるなら楽なので続くのである。
私の叔父のお葬式で、お坊様が、自分に合わせて念仏を唱えるよう指示したが、延々と唱えさせられて、私はすっかり念仏が嫌いになった。楽でなく苦痛だったからだ。
そんなことをさせるお坊様は多いと思う。
ただし、楽な唱え方を見つければ、毎日唱えることが出来る。
念仏は、1回唱えて、それを心に保つなら、1回でも良い。
逆に、100回唱えて、「やっと終わった」と思うなら、やめた方が良い。

さて、成功法則とか、引き寄せであるが。これらの本に書いてあることは、世界的ベストセラーだろうが、一瞬、人気があるだけですぐに消えるものだろうが、どうせ、どれも続かない。
ところが、少し前からやたら売れている保江邦夫氏は著書に、せっかく「ぼーっとすれば良い」と楽で良いことを書いてくれていたのに、余計なことを沢山書くので、良いことが伝わっていないように思う。
足立幸子氏も、やっぱり、ぼーっとしたら思う通りになると言われていて(彼女の本は講演の書き起こし)、あまり余計なことは言っていないが、本1冊にすると、さすがに無駄な情報が満載だ。
参考程度に言えば、大野靖志氏の本で言えば、「とほかみえみため」と唱えるのは、普通の人にはあまり楽でないと思うが、彼の本についているCDを流すだけなら(スマホに入れて無音で流しても良いらしい)、楽なので、私でも出来た。尚、私の場合、安眠効果しか確認出来ないが、1か月以上、1日の例外もなく、安眠出来るのだから大したものだと思う。
ちなみに私は、普段は、耳鳴りを聴くことをやっている。それで自我が弱まるからだ。
各自、工夫されると良いと思うが、楽なことをやることをお勧めする。








われ思わず、ゆえにわれあり

お釈迦様の前世とされる、こんな話がある。
前世の釈迦は、羅刹(らせつ。人食い鬼)が歌っている歌を聴き、「おお、これこそこの世の真理」と思い、羅刹の前に出て頼んだ。
「この身体と引き換えに、歌の続きを聴かせてくれ」
羅刹は承知し、続きを歌うと、前世の釈迦は、少し待つよう頼み、その歌を、他の人が見ることが出来るよう、岩に刻んだ。
私は、それがどんな歌だったか覚えていないが、『平家物語』の冒頭の、「祇園精舎の鐘の声」から始まるものと同じ趣旨の内容で、この世の全ては無常であるというものだったと思う。

釈迦は、生まれ変わり死に変わりしながら、人々を幸福にしようとし、そのためには、この世の究極の真理を発見し、それを人々に知らせれば良いと考えたのだろう。
そして、釈迦が発見した真理とは、やはり、一切は無常であるということと思う。

ルネ・デカルトも究極の真理を探したが、彼は、人間とは軽率であることを心得ていた。
そして、謙虚な彼は、自分も特別ではなく、やはり、軽率だと認めていた。
それで、本当の真理でもないのに、「これが真理だ」と思い込むことを恐れた。
そこで、「疑いようもなく明白だと確信出来ない限り、つまり、単に真理のようだと思える程度のことは、全て、即座に間違いと断ずる」という非情のルールを作った。
しかし、疑いようもなく明白なものなど、どこにも存在しない。
つまり、真理なんてまるで見つからない。
どれほど正しいと思えても、疑おうと思えば疑える。なら、それは真理ではない。
ところが、ある時、気付いた。
「何でも疑っている私が存在している」
これだけは疑いようがなかった。
見事、真理発見である。
デカルトは、この真理を、
「疑っている私は確実に存在する」
とした。
それは、誰かによって、有名な「われ思う、ゆえに、われあり」という言葉になった。

だが、これには、子供でも分かるミスがある。
「疑おうが疑うまいが、思おうが思うまいが、私は存在する」
からである。
つまり、究極の真理とは、「私は存在する」だ。
実は、キリスト教でも、ヒンズー教でも、真の教えは「私は存在する」であるのだと思う。
現在は、そのように考えられていないと思うが、私はそう確信している。
しかし、それでも、いまひとつ引っ掛かりがあった。
いや、正しいのだが、表現が悪いのである。
すると、ルドルフ・シュタイナーが納得出来るよう語ってくれていた。
それは、
「われ思う、ゆえにわれなし。われ思わず、ゆえにわれあり」
である。
だが、いくら何でも、これでは不親切で、何のことか分からない。
そこで、丁寧に言えば、
「自我である私が考えている時、真の私である神は隠れている。しかし、自我である私が考えていない時、真の私である神が現れている」
である。
とりあえず、今回は、究極の真理を提示する。








魔法使いになれるヤバい話

事業家で世界一の富豪イーロン・マスクは、この世界はシミュレーテッド・リアリティという、いわばコンピューターが作り出した仮想世界であると断言しているそうだ。
ところで、私は、7歳くらいの時と思うが、それを直観的に見抜いていた。
もちろん、当時は、仮想世界なんて考え方はしなかったが、とにかく、この世界が「作り物」であることは薄々気付いていた。
別に私が特別なのではなく、子供が喋ることを注意深く聞いていたら、子供にはそんなことは分かっているのだと思う。
例えば、子供は、家の中の物・・・例えば、時計やテレビや人形が、前はこんなじゃなかったと言うことがあるが、大人は、それは単なる子供の気のせいとしか思わない。
だが、実際に、それらの物が、子供が言う通り、微妙に、あるいは、全く違うものに変わっているのかもしれない。
いや、実は、我々だって、今見ている物は以前見たものと違うのかもしれないが、それに気付かない、あるいは、気付いてはいるが無視しているだけかもしれない。

世界が作り物だということを確認する実験は意外と簡単である。
何でもいいが、平凡な物(平凡と感じる物)で、動かない物の方がやり易いかもしれない。
実際は、特殊な物や動く物でも構わないが、特に最初は、ありふれていて、静止している物の方が良いと思う。
私は、7歳の時、意識的にやった実験では、ドアノブ(銀色の金属製で丸いドアノブ)を使ったことを憶えている。
そのドアノブをじっと見るのだが、集中して見るというのではなく、さりげなく、しかし、視線は動かさずに見る。
そして、何も考えないのだが、視線を何かに固定していると、考えないことは難しくないと思う。
それで言えば、文字が書かれていないものの方が良い。なぜなら、文字が書かれていたら、それを読むことで思考が働くからだ。
何かを、何も考えずにじっと見ていたら、すぐに、変な感じがしてくる。
私は、その感覚に夢中になった。
その物が、一瞬前には、存在していなかったという感覚・・・というより、実際、存在していなかった。
この瞬間に、それは生まれたのだ。
「世界5分前仮説」というものあるが、それは、世界は5分前に生まれたのかもしれないというものだ。
5分より前の世界の記憶はあるが、その記憶は心の中に現れる偽物だ。
そして世界は、5分前どころか、今この瞬間に生まれていて、記憶もまた、今この瞬間に「捏造」されているのだ。

この実験は、そこそこにやった方が良い。
世界が瞬間に生まれていることを意識すると奇妙に感じるのは、ひょっとしたら、世界のこの有り様に対し、脳のキャパシティが追いつかないのかもしれない。
そうであるなら、あまり続けて、脳の情報処理にエラーを生じさせ続けたら、深刻なトラブルに陥ってしまうかもしれない。
実際、これを長くやると、吐き気を感じる。
サルトルの有名な小説『嘔吐』は、フランス語の原題を直訳すれば「吐き気」になるらしいが、サルトルは、そんなことを自分の世界全体に見ようとしていたのかもしれない。
そんなことをすれば、いかに優秀なサルトルの頭脳を持ってしても、狂気に陥るはずだ。

ただ、この感覚を掴み、少しの意思を潜り込ませれば、世界を自由に構築出来る。
どうやるかというと・・・って、こんなこと、こんな気楽にバラして良いものかと悩まないでもないが、少し練習は必要なこともあるし、慣れれば、そんなに面白くもないから、とりあえず書いてみよう。
何かをさりげなく、考えずにじっと見る時、その物の存在があやふやになるが、その物を存続させることに執着しないことだ。
つまり、それがないならないで良いとするのだ。
そして、存在するのは、その物ではなく、見ている自分の意思であるという単純な事実を思い出すのだ。
つまり、世界は自分の意識が作っているのである。
それなら、世界を好きなように作れる可能性があることが了解出来るだろう。
だが、心には、何かロックがかかっている。
そのロックを外すことが出来れば、もう魔法使いになったも同然である。
そして、魔法使いになっても支障のない精神力を持てば、実際にロックは外れる。
おそらく、本物の魔法結社なんてのは、魔法使いに相応しい精神力を作るノウハウを持っているのである。








最悪の状況から人生を大逆転させた祈り

人生がうまくいっていない人も多いだろうから、何度か書いたエピソードだが、本当に人生がうまくいっていなかった人が、人生を大逆転させた「お祈り」について、少し詳しく書く。
仕事が面白くない人、そもそも、仕事がない人。
そして、お金がない人、いや、借金に苦しんでいる人へ。

以下は、夏目志郎さんという、中国出身の世界的セールスマンだった人の本に書いてあったことだが、どの本だったかはもう分からない。
そして、かなり昔読んだことでもあり、正確ではないと思うが、重要な部分では合っていると思う。
夏目さんは中国の名家の出身で、戦後まもなく、日本で事業で一旗揚げるために、懐に大金、そして、高級外車と共にやってきた。
ところが、すぐに詐欺に遭い、大金を失くすばかりか、莫大な借金を背負ってしまう。
失意の中、夏目さんはクリスチャンになり、英語も出来たので、ボランティアでアメリカ人宣教師の手伝いをして、キリスト教の普及活動を行い、貧しいながら充実した日々を送っていたが、交通事故に遭い、重傷を負って入院する。
もう踏んだり蹴ったりの中、夏目さんは、最後の頼みの綱である神様に、こう祈った。
「神様、これまでの私の人生の失敗は私の責任です。だけど、今後の人生については、あなたに責任を取って欲しい。私ももう35歳です。これはという仕事を下さい」

以上は、以前も書いた。
しかし、これが、恐ろしく科学的で正しい祈りであることは、最近気付いた。
「これまでの人生の失敗が私の責任」というのは、当たり前のようで、その正しい意味が分かる人はいない。
つまり、夏目さんは、人間のちっぽけな力だけを使って成功しようとしたのだが、それが間違いだったのだ。
自分の努力だけで成功した人はいない。そんなことを目指すと悲惨な目に遭う。
人間の側から見れば、成功なんてのは「たまたま」でしかない。
正直な成功者は皆、「私が成功したのはたまたまだ」と言うのだ。
その「たまたま」をどう掴むかが重要だ。

そこで、夏目さんは神様に、「あなたにまかせる」と言い、その決意として、「だから責任取って」と、一見、とんでもないことを言う。
だが、これは、昨日の記事、
★自分が脇にのけばうまくいく
の、末期癌で3ヵ月の余命を宣告された女性と同じことをやったのだ。
その女性はこう言っている。
「以前いた“私”はもういなくなった。私は脇にのいた」
神様に責任を渡すとは、人生の全てを神様に預けた・・・あるいは、自分の人生を明け渡したということだ。
これにより、夏目さんの自我は脇に退き、「いなくなった」のだ。
すると、夏目さんが祈った翌日、百科事典販売会社がスカウトに来たのである。
まあ、人生を預けた相手は神様なのだから、大企業のサラリーマンになるより堅い(笑)。

このようなことは、新約聖書の福音書では、イエスの言葉として、こう述べられている。
「汝、破れたり。私の後方に退けサタン」
サタンは自我である。
そして、「私」はイエス個人のことではない。
神である純粋な意識のことで、イエスの中にあるだけでなく、誰の中にもある。
純粋な意識とは何かというと、存在の自覚で、「私は存在する」という感覚である。
変なことを言うと思われるかもしれないが、こう言うしかないのである。
普通の人には、なかなか分からないかもしれないが、重病で余命わずかになるなど、自分の力で対処不能な状況になると自然に分かるかもしれない。
自分も分かりたければ、「私は存在する」あるいは「私は在る」と心の中で繰り返し、静かに、ゆっくり、丁寧に唱えると良い。
すると、ふと分かる時が来ると思う。
「私は在る」が本当に神だからだ。
そうやって、自我が退き、神である存在の自覚「私は在る」が現れると、その女性や夏目さんのようになるのである。
何度も紹介して恐縮だが、重要なので再度書くと、
・トーシャ・シルバーの『とんでもなく全開になれば、すべてはうまくいく』の「死という助言者」の章。
・ネヴィル・ゴダードの『新装版 世界はどうしたってあなたの意のまま』
が参考になると思う。








悪い「自分がない」と良い「自分がない」

「自分がない」という言葉は、そのままで、良い意味と悪い意味に使われる。
悪い意味で使われる時は、かなり悪い評価であるが、良い意味で使われる時は、特上以上の評価になる。

悪い意味で「自分がない」と言われる場合は、
・主義主張を持っていない
・信念がない
・個性がない
・責任感がない
・自主性がない
・特技がない
・自己確立していない
といった意味になると思うが、一言で言えば「幼い」ということで、「大人になっていない」「未熟である」ということと思う。
では、良い意味で「自分がない」と言われる場合は、
・余計な自己主張がない
・激しい思い込みがない
・こだわりがない
・極めて謙虚であり、優越感を持っていない
・自分を勘定に入れない
・手柄を主張しない
などが考えられるが、これも、一言で言えば、「円熟している」ということで、良い意味で「大人」だということだろう。

賢者や聖者は子供のようであると言われることがあるが、正しくは、「ある意味、子供のようである」と言うべきだろう。
つまり、似たところがあるが、全く違うものである。
逆に言えば、全く違うのに、とてもよく似ているところがある。
では、賢者と子供は、どんなところが似ているのだろう?
それは、「しつこくない」とか「柔軟である」とか「からっとしてる」といったものだ。
例えば、子供は、遊んでいる時は夢中になっても、遊びが終われば、もうそのことは忘れている。
ある意味、「忘れっぽい」のだが、これに関し、賢者のこんな話がある。
賢者とはいえ、怒らないわけでなく、怒りっぽい賢者もいるようだ。
しかし、怒りっぽい賢者は、ついさっき激怒したかと思うと、今は上機嫌であるといったように、「しつこくなく」「柔軟で」「からっとしている」。
それは、「こだわりがない」という美徳とも思える。
これは、賢者も良い意味での子供も、「今、ここに生きている」ということなのだ。

良い意味で自分がない者は、「今、ここに生きて」いる。
悪い意味で自分がある者は、「過去、未来に生きている。
悪い意味で自分がない者は、「生きていない」。

自我というものは必要である。
つまり、良い意味で自分を持つことは絶対に必要だ。
そのためには、必要な経験を積まないといけない。
だが、賢い人は、自我が透明になり、ある意味、「子供に帰っていく」のである。
普通は、老人になれば、自然に自我が弱まるが、若いうちに自我が透明になる・・・つまり、良い意味で「自分がなくなれば」大物になったり大成功する。

ところで、極めて稀だが、幼いのに、良い意味で自分がない者がいる。
天使のような存在で、実際、そのような子供を見ると天使だと感じるし、それが本物の天使かもしれない。
美少年や美少女というだけでも、外面は確かに天使のようと感じることが多いが、本物の天使は、最初に述べた、良い意味で自分がない。
一方、容姿が優れた子供は、悪い意味で自分が出来てしまう・・・つまり、自我が強くなり、中身は天使と真逆になってしまうことがよくある。
初音ミクさんのことを「ミクさん、マジ天使」と言うが、確かに、美しく人気者でありながら、少しもそれを鼻にかけず、謙虚で控えめな発言しかしないのだから、天使でしかない。
また、初音ミクさんは、キャラクターの設定が弱く、「好きな食べ物」や「趣味」みたいな設定がなく、これが、良い意味での自分のなさにつながっている。
一方、中国のボーカロイドは、親しみを感じさせようという戦略と思うが、人間のアイドルのような面を強調することがよくある。これは失敗であると思う。

先程、若いうちに、良い意味で自分がなくなると大物になると述べたが、大成功というのでなくても、本当の成功というのは、良い意味で自分を捨てなくては得られない。
私は、その良い例を3つストックしているが、適用はこれからである(笑)。
内、1つが、昨日(5月26日)の記事、
★自分が脇にのけばうまくいく
で取り上げた、癌で余命3か月を宣告されながら、結局、神になってしまった女性の話である。
後の2つは、五島勉氏の『ノストラダムスの超法則 死活の書』の初めのあたりに登場する若い騎士サンピエールの話と、世界的セールスマンであった夏目志郎氏のどれかの本にあった、失敗続きだった彼が神に祈った言葉「これまでの人生の失敗は私の責任。しかし、今後の人生はあなた(神)に責任を取って欲しい」である。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
Kay Twitter Home

執筆のご依頼




最新コメント


月別アーカイブ
記事検索
ブログバナー&Mail


メールはこちらへ

PV since 2010/09/08
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

人気ランキング参加中
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ ひきこもりへ


タグクラウド
QRコード
QRコード