ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2021年04月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

働かずに生きる

多くの現代人の夢は、働かずに快適な生活を送ることだ。
もちろん、定年まで働いて3千万円ほど貯金すれば、それが可能だが、そういうのではなく、若い間に、貯金なしの状態で、そうあればというのだろう。
だが、ベーシック・インカム(全国民に国から毎月平等な金額が支給される)が実施されたところで、せいぜいが月10万円程度だというから、良い生活は出来そうにない。
陰謀論やスピリチュアル系の人々の間では、NESARA/GESARA (ネサラ/ゲサラ)という経済システム構想が本当に実現し、全員が経済的に豊かになるという話があるが、そのポイントは、富の再分配の実現・・・つまり、富裕層が富を手放す必要がある。
これについては、陰謀論のようなものとは違うが、 長谷敏司氏のSF小説、あるいは、それを原作とするアニメである『 BEATLESS(ビートレス)』で、超高度AIである美少女型アンドロイド、レイシアが目指し、保留の形で終わっているが、私は、案外に実現出来るのではないかと思った。

ところで、願望を実現する秘訣は、「願望が実現した時の準備をする」ことである。
例えば、ミュージシャンになりたいなら、ミュージシャンになった時の準備をしないといけないのに、ほとんどのミュージシャン志望者が、それをしていない。
天使になりたいなら、天使になった時の準備をすれば良いのだが、天使志望者のほとんど誰もそれをしないので、ほとんど誰も天使になれないのである。
では、働かずに快適な生活をしたければ、そうなった時の準備をしなければならない。
しかし、例えば、大企業で真面目に働いて、それなりに貯金し、退職金もたっぷり貰い、年金もあったりで、十分悠々自適出来るのに、そうなったらなったで退屈してしまい、精神的に安らかでないのは、やっぱり、そんな夢の生活に対する準備をしなかったからだ。

働かずに生活すると言ったところで、本人は働いているつもりはなくても、社会に貢献している場合もある・・・というより、ほとんどの場合、そうなる。
本当の仕事というものは、やってる本人にとっては、従来の意味での仕事とは思わないものなのだ。
そもそも、誰かが仕事をしないと、衣食住といった人間の生活に必要な基本的なものすら供給されなくなる。
それに、人類には、テクノロジーや産業も必要だ。
だが、あらゆる生産活動に関し、報酬を得るためではなくても、それをやりたくて仕方がない人が沢山いるのであり、それを効率良く行える社会システムになれば、仕事は、質も時間も含め、実に高度で、なおかつ、楽しいものになる。

しかし、社会が変わるのを待つ必要もない。
実のところ、もう、そういったことが出来るほど、社会は変化しているし、少なくとも、その一歩手前であり、その気になれば、各自においては、今すぐ実現可能である。
それにはやはり、そうなった時の準備をしなければならない。
既に申し上げている通り、働かないと言っても、それは、怠惰になることや、ロクでもないことをすることを全く意味しておらず、これまでと比較にならないほど創造的になるのである。ただし、そんな活動を仕事とは感じないのだ。
だから、準備も創造的なものになる。
とは言っても、難しいことではなく、単に、人間本来の能力を目覚めさせれば良いだけのことである。
そのためには、学校やマスコミに刷り込まれた洗脳を持っていては話にならないので、ある意味、「目覚めなければならない」。
こう言ったら、何やら苦しい修行をしなければならないように思うなら、バッチリ洗脳されているということだし、甘い間抜けなことを考えているなら、洗脳を通り越して歪んだり腐ったりしてしまっているのだ。
実際、準備が出来ている人というのは、ブラックに近い会社に入っても、なんとかやっていけるものなのだ。
そのために、決して、「とほかみえみため」と唱えさえすれば良い式のことを私は言わないが、そのようなものを自分で調べて根気よく試せば、道は開けてくる。
そう、「神様の奇跡が起こる」と唱えれば良いのである。

尚、大野靖志氏の『とほかみえみため』の書籍のPDFが、このYouTube動画の概要欄のリンクからダウンロード出来る(今のところだが)。
【初音ミク】銀河を祓う『とほかみえみため』40回
メールアドレスの登録は必要だが、別に何も要求されないし、毎日DMが来ることもない(今のところ、登録時の確認・案内メール以外には来ていない)。
無料だし、参考になり、面白いと思うので、興味があれば読んでみると良いと思う。
※追記
メール、昨日まで来てなかったと思うが、急に3通来ていた。今後も来ると思われる。そういうのが嫌な方はご注意を。








美しい言葉に神が宿る

人間は奇跡を起こすことが出来るし、どこまでの奇跡を起こすことが出来るかというと、おそらく限界はない。
天井知らずというものである。
では、その奇跡の力の元は何かというと、国や地域や宗教によって、いろいろに言われている。
神に祈って奇跡を起こしてもらうとか、目には見えない霊の力を借りるとか、目に見えることもあるが超自然的な存在・・・天使、精霊、魔神、仙人、導師、天狗などに助けてもらったり、あるいは、打ち出の小づちや魔法の杖といった魔法のアイテムを使うなどである。
つまり、多くの場合、人間自体には力はないが、その人間の性質が良いとか、行いが良い、あるいは、「たまたま」力が与えられて、初めて奇跡を起こせる。

だが、これこそが、シークレット中のシークレットであるが、実は人間自体に奇跡の力がある。なぜなら、人間は本当は神のようなもの、あるいは、神そのものであるのかもしれないからだ。
人間が神であるとは畏れ多いことであり、信じられないことと思うだろうが、なぜ、そう思うのかというと、これがさらにシークレットなのであるが、そう思うよう仕向けられたのかもしれない。
人間が、自分は力のない存在であると思い込むよう操作されているのかもしれないが、なぜ、そんなことになっているのかというと、まあ、それらしい諸説があるが、それを詮索するのはやめる。
人間には神の力があるのである。

では、どうやれば奇跡を起こせるのかというと、聖書に書かれてある通りで、神が「光よあれ」と言えば光が生まれたように、言葉で命じれば良いのである。
だが、その命じる言葉は、神に相応しく、美しくなければならない。
美しいと言ったら、現代人は、飾り立てたものという概念が強かったり、そもそも、醜いものを美しいと思い込まされているのだから、ますます、神の力の行使から遠ざかっている。
美しいとは、安らぎを与える優美さや、自然で透明であること、凛として誇り高いこと・・・などであるのに、今は、奇抜なファッションや、醜悪なメイクを施した人気歌手を美しいと感じるまでに感覚を歪められている。
何よりも、言葉が穢れ、そんな言葉では神の力を起こすことは出来ない。

昔から、神に近い力を行使する存在は、その力を美しい詩の言葉で起こしたものである。
日本には、和歌や俳句があり、中国には、「五言絶句」「七言絶句」「五言律詩」「七言律詩」といったものがある。
西洋の詩も、形式に従った美しいものもある。
形式が必ずしも必要ではないかもしれないが、形式を決めた方が、言葉の美しさが際立つのである。
本来、美しい詩(和歌や俳句、漢詩なども含む)の言葉には、神威とでもいうものがあったが、詩は、世を儚むことや、単なるセンチメンタリズムに使われることも多くなった。
それも、何者かに操作されてそうなったのか、情緒を探求するうちに道を間違えたのかは分からないが、力のない詩が出て来て、困ったことに、そんなものが評価されたりもする。

我々は、和歌を学ばないまでも(もちろん、学ぶのが良いのだが)、ある程度は美しい言葉を身に付け、汚い言葉を避けなければ、神の力は行使出来ない。
そして、美しい言葉をマイナスの力を発生させることに使ってもならない。
過度なセンチメンタリズムや悲劇に酔うことには注意しなければならない。
また、たとえば、宮沢賢治の詩や文学は美しいが、彼の日常の言葉は、必ずしも美しくはなかったと思う。彼も、生活の中では、諍いも多かったと思われる証拠もある。
まあ、彼に限らず、優れた詩人や作家には、そのような者も少なくはなく、そういった者達は、あまり幸福ではなかった。
そして、美しい言葉が、まるで、商売用になり、自分のために使うことがなかったのかもしれない。
そういったことが起こることもまた、誤った宗教や哲学のためであるのかもしれない。

我々は、願いを美しい言葉で表明し、命じなければならない。
決して、飾り立てた言葉を使うというのではなく、普段から、美しい・・・親切で温かい、悪くても、汚い言葉、悪意を含んだ言葉を使ってはならない。
それは少しも難しいことではない。
そして、心からの願いは、よく考えて、せめて恥ずかしくない言葉で示さなければならない。
そのためには、少しは美しい言葉を学んでおくと良いと思う。
何と言っても、日本には、美しい言葉が非常に沢山あるのである。








魔法は簡単に使える

呪文、真言、念仏、マントラ、祓詞・・・などについて、不意に思いついた。
実は、これらの言葉は、何ら特殊なものではないということだ。
念仏の「南無阿弥陀仏」は、普段使わない言葉ではあるが、単に、「阿弥陀如来に帰依(きえ)します」という意味だ。
祓詞の「とおかみえみため」は、「とほかみよ、微笑んで下さい」という意味のようだ。
観音真言の「オン、アロリキャ、ソワカ」も、単に、古いインドの言葉で、おそらく、観音様(アヴァローキテーシュヴァラ)を褒め称える言葉なのだろう。
「大祓祝詞」は、葉室頼明氏によれば、神の言葉であって意味はないというが、確かに、深い意味においてはそうかもしれないが、やはり、言葉としての意味はある。

確かに、優れた真言や呪文は、美しい高貴な言葉が使われているに違いないが、過度に高邁な言葉という訳ではなく、むしろシンプルな言葉なのだと思う。
例えば、和歌で使われるような言葉だ。
実際、万葉集の中にある美しい歌には、神秘的な力があるということはよく言われているように思う。
インドの聖音「オーム」や、ラピュタの滅びの呪文「バルス」だって、言葉としての意味があるのかもしれない。

優れた呪文や真言には、強大な力があると言われ、かなりの実証確認やエビデンス(根拠)もあるのかもしれない。
だが、やはり、その多くは、普通の言葉なのだ。

だから、我々も、言葉の力で奇跡を起こしたい時は、普通の言葉を使えば良いのではないだろうか?
もちろん、軽薄な言葉、ましてや、汚い言葉では駄目であると思う。
なんと言っても、「言葉は神」なのだから(新約聖書、ヨハネ福音書)。
美しい言葉、高貴な言葉であるに越したことはないが、悪意のない、丁寧で素直な言葉であれば、普通の言葉にだって力はあるのだと思う。
これについては、私は経験的に確証がある。
何度も書いたことがあるが、私は7歳くらいの時、住んでいた団地の前の車道の交通量が多く、車道の向こうに行くには、遠くの信号まで歩かなければならなかったが、それが面倒で嫌だった。
それで、皆さんは決して真似してはならないが、私は、目をつぶって車道に飛び込んで渡っていた。これは、後に姉が、この私の愚行を証言している。
私は、車道に飛び込む前に「目をつぶって飛び込めば車は来ない」と唱えていた。
それで、私は、奇跡的に、一度も車に跳ねられることも、接触することさえなかった。
また、初めて天体望遠鏡を手に入れた小学4年生の時、天文の知識はゼロだったが、土星を見たいと思い、「土星を見れる」と唱えれば、やはり、適当に選んだ星が土星になった。
また、ある日、学校帰りに、いつもと違う、知らない道を歩きながら、「〇〇ちゃん(学年一の美少女)に会う」と唱えたら、その〇〇ちゃんが向こうから歩いてきた。
尚、唱えると言っても、意気込んだり、必死の思いで唱えた訳ではなく、さらっと唱えたのだと思う。
「言葉は神なりき」である。
コツは、無邪気に、軽く、しかし、凛と唱えることだ。
言霊とでも言うべきものだが、これについて、大野靖志氏の著書に非常に上手く書かれているので、最近よく読んでいる。








西洋流引き寄せの欠点

引き寄せの法則では、叶えたい願望を出来るだけ具体的にするよう言われる。
例えば、お金であれば、具体的金額と、入手期限だ。
これが西洋の成功哲学の大きな特徴なのであるが、なぜ、そうしないといけないのかというと、だいたい次の通りとなる。

(1)目標を明確にするため。
(2)緊張を高めるため。
(3)イメージし易くするため。

(1)であるが、自動車でどこかに行く時、具体的な目的地をはっきりさせないと到着しないのと同様に、具体的な目標が定まらないと目標は達成されないという理屈である。
(3)については、西洋流ではないはずの、合気道家で神道家の佐々木の将人(まさんど)氏も、「金が欲しい時、具体的な金額の札束を思い浮かべた方がリアリティがある」と、これを肯定していた。
だが、数値目標や達成期限に抵抗を感じる人が多いのではないかと思う。
私もそうなのだが、実は、数値目標と達成期限を決めることでうまくいったことがある。
セールスマンをやっていた、それも、駆け出しの頃、セールスコンテストで、売上金額と達成期限を設定したところ、金額も期限もピタリで達成し、セールスコンテストで優勝した。
しかし、その緊張感は、あまり楽しいものではなく、その後、やる気がなくなってしまった。
一言で言うと「しんどい」のである。
それを続けるには、よほどの執念が必要だが、たとえエネルギーがあっても、そんなことをやればやるほど疲弊するように思う。
また、セールスコンテストのように、条件がはっきりしている場合は良いが、やりがいある目標というのは、案外に未知の部分が多いので、目標を立てると、固定観念とか制限といったものが出来てしまうのではないだろうか。

ベルベル・モーアの『その望みは宇宙がかなえてくれる』に面白い話がある。
著者のモーア(女性)は、彼氏を宇宙に注文する際、望みの彼氏の条件として、「ベジタリアン」「太極拳が出来る」「タバコを吸わない」他の具体的条件を上げ、期限も何月何日と決めた。
すると、確かに、期限通りに条件通りの彼氏が出来た。
しかし、すぐ別れた。自分に合ってなかったのだ。
そこで、宇宙に注文し直した。
「私にぴったりの彼氏、頂戴」
今度はうまくいった。

世界的に有名なロンダ・バーンの引き寄せ書『ザ・シークレット』でも、目標金額や入手期限を設定することや、具体的イメージを絵に描いたり、ビジョン・ボード(ボードに、具体的目標を書いた紙や、望みのものに出来るだけ近い写真・絵を貼る)を作れと言うが、ビジョン・ボードでは期限が曖昧な成功事例を取り上げていたり、ある面では明確(彼女が5人欲しいなど)ながら、別の面では曖昧(どんな彼女がいつ出来るか)は問題にしていないなど、矛盾を感じたものだ。
『ザ・シークレット』は、面白いし、参考になるが、混乱させられた人も少なくないのではと思う。
一方、神道と最新テクノロジーから研究を行っている大野靖志氏の『和の成功法則』では、達成期限もビジョン・ボードも、さらには「ワクワク」も全部、明確な理由で否定するが、私には、こちらの方が納得し易かった。
つまり、やはり、それら(期限など)を設定すると、制限をかけてしまうのである。おそらく、それは窮屈で歪(いびつ)さも生むのだと思う。

私は昔、目標設定には数値や期限などの具体性を徹底して設定するという、ある世界的成功プログラムを購入し、そのプログラムの世界的セールスコンテストで優勝したセールスマンや、その人が所属する会社のトップと親しく付き合ったことがある。
しかし、そのセールスマンは、その会社をやめ、その会社の社長もぱっとせず、そもそも、その成功プログラムを開発した世界的成功者も、その実態は決して幸福ではなかった。

明確な目標は必要である。
しかし、特に未熟なうちに目標を具体化すると、やっぱりおかしなことになる。
研究の結果、願望を叶えるのに必要なものは「決心すること」だと分かっている。
そして、期限を決めて緊張するのではなく、ソフトタッチが必要なことは、数日前の記事、「【4月26日】ソフトタッチこそが極意」で説明した。
要は、上で述べた、ベルベル・モーアのように、宇宙に向かって「私にぴったりの彼氏ちょうだい」というノリが良いのだと思う。
ただ、モーアも、期限の設定や具体性は否定していなかったように思うが、彼女は、その後、あまり活躍せず、若くして亡くなっているように思う。
緊張や制限を避け、ゆったりとした気持ちでやることが必要である。
「画家になる」「可愛い彼女を作る」「健康になる」と、軽く決意すると良いのだと思う。








絶対の自信

「自信を持て」とよく言うが、自信は大切だし、それについて、最近、時々書いた。
だが、私がアメリカ最大の賢者と思う、ラルフ・ウォルドー・エマーソンが、「これくらいの自信を持て」というレベルは桁外れで、普通の人に言えば、誇大妄想狂と言われかねない、とんでもない高さである。
けれども、エマーソンは、決して、そんな気宇壮大な自信を、特別な人にだけに持てと言ったのではなく、人間であるなら、誰でも持つべきだと言ったのである。
例えば、偉大と言える素晴らしい絵画や彫刻を前にした時、我々は当然のように、こう考えないといけない。
「誰もが、私の評価を待っているのだ」
では、我々は、どんな評価を表明するかと言うと、単に、思いついたまま言えば良い。
ダ・ヴィンチもピカソも、私が良いと言えば、それが価値になる。
そのくらいの自信がなければ駄目である。
後で考えが変われば、その時にまた、違うことを言えば良い。
今、思うことを言えば良いのである。
後で違うことを言って、「一貫性がない」などと言われる筋合いはない。
私の基準に従うということさえ一貫していればそれで良い。

王子と乞食である、2人の少年が瓜二つであるという映画があった。
乞食の少年は、間違えて城に連れて行かれ、大勢の家来たちに慇懃(いんぎん。丁寧で礼儀正しいこと)に扱われる。
だが、それこそが、この乞食だった少年に本当に相応しい状態なのである。
「そんな阿呆な!」と思うだろうか?
いやいや、まだまだ甘い(笑)。

以前、ご紹介したことがあるが、エマーソンのエッセイ『History(歴史)』の冒頭に、こんな詩が書かれている。

I am owner of the sphere,
Of the seven stars and the solar year,
Of Caesar's hand,and Platon's brain,
Of Load Christ's heart,and Shakspeare's strain,

(訳)
私は世界の所有者、
七つの星と太陽年の所有者、
シーザーの手腕、プラトンの頭脳の所有者、
主キリストの愛、シェイクスピアの詩の所有者
~『精神について』(入江勇起男訳。日本教文社)4ページ~

この圧倒的な自信こそが、人間が持つべきものである。
だが、真の自信は冷静である。
奢らず、高ぶらず、ただただ静かである。
静かさを得れば、あなたはキリストを超えたもの、神である。
合気道の開祖、植芝盛平は、「各々が天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ。神道の最高神)にならなければならない」と言われていたようであるが、やはりそうなのである。
上のエマーソンの詩を暗唱して唱えるのも良いと思う。
もし、長過ぎる、あるいは、例が古いと思うなら、最初の1行「私は世界の所有者」だけでも良いと思う。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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