ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2021年03月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

現代的な呪文、真言の唱え方

呪文、マントラ、念仏などに、霊的な意味はないという考え方がある。
ただ、霊的な意味はなくても、重要な意味がある。
それは、思考を消すという意味だ。
呪文を唱えている間、心は他のことを考えることが出来ない。
心にいかなる想念もない時に、人間は超能力のようなものを発揮し、奇跡を起こす。あるいは、奇跡の媒体(あるいは中継点)になるのである。
いかなる危険な状態であっても、もし、想念が消え、無になれば、危害は及ばない。
風説も含まれるかもしれないが、報告された例では、爆発現場のごく近くに居たり、高いところから落ちてもかすり傷一つ負わず、毒を飲んでも何の影響も受けず、銃弾が飛び交う中にいても全く安全であったという話は多い。

自分の意思によらず、偶然のようななりゆきで、心が静かな状態になった人間の驚くべき話がある。
ある人物は、癌になり、医者に余命僅かと宣告されると、その事実を粛々と受け入れ、この世を去る準備を始めた。
死んだ後で、他の人になるべく迷惑をかけないよう、出来る限りのことをした。
借金を返済し、一切の持ち物・・・衣服や靴なども処分し、様々な契約を解除し、情報を必要な人に伝え、ただ死を待つことにした。
すると、その後の検診で、癌がすっかり消えていた。
死を受け入れることで、心が静かになったので、全てが自由自在になったのだ。
その後は、この人物は、何かを願うと、それが自動的に実現するようになった。

最近、よく取り上げる橋本健氏(理学博士)も、学生の時に、長く生きられないと医者に言われる中、『生命の実相』という宗教書を読み始めたら、内容に惹きつけられ、三日三晩読み耽った。
すると、すっかり健康になり、次々と幸運に恵まれるようになり(円滑現象と言う)、大金すら入って来るようになった。
これも、『生命の実相』を読むことで、心が消え、高次の世界と通じたのだろう。

呪文や真言を、果て無く唱えると、心が静かになり、高次の世界と通じ易くなるというのは、不思議なことではないと思う。
玄奘三蔵は、般若心経の呪文をインドの僧に教わり、それを唱えながら、中国からチベット経由でインドに行ったが、それは、極めて危険な旅で、野獣、盗賊、吹雪、ヒマラヤの絶壁といった障害に打ち勝ってインドに到着するのは博打にも等しいはずが、般若心経の呪文を常に唱えることで、余計なことを考えず、心静かであったので、あらゆる幸運が味方したのかもしれない。

呪文や真言に霊験があるなら、それはそれで良いことであるが、もし、そうでないとしても、想念をなくし、心が静かになるだけでも十分である。
アメリカの、とある精神の研究団体が、意味はないながら、想念を起こし難いものとして「ナ・ダーム」という言葉を作り、それを唱えさせたところ、絶望的な末期の癌が治るなど、数々の目覚ましい成果があったようだ。
「南無阿弥陀仏」という念仏にしたって、意味が分かる人もいるだろうが、念仏を唱えている間に、いちいち意味を考えることはないし、むしろ、肯定的な心的効果で心が静かになるだろう。実際、念仏を唱え続けるうちに、ある時不意に心が透明になり、世界と一体化したように全て自由自在になった人は少なくないと思う。
面白いのは「神様の奇跡が起こる」という言葉は、意味は明らかながら、「考えても無駄な言葉」なので想念は消え易いし、想念が消えた時に奇跡が起こる。
よって、例えばだが、次の言葉の中から、好みのものを選んで、繰り返し唱えると良いと思う。
十分な回数(心が静かになるまで)唱えるなら、都度、取り換えても良いと思う。

南無阿弥陀仏(念仏)
南無妙法蓮華経(念仏)
アジマリカン(神道呪文)
ナ・ダーム(想念を起こし難い言葉、意味なし)
ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー(般若心経呪文。サンスクリット語)
ぎゃてい、ぎゃてい、はらぎゃてい、はらそうぎゃてい、ぼじそわか(般若心経呪文。中国語音写)
アウム
阿吽(あうん)
神様の奇跡が起こる
オン、アロリキャ、ソワカ(観世音微札真言)
オン、アミリタ、テイセイ、カラウン(阿弥陀如来真言)
※自分の干支の守護仏の真言を唱えるのが良いという話があるので、各自、調べて欲しい(下にご紹介した『守護霊占運学』に詳細が載っている)。
他にも無限にあるだろう。

尚、ラマナ・マハルシによれば、最も心を静かにする言葉は「私」である。








生きる希望を持つ

イタリアの著名な社会学者、フランチェスコ・アルべローニの著作に、『生きるとは、希望をもちこと』という本がある。
私は、この本のタイトルだけで満足してしまい、かなり前に買ったのに、まだ読んでいない(笑)。
「生きるとは、希望をもつこと」
まさに、その通りだし、言い換えれば、人間は、希望がなければ生きていくことが出来ない。

ところが、おかしなことに、作家の小川洋子さんと心理学者の河合隼雄さんの共著に、『生きるとは、自分の物語をつくること』という本がある。
こちらは読んでみたが、やはり、本のタイトルが素晴らしい。
この本のタイトルも真理なのである。
つまり、こういうことになる。
「生きるとは、希望に満ちた自分の物語を持たないといけない」

易しい例を上げる。
上記の本の著者の1人である河合隼雄さんというのは、ユング派の凄い心理学者で、誰でも名前くらいは知っていると思うが、京都大学を定年退官される時の講義が『こころの最終講義』という本になっていて、これが分かり易いながら実に味わい深い素晴らしい内容である。
その中に、こんな話がある。
河合さんは、小学2年生の女の子の「神様への手紙」に大変に感激したらしい。
この女の子は、自分のおばあさんに、人間は死んだら月に行って神様になると教えられたらしい。
おばあさんは、まだ生きているが、おばあさんが死んだら、頑固な神様になるだろうと書いている。
そして、「自分もいずれ死んだら」月に行って、偉い神様になりたいと言う。
その時は、また、月で神様どうし、おばあさんとテレビのチャンネル争いの喧嘩をすると言う。
彼女は、おばあさんが大好きなのである。

いったい、何が河合さんを感激させたのかというと、この小さい女の子は「死んだら、月で神様になり、おばあちゃんと一緒だ」というファンタジーを持っていて、そのファンタジーが彼女を支えていることだ。
そのファンタジーが、彼女のアイデンティティになっていて、「死んでも大丈夫」な訳である。
もちろん、彼女のこのファンタジーは、いつか(そう遠くなく)なくなる。つまり、死んだら月に行くとか、そこで神様になるなんて話を信じるのは、後わずかだ。
しかし、その時は、別のファンタジーを持てば良い。
だが、大人になると、なかなかファンタジーを持てなくなる。
そこで、数百年に1人という大天才が作った宗教が、共通のファンタジーになる場合が多い。
だから、宗教を信じている人は、ファンタジーを持っているゆえに強いのである。
ところが・・・
現代の科学的価値観に生きている我々は、イエスが天国があると言い、仏教で「死んだら極楽浄土に行く」と言っても、そのファンタジーを自分のものに出来ない。早い話が信じられない。
よって、自分のファンタジーを持てず、生きる力が湧いてこない。

生きるとは、希望を持つこと。
希望を持つとは、自分の物語を持つことで、その物語とはファンタジー・・・つまり、おとぎ話である。
「いや、おとぎ話でなく、現実の物語を」と言いたい人もいるだろうが、そんな希望のある現実の物語こそ、なかなかない。
では、どうすれば・・・

ところが、そこから、河合先生は、長くて難しい話をしてしまう。
つまり、河合さんにも分からないのだ。
イエスの時代なら、イエスが言う通り、「幼子(おさなご)のようにならないと天国に入れない」と言っても良いのかもしれないが、我々は幼子になれないし、だから、天国を本当には信じていない。

だが、我々がファンタジー(おとぎばなし)と思っていることでも、本当であることは「実は沢山ある」のである。
ところが、闇の権力者達が、我々一般国民に、「そんなものは絶対ない」と洗脳してしまった。
だから、大多数の人は、生き甲斐がなく、生きる意欲が乏しく、生命エネルギーが弱い。それはつまり。希望がないからである。
では、「ない」と信じ込まされたファンタジーが「ある」と分かれば良いのである。
それは、闇の権力者達にとって、凄く嫌なことなのだ。
その一番簡単なやり方が、「神様の奇跡が起こる」とずっと唱えたら奇跡が本当に起こることだ。
そりゃ、これは、闇の権力者達の洗脳と対立するのだから、最初は抵抗があったり、そう簡単にはうまくいかない。
「アホらしい」とも思う。
しかし、愚直に続けたあのホームレスは、これで1憶円を2回当てたのである。
そして、そのホームレスは、自分には奇跡の力があるのだから、希望があり、生きていけるのである。まあ、2億あれば一生、生きていけるが(笑)。
別の言い方をすれば、自分には、世界を自在に創造する力があること、言い換えれば、超能力があると分かれば良いのである。
最近、ここでよく取り上げている橋本健博士も、人間に大変な超能力があることを、実際に超能力を使えるようにすることで教えようとしていたのだ。
つまり、希望とは、創世(世界を自由に作ること)の力とか、超能力といったものを自分が持っていることを知ることである。








高貴な人物の魂の注入を受けパワーアップする

最近、著名な発明家の橋本健氏(理学博士)が、哲学者でヨガ指導者の本山博氏(文学博士)と共著で書いた『超能力入門』(1983)を読み、久々に感動した。
橋本博士は、超能力に関し、現代科学で解らない部分は解らないとしながらも、なるべく道理に適った仮説を立て、解り易く説明されている。
ただし、この本は、決して、超能力の理論的解明を目指したのではなく、あくまで、応用・・・超能力を人生の幸福や人類の進歩に役立てることを目指しており、その目的な十分に果たしたと思う。
私には、そう考える理由がある。
それは、こんなことだ。
これまで、引き寄せの法則や、潜在意識による成功法則について、このブログで書いたり、1対1、あるいは、セミナーで教えたこともあるが、どれほど簡単で誰でも出来る、そして、確実な方法を教えても、どうしても駄目な者が現実的にいる。
なぜ、この者達が駄目なのかは、なんとなくは分かるのだが、はっきりしないところもある。
そんな者を見る度に、不思議な感じがする。
「なぜ、この人は、そんな考え方をするのだろう」
「なぜ、この人は、こんな楽なことが出来ないのだろう」
「なぜ、この人は、こんなに心が歪んでいるのだろう」
ちょっと貶してしまったが、そんな人の中には、頭も良く、人間性も素晴らしい信頼出来る人だっていたのだが、なぜか、ツイてなく、良い思いが出来ず、苦労をしょい込み・・・早い話が損ばかりしている。
まあ、もちろん、それは、根本的には、学校やマスコミの洗脳のためである。
ほとんどの人が、ちゃんと学校を出ており、それなりにテレビを見ているので、その影響で、日本人のほぼ全てが、精神がすっかり駄目になっているのである。
それは分かっているのだが、特に、頭や身体が立派で、人間性も悪くない人が、そんなに駄目な様子を見ると、本当にがっかりするのである。

ところで、さきほど述べた『超能力入門』は、最後にこう書いてある。
「この本を読んだあなたは、既に超能力者だ」
その通りであるし、それくらい自信がなければ、こんな本を書くべきでない。
そして、実際、自信に満ち溢れた本である。
昨今の、「結果がどうなるかはあなた次第です」的な、逃げを打った安っぽい引き寄せ本とは格が違う。
そして、『超能力入門』自体が、超一流の引き寄せの本である。
とはいえ、私も、書いてあること全部に納得した訳ではないが、そんなことはどうでも良かった。
著者の魂が読者の中に入り込み、強い肯定的な作用を与えるのである。
そして、この本の2人の著者が崇高な魂の持ち主であることは間違いないと感じたので、きっと素晴らしい影響が得られるだろう。
確かに、橋本博士は、ある宗教のおかげで若い時に命拾いした経験から、その宗教のことや、その宗教の教祖が書いた書籍を取り上げているが、決して、入信を薦めている訳ではない。

私が見た、残念な人達も、魂の注入により変わるだろうかと思う。
まあ、セミナーなどで見られる「カリスマ支配」という、偉大な人物に接したら、数日ほど、熱狂して自分が偉くなったように感じる妄想現象があるが、私もそんな状態なのかもしれないので(笑)、もう数日、様子を見ようと思う。
ただ、橋本博士は、驚くほど謙虚な人で、私は、付き合いはメールのやり取りだけだったが、それでも十分にお人柄が伝わって来た。
今は知らない人が多いだろうが、少し前に、テレビや書籍等で、超能力などの超常現象を徹底否定していた、大槻義彦氏(理学博士。84歳)という、素晴らしい実績のある立派な物理学者がいて、私も結構ファンだった(笑)。
橋本博士は、当時、早稲田大学の教授だった大槻博士と一緒にテレビ出演もされたそうだが、橋本博士は、「僕は議論は苦手で、大槻先生にはずっと批判されっぱなしでした」と言っておられた。
大槻教授の超能力批判は、教育的信念に基づいたものであり、非常に称賛すべきものである。
しかし、まだ未知の部分に、強引な論理を持ち込もうとすると、いろいろ無理も出る。
だから、稲森和夫氏のように、あるいは、『ラーマーヤナ』のラーヴァナの教えのように、「私心なきか」を問い、もし、そうであれば、自分の直観に従うことも必要である。
私心なき直観こそが、真の意味で人類を進歩させてきたのである。

尚、橋本博士の本は沢山あるが、超能力などへのアプローチの方法を変えてあるだけで、中身としては、どれもほとんど同じなのではないかと思う。
少なくとも、本当に重要なことは、どの本にも漏れなく書いておられ、とりあえず、どれか1冊読むことは良いことと思う。
古書によっては高価であるが、橋本博士の本はベストセラーが多く、比較的安価な古書も少なくない。








アインシュタインもビル・ゲイツも頭が良くないから成功した

国語が0点でも読み書きに全く支障はないし、変な言い方だが、地理や歴史が0点でも、地理や歴史の知識を得るのに支障は全くない。
古文が0点でも、古典に興味を持てば、支障なく古文に詳しくなる。
数学が解らないのは問題だが、数学が嫌いとか不得意だというのは、算数や数学の先生が嫌なやつだったという理由だけである。
別に、嫌われる先生を死刑にする必要はないが、先生を替えれば良かっただけであり、誰からも好かれない先生は辞めてもらうしかない。
アメリカでは、学校の授業よりずっと面白くて分かり易い無料のオンライン授業があるが、それは、日本でも出来るし、実際、出来るようになりつつある。

実際は、学校に行く必要は全くない。
単に、他者と交わるコミュニティーが必要なだけである。
そのコミュニティーも、学校のように、同じ年齢の子供を集めて隔離したら。有害さが有益さをはるかに上回ることは、少々馬鹿でも分かるはずであるが、教育関係者達には解らないようなのだから、そんな最低の馬鹿が運営する学校に行く必要はますますない。
現在の学校はただちに解体し、現在の教育関係者とは全く異なる賢い人達によって、子供達にとって有益なコミュニティーを作り運営するようにしなければ、人類に未来はない。

そうは言っても、教育がまともになる可能性は、日本では、少なくとも当面の間は全くないので、各自で上手くやるしかない。
実際は、教育関係者がそんなに馬鹿なのではなく、昔から、権力者達は学校を今のような(超お馬鹿な)形に留めたがるという理由で、国民は馬鹿になるために学校に行くのである。
教科書の内容自体は、そんなに悪くない。
よって、楽に60点取れるような勉強の仕方が出来れば良いだけであり、それは可能である。
ただ、数学と物理と化学は80点が取れるくらいの知識と理解を持っておく必要があるが、それも少しも難しくはない。
数学の80点と100点に別に違いはなく、100点が取れるまでやるのは時間の無駄だ。
言い換えれば、本質を理解した上での80点が良く、本質が解らないのにテストで100点を取るのは愚かである。

上に挙げたことは、インターネットを使えば、もはや簡単なのであるが、あちこちの団体や企業が独自にやっているので、どれが良くてどれが劣悪か分からない(劣悪なのもあるはずだ)。
良いものが1つである必要はなく、複数で競い合うことでより良くなっていくのだが、学ぶ方が、何を選ぶべきか分かるように整備してあげる必要がある。
オンライン授業は、無料、あるいは、極めて安価でなければならない。
カーン・アカデミーは完全無料だし、もし、いくらかでもお金を取るとすれば。それは、サービスに対するお金であり、教育コンテンツを商売にしてはならない。
そうでない塾や予備校も不要である。
学歴がなくても、必要な知識や能力があれば良いのであるから、学校無用の時代は、もうすぐ・・・というより、もう来ていると思っても良いかもしれない。

あまり正確な話ではないかもしれないが、有名な脳科学者が、こんな話をしていた(ネットで見たが、何のサイトだったかは分からない)。
マイクロソフト社を創業したビル・ゲイツが高校生の時、教師はゲイツに、「お前はプログラミングだけしていろ。そうすれば、他の科目の単位もやるから」と言って、その通りにしたらしい。
これが当たり前にならなければならない。
私の場合、どの教科も満遍なくやらないと怖い目、不快な目に遭わされる普通の学校だったので(社会の教師に「いくら数学が出来ても社会で落第させてやる」と脅された)、ゲイツのようには出来なかったが、それでも、国語や社会はなるべくやらず、数学や理科も学校の授業は聞かずに本だけで勉強したが、それで一級のシステムエンジニアくらいにはなれたのである。
それも、不要な科目を切り捨て、アインシュタインに倣って、本で勉強する独学に徹したからである。
だが、学校や教師の妨害は、基本精神はゲシュタボと同じなので、私は随分酷い目にあったが、10パーセントの成果は得られたということだ。
確かに、頭の良い人であれば、「仕方ない」と思って全科目やっても、楽に良い成績が取れるかもしれないが、私には無理で、もし、そんなことをやろうとしてたら、今頃は社会的に生きていないだろう。
それで言えば、実は、アインシュタインも頭が良かったのではないと思う。彼も学校の勉強は苦痛だったし、大学受験も合格出来ず、制度を利用して無試験入学したのだ。
また、私は、ビル・ゲイツもスティーブ・ジョブズも、普通の意味では、それほど頭が良いとは思わない。
だが、それは良いことであったのだ。普通の意味で頭が良い人間には大きなことは出来ない。
ただ、ゲイツらは、優秀な面があったのと、後、成功したのは「たまたま」である。
だが、誰だって優秀な面があるのだし、誰でも「たまたま」成功出来るのだと思う。
「たまたま」成功する能力をセレンディピティ―と言うのだが、それは重要なものであり、その能力を得る方法は、かなり分かってきていると思う。
なら、それは、皆が学ぶべきだろう。








一瞬、超能力者になる方法

「一切を諦めた時に全てを得る」
「有限全てが無限の対価だ」
などと聞くと、しゃくなことに、これが真実だということは本当は誰にでも分かるが、どうすれば良いか分からない。
これをうまくやれた人ってのは、癌で余命僅かと宣告され、死を受け入れることが出来た人くらいだ。
そんな人は、一切を諦めたのであり、有限全てを差し出したのだから、当然全てを得るので、癌は消滅し、その後は、何を望んでも簡単に実現する。

私は、短い時間なら、一切を諦めた状態になり、超能力者とか仙人みたいなものになることが出来る。
どうやるかというと、先に言葉で言うと、
「存在の感覚にしがみつく」
だ。
「存在の感覚」とは、「私は存在する」という自覚で、他のことは一切考えず、「私は存在する」と思えば、ただちに得られる。
それでも、もう少し分かり易く言うと、
「朝、目が覚めて、まだ日常の思考が働かずにぼーっとしてる状態」
で、現代人は、大抵、その時間は短い。
「アラビアのロレンス」で知られるT.E.ロレンスの、とても読めたものではない著作『知恵の七柱』の中で、ロレンスが、目覚めてから長い間、頭が日常思考を始めなかった時のことを書いているが、その時、ロレンスは、この世界の壮大な意味に圧倒された。
癌から生還した人は、日常の思考が薄くなっている(現実感が弱くなっている)ので、常時、それに近い状態にある。
もっとも、そんな人でも、昔の精神状態に戻れば、また、元の凡人になる。
ロレンスの体験については、コリン・ウィルソンが『右脳の冒険』に、『知恵の七柱』の該当部分を引用してくれている。

だが、とにかく、「私は存在している」ということ以外、一切何も考えない、言い換えれば、「私は存在しているだけ」と思えば、いつでもロレンスになれる。
時間は限定されるかもしれないが。
映画『アラビアのロレンス』は、かなり創作が入っているが、まるっきり嘘でもない。
あの映画を見る時は、自分はロレンスだと思わなければならない。
実際、そうであり、あの映画は自分の物語である。そう見なさなければ、あまり役に立つ映画ではないと思う。
あの映画の冒頭で、ロレンスは芸を見せる。
火のついたマッチの軸を指でつまんで消してみせた。
他の者がやったら、熱くて出来ない。
コツを尋ねられると、ロレンスは「熱いと思わないこと」と言ったが、なんともいい加減な答だ(笑)。
誰だって、火が熱いことは知っているし、しかも、それは強い信念だ。
だが、「私は存在する」とだけ思えば、簡単にそれが出来る。
なぜかと言うと、あらゆる信念の中で「私は存在する」という信念が一番強いからだ。
それに集中してしまえば、他の信念は消える。火は熱いという信念でさえ。
宗派にもよるが、仏教では、自分を腰骨と見なすらしい。
腰骨に出来ることは、存在することだけだ。
また、腰骨というか、仙骨は意外と集中し易い。
武道でも、仙骨を意識しながら戦うものがある。
存在だけになって無意識で戦うのだから、『燃えよドラゴン』の、「考えるな、感じろ」がすぐに出来る。
他にもいろいろやり方があるが、これでもちょっと言い過ぎた。

とにかく、「私は存在する」と思えば、たとえ少しでも超能力者になるし、その感覚に慣れ、長時間持続出来れば、もう人間を超えられる。
人生が切羽詰まってしまい、悟りでも得るしか道はないと思うなら、試してみると良いかもしれない。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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