ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2020年12月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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神の名の力

どんな時に願い事が叶い易いか・・・つまり、引き寄せがうまくいくかというと、一番は、命がかかっている時だし、その他では、名誉や責任がかかっている時だろう。
単に、叶ったら嬉しいとか、楽しいとか、面白いとか、贅沢したいといったことで引き寄せが出来るようになったら名人の域だろう。
また、自分の器量を超えたことは叶い難い。
例えば、自分が月に20万円稼げると信じられるなら、それくらいは稼げるが、月に100万円稼げるとは信じていなければ、なかなかそれだけは稼げない。
つまり、我々は、自分の枠を破り、心のキャパシティを広げる必要がある。

ここで注意しておくべきことは、社会(常識的な意味での社会)や学校や、あるいは、マスコミは、我々の心のキャパシティを小さくするように圧力をかけ続けているのだから、本来は、なるべく早く、敢然と、社会、学校、マスコミとは関りを断たねばならない。
特に我々を洗脳し、虫けらのような存在にするのはマスコミであるから、テレビは決して見てはならないし、新聞も、必要な箇所以外は見てはならない。
学校や会社で教わったことは、よほど必要な部分以外は捨てなければならない。
じゃあ、ネットは良いかというと、大抵は悪くなってきた。
SNSに居るのは、学校や社会やマスコミに洗脳された者が圧倒的だし、YouTubeのCMなどは非常に有害で、一瞬でも見ない方が良い。
だが、実際のところは自分次第であり、自分の精神さえしっかりしていれば、何を見ても問題はないはずである。

自分の心の枠を広げる良いものに、神の名がある。
そのカラクリは明確には説明し難いが、神の名は潜在意識の奥深くに存在し、個々の人間を超えた、集合無意識の中にも存在するからというのが、大雑把な理由である。
潜在意識の奥深くや集合無意識の中に、他に明確に存在するものは指摘し難いが、神の名だけはある。
特に、昔から民族で持ち続けた神の名は、ピュアに存在するので、その名だけで、心の深い領域にあるエネルギーと共に蘇るし、神の名であれば、悪い影響は、まあ、ない。
我が国の最高の神は、アメノミナカヌシノカミであるが、古事記の中の、様々な神の名は、日本人の潜在意識の奥や集合無意識の中に存在している。
仏教の仏の名だって、今や、やはり、心の深い領域に存在する。
もちろん、インドでの呼び名と日本での呼び名は異なり、民族的な影響はあるが、案外に多民族ともつながっている。
それは、西洋の神でも同じだし、日本でも、イエス・キリストの名には、極めて大きな力がある。
特に、キリスト教信者の場合であれば、イエス・キリストの名の元に願ったことは極めて叶い易い。
引き寄せがキリスト教国で盛んになったのも、そのあたりが、単純にうまくいくようになっていたからだ。
宗教に関して、新しい考え方をする人たちが指摘するように、やや言い方は悪いが、神の名はツールであり武器であるので、敬って使うなら、大きな恵をもたらしてくれる。
敢えて言うなら、「神」という言葉自体が、強力な神の名である。

昨日も書いたが、祈りとは、命令であり、要求だ。
聖書に、
「私の手になるわざについて、あなたが私に命じるのです」
とあるように、堂々、命令形で願えば良い。
例えば、「富よ来たれ」といった感じである。
「なれ」と言えば「なる」のである。








正しい祈り方

「祈り」というものは非常に大切であると説く書物が多くあるのだが、どれを見ても、具体的な祈り方を書いていないし、少しは書いているとしても、どうもピンと来ない。
つまり、どの本も、肝心なところを簡潔に書いてないし、効果的な方法を教えていない。
有名な宗教家の五井昌久氏は、「世界平和の祈り」という祈りを普及させていて、それはそれで(と言っては失礼かもしれないが)良いとしても、祈りそのものの本質が分からない。
だが、アメリカの啓蒙思想家で画家のフローレンス・スコーヴェル・シンの著作『人生を豊かにする法則(原題:The Game of Life: And How to Play It)』を見て、やっと分かった。
この本の中に、太字でこう書いてある。
「祈りというのは命令であり要求であり、賛美であり感謝を捧げること」
この、「祈りは命令」が、胸にズンと来て腑に落ちた。納得出来たのだ。
(この本の)その少し前に、「主の祈り」は、命令形の形になっていて、要求の形を取っていると述べ、「主の祈り」を引用している。
即ち、
「私たちの日ごとの糧を今日も与えたまえ」
で、これはもう、見事な命令形だ。
祈りとは命令なのだ。
聖書には、こう書いてあるらしい。
「私の手になるわざについて、あなたが私に命じるのです」
祈りが命令であると、誰も教えてくれなかった。
誰も、そのことを明確に知らず、知らないまま、祈りの本を書いているのだ。

フローレンス・シンは、自分の、ある生徒のことを褒めている。
彼はこう言ったようだ。
「俺は、天の父に何かを求めるなら、断固としてこう言うんだ。父よ、俺は求めた以下のものは決して受け入れん。それ以上でなくては」

多くの人は、「お祈り」と言ったら、普段、謙虚でもないくせに、
「神様、受験に合格出来ますように」
「あの子が、僕の彼女になりますように」
など、控え目で曖昧な「お願い」をする。
しかし、謙虚なフリをしたって駄目なのだ。
堂々たる命令形であることが必要なのである。
上のことを言い直すなら、
「受験に合格させたまえ」
「彼女を僕に与えたまえ」
となる。
ただし、人間の狭い思考にこだわってもいけない。
どの学校に入るのが一番良いかとか、どんな人が自分の彼女に相応しいかは、自分ではなかなか分からない。
そこらは、高い知性に任せてしまうのが良い。
それなら、
「私に相応しい学校に入らせたまえ」
「私にぴったりの彼女を与えたまえ」
といった感じになるだろう。

では、祈った後はどうするか?
それはこうだ。
「さらに神はまた、ただじっと立ち、待つ者のみに与える」
である。
実際に戦うのは神だ。無能なあなたが出しゃばっても、邪魔なだけだ。
神に出来ないことはない。安心してまかせることだ。
そして、諦めたり、妥協したくなるのをぐっと耐える者の祈りが叶えられるのである。

尚、この本は、3冊も翻訳があり、そのような引き寄せ書は珍しく、なかなか名著であると思う。








「神の手ゴール」をどう考えるか

正義感がなければ、悪魔に魂を売らないと引き寄せは出来ない。
ところが、子供に正義を裏切ることを教える親や教師が多い。
もちろん、そんな親や教師だって、その親に、正義を教えてもらえなかったのかもしれない。

ダスキンの経営理念の中に、
「自分に対しては、損と得があらば、損の道をゆくこと」
という言葉がある。
「自分に対しては」と書かれていることに、ちょっとにやっとする。
でないと、会社の損になってしまうことを勝手にやってしまう馬鹿がいるからだ。

ただ、私は、「損か得か」ではなく、「正義の道を行く」の方が良いと思う。
そして、正義の道は、大抵、自分に対しては損なものだ。

私が小学2年生の時、テストの採点された答案用紙を見たら、不正解なのに正解になっていたので、私は教師に報告した。
勇気を振り絞ったというよりは、褒められたかったのかもしれないと思う。
しかし、私の報告に、教師はブスっとした顔で、何も言わずに、丸をバツに付け直して減点しただけだった。
そりゃ、賢くない部類に入る生徒に間違いを指摘されたら気分が良くないだろう。
それなら、親に褒めてもらおうと思って、このことを親に言うと、こっちはモロに怒られた(笑)。
完全に馬鹿扱いだった。

そういえば、ちょっと似た、こんな話がある。
有名な宗教家の五井昌久さんが子供の時は、戦争中で、貧しい家が多かった。
そこである時、学校で、今着ているものの他に服がない者に、服が支給されるということがあった。
教師が、「今着ているより他に服がない者は手を挙げろ」と言った時、五井さんは、もう一着あることを思い出し、手を挙げなかった。
当然、服はもらえない。
五井さんが家に帰って、そのことを言うと、親には怒られ、きょうだいには馬鹿にされた。
そういえば、裕福な家の子も手を挙げていたことを、五井さんは思い出した。
その子は賢く、五井さんは馬鹿だということになるのだろう。

五井さんは最後まで正義を貫いたので、神様に選ばれたようだが、私はそうではなかった。
そして、五井さんには、当然ながら強力な引き寄せの能力があり、切羽詰まった時も、少しも慌てず、実際、必ず必要なものが与えられた。

アルゼンチンの英雄的サッカー選手マラドーナの、伝説的な「神の手ゴール」をご存じだろうか?
敵のゴール前、超人的な5人抜き(5人のディフェンスを次々かわした)の後、マラドーナがゴールを決めたのだが、実は、手でボールをゴールに押し込んでいた。
その時は審判に気付かれずにゴールになったが、後でビデオで見たら、明らかに手で押し込んでいた。
マラドーナが気付いていないはずがないが、もちろん、審判が認めているものを覆しても、誰も褒めてくれないどころか、強い非難を受ける可能性の方が高い。
サッカーは、特に当時は、スポーツではなく戦争である。
戦争に正々堂々などない。
マラドーナが間違っている訳ではない。
だから、後で、手で押し込んだことを指摘されたマラドーナは、おそらく堂々と、「神の手ゴールだ」と言い、この言葉が有名になった。
だが、私は、サッカーが嫌いになった。

野球でも、バッターが、ピッチャーの投球が自分の身体に当たっていないのに、当たったフリをしてデッドボールにすることがある。
それは、称賛はされないだろうが、愉快だと思われることはあっても、「卑怯だ」と非難されることは、まあ、ないと思う。
プロ・スポーツにおいて、勝利は義務であり責任なのであるから、立派とまでは言わないまでも、悪いとは言えないかもしれない。
しかし、どこかモヤモヤとはする(笑)。
すると、こんなことを思い出す。
『あしたのジョー』というボクシング漫画で、超一流ボクサーのカーロス・リベラが、レフェリーに見つからないよう、肘打ちで相手をKOし、矢吹丈は激怒して抗議すると、白木葉子は、
「カーロスだから出来る高等反則よ」
と言い、丈は嫌悪感を見せた。
あの不良少年、丈が、随分、クリーンになったものである。
いや、丈がなぜ怒ったのかは分かる気がする。
カーロスが肘打ちでKOした相手は、実力がカーロスよりずっと下だった。
強い相手なら強い相手で、卑怯だからやってはいけないが、弱い相手にやれば、それは、弱い者いじめだ。
マラドーナだって、もし、子供相手に「神の手ゴール」をやれば、間違いなく悪いことだ。

世の中は厳しく、きれいごとを言っていられない場合もあり。時には、ルールを外れても勝たねばならないこともある。
だが、それも限度がある。
その中でも、弱い者いじめだけはやってはならない。
そして、弱い者いじめをやるような者で、つまようじ1本でも引き寄せられる者はいないのである。








死後の世界を恐れないために

健康な子供や若い人には、死というものが理解出来ない。
私が、小学3年生の時、「死ぬとはどういうことか?」と考えた時に出した自分の回答は、「それは夢のない眠りと同じ」だった。
それであれば、日頃、経験しているので、恐くはないように思えるが、よく考えると、それがずっと続くのだとしたら、「嫌だ」を通り越して、やはり、「恐い」になる。

私が死を恐ろしいものと思うようになったのは、平凡だが、映画や小説等で、少年や少女が、病気で余命1か月などと宣告され、残りの短い命を生きる姿を見た時だった。
例えば、『クリスマス・ツリー』という映画では、事故で白血病になった10歳位の少年が、余命数ヵ月となる。
少年の父親は、息子の短い生涯を楽しいものにしてあげようと、あらゆることをする。
例えば、狼が欲しいという息子のために動物園から狼を盗み出すことすらやった。
しかし、病気のことは息子には決して教えなかった。
だが、少年は、自分の死について、敏感に感じ取っていた。
そして、少年は、クリスマスの夜、命が尽き、すっかりなついていた狼が遠吠えを上げる。

人間が、善良でいようとする動機の1つとして、善良に生きて死ねば、死後の世界で幸福になれるからというものがある。
そして、案外に多くの人が、それなりに死後の世界のことを信じていて、それが確かに、悪事を思い止まらせる理由になっている。
しかし、当然ながら、今は、死後の世界を信じていない人が多いだろう。
さらに、神も天使も信じていないとなると、法に触れない限り・・・もっと言えば、バレない限り、何をしても良いと思うかもしれない。
ところで、神や天使というのは、死後の世界である天国とセットのようなものだから、神や天使を信じていないなら、死後の世界も信じていないし、その逆も高確率で成り立つと思う。
死後の世界や、神、天使、あるいは、仏、菩薩の存在を信じさせるのは宗教である場合が圧倒的なので、無宗教というのは悪い面もあるかもしれない。

世界では、いまだ、権力者が、自分の権益のために、庶民を不幸にしたり、さらには、虐殺するようなことすら、いくらでも行われている。
アメリカでは、アメリカ国外のそんな権力者達に金をもらって、言いなりになっている政治家やマスコミが、アメリカの自由と民主主義を滅ぼそうとしているのを、トランプ大統領が食い止めるべく戦っているが、多くの人はその事実すら知らない。
巨大な悪事を働く者たちは、神も天使も、死後の世界も全く信じておらず、死ねば全て終わりと思っているはずだ。
いくらなんでも、死後の世界の役人は金で買収出来ないだろうからね。

では、死後の世界が本当に存在するのかというと、実を言うと、それなりのエビデンス(証拠)もあるが、証拠ってのは、それを見ることなく「証拠はない」と言えば、無いことになってしまうのだ。
「え?そんなことはないだろう?」と言ったって、そんなことはある。
裁判においても、勝敗を決するのは、決して証拠の明確さではなく、原告と被告の力関係・・・もっとはっきり言えば、権力の大きさである。
そんなこと、世の中をちょっと見れば解ると思う。
どれほど明確な証拠があっても、権力がある者が「その証拠は不十分だ」と言えば、そうなるのである。
同じように、いかに死後の世界の十分な証拠があると言っても、その証拠を示す者に権力がない限り、「それは十分な証拠ではない」と言われれば反論出来ないのである。

だが、それでも、死が近くなると、人間は死後の世界があることが分かってしまうのだ。
だから、権力があって、自分の利益のためにだけ生きていた者は、死はあまりに恐ろしいものになる。
今は解らなくても、あなたも、死ぬ時には、死後の世界があることが分かるのである。
だから、神や天使に見られて恥ずかしいことは、なるべくしない方が良い。
だが、どうしても、人間の弱さから、神や天使に、目をつぶってもらいたいことをしてしまうことはある。
しかし、神や天使は、決して見逃してはくれない。
だが、そんな時のために、イエスは「人を許せ。そうすれば、神もあなたを許す」と言ってくれたのだ。
我々は、イエスを信用するしかないだろう。








一生、二十歳の身体でいるために

人間は、毎日、決まった時刻に決まった運動をする者と、そうでない者に分かれ、その差は大変に大きいのだと思う。
確かに、毎日、通勤通学で、少なくとも1kmの道を、背筋を伸ばして、しっかり歩くなら、それは立派な運動だ。
だが、今は、リモートワークも流行っていて、通勤をしない人も多くなってきたと思う。
また、元々、車で通勤するなどで、ほとんど歩かない人も多いに違いない。
それに、やはり、特別な運動をすることで、特別な身体になる楽しみは捨てるには惜しいと思う。

運動は、原則、1年365日、欠かさずやるものである。
そのためには、毎日やれるような、無理のない、そして、気持ち良い運動であることが必要だ。
YouTube動画で、運動の実演紹介をしている人は多いが、それらを見ると、非常に面倒であったり、とにかくキツくて、とてもではないが続きそうにない内容のものが多い。単に「俺はこんな凄いことをやってる」という自慢をしたいだけの人もいるだろうし、しかも、その本人だって、続けられているか疑わしいものも多い。
だが、良い運動を、1年365日継続すれば、もう完全に別人に変わるし、3年、5年、10年なら更に良く、超人になっているかもしれない。
私の場合、以前は、無理な運動を無理に続けて身体を壊すという、ある意味、根性は認められても、馬鹿なことをやっていたものだ。
だが、あまりに緩い運動も考え物で、「そこまで楽な運動しかしたがらないのか?」と驚かされるような人も実際いる。

どんな運動をするかは、基本的に自分で決めれば良いし、内容が変化していくのも、特に、初めの頃はよくあるが、なるべく早く、一定した内容にしなければならない。
ただし、一定の内容になった後も、創意工夫して、より良い内容に変化していくのは、もちろん、良いことである。

私の場合、長く、毎日続けているのは、腕振り運動と、大東流合気柔術式の四股で、共に、楽な運動でありながら、気持ちが良く、そして、効果の方は恐るべしと言って差し支えない。
単なる運動ではなく、霊的効果があると言って良いのかもしれず、肉体を超えた幽体、さらには、霊体にまで影響があるかもしれない。
腕振り運動のやり方は、多少の種類はあり、自分が良いと思うものでやれば良いが、私の場合は、

(1)自然に立つ。
(2)両腕を真っすぐ伸ばし、前に水平に上げる。てのひらは内側に向ける。
(3)そのまま、両腕を後ろにやや鋭く振る。後ろ45度くらいまでであるが、多少の違いはあって良い(自分が自然に感じるようにやる)。
(4)脱力し、自然に腕を前に振り、(2)の状態に戻る。

といった感じになる。
てのひらは下に向けるやり方もある。
私の場合、関英男博士(電波工学の世界的権威で高次元科学の研究者でもあった)の流儀に則って、てのひらは内側に向けている。
一度に100回を単位にしているが、最低、このくらいはやった方が良いだろう。
一度に100回くらい、普通の人なら、老人でも出来るはずだ。
関博士は、90歳を過ぎても、毎朝2000回やっていたようで、その効果もあり、その歳でも、世界中を飛び回って研究をしておられた。
また、関博士は、この運動により胃癌を治したと言い、また、他にも、この腕振り運動で、難病奇病を治した人は多いという。
私の場合、1日トータルで千回程度だ。

腕立て伏せは、私は以前は、一度に100回、200回、あるいは、それ以上やっていたが、しんどいだけで楽しくはなく、肩を壊す羽目になった。
腕立て伏せは、しっかりとした形で、ゆっくり3~10回程度やれば、非常に効果がある。
スクワットもそうで、ゆっくりと、しっかりとした形でやることが大切で、5~20回で十分に効果がある。
尚、スクワットは、私は、ハーフスクワット(脚を完全に曲げるのではなく、腿と床が水平になる程度まで曲げる)でやっている。膝に負担がかからず痛めないためだ。ただ、ゆっくりと少ない回数でやるなら、フルスクワットでも良いと思う。
とにかく、毎日、必ずやれば、数ヵ月もすれば、やらないことと比べたら、雲泥の差となる。
ただ、私は、腕立て伏せも、スクワットも、数センチの短い振幅で、振動するようにやるやり方が気持ち良いので、それを、腕立てで50回、スクワットで300回程度やっていて、それが、生命力を高めるような効果があると感じている。こんなやり方を教えてくれる人はいないが、好みに合うなら、やってみると良いと思うし、楽で気持ち良いので、続けやすい。
回数は、自分で合った回数でやれば良いが、すぐに回数が上がっていくと思う。

尚、大東流合気柔術式四股も素晴らしい運動だが、言葉での説明は難しいので、興味があれば、『佐川幸義 神業の合気』に、写真入りで解説されているので、参照されたい。
私は、1年近く、毎日千回以上やっている。

私程度の運動でも、続けるなら、おそらく、一生20代の身体でいられるし、引き寄せもうまく出来るようになると思う。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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