ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2018年01月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

生きているということ

ミュージカル映画『サウンド・オブ・ミュージック』の主題歌『The Sound of Music』の初めは、「The hills are alive」だったと思う。
「丘は生きている」と言われたら、何となく雰囲気が分かるもの・・・だろうか?
『エースをねらえ!』の岡ひろみなら、「ああ、生きているなあ」と思うだろうが、「丘」は生きているのか。

つまりね、「丘が生きている」と思う人は、本当の意味で、「自分が生きている」のである。
「生きている人」「死んだような人」という言い方をよくするだろう。
ゾンビじゃないのだから、死んでない限り生きているのだが、生物学的に生きていても、「死んだような人」がいる。
まあ、「生き生きとした人」と「そうでない人」に分かれるような感じだ。

竹宮恵子さんの古い漫画で、町の人々がみんな死んでいるように感じている1人の少年(青年という雰囲気だったが)が、そんな死んだような人達の中に、「彼女は生きている!」と感じる1人の少女を見つけ、追いかけていったら、彼女は魔女で、心臓を食べられてしまう・・・といったオチだったが、なるほど、今の世の中、生きているのは魔女くらいのものだろう。

だが、我々は本当に生きていないといけない。
では、どんな人が「生きている」と言えるのか?
「大きな夢を持っている人」なんて聞くと恥ずかしくていけないが、「年商百億」とか「業界制覇」なんていう夢は、場合によっては地獄の目標で、そんなものを持っている人は、「生きている人」の場合もあるだろうが、「悪魔の手先」「小悪魔」かもしれない。
もっと良い言い方は、「主体性を持って生きている」ということだろう。
国家の言いなり、社会の言いなり、テレビの言いなり、有名人の言いなり、世間の言いなり、会社の言いなり、学校の言いなり、ママの言いなり・・・などの者は、主体性がなく、生きていないということだ。
ある意味、「わがままに生きている」とも言えるが、パパやママ、あるいは、会社に依存しながら勝手気ままに生きているのを、主体的とは言わない。
そうでなく、「完全にわがままに生きている」か、あるいは、「俺流で生きている」と言った方が良いだろう。

超絶俺様主義のキミに合うのはあたしだけ
~『Baby Maniacs』(作詞:q*Left、作・編曲:八王子P、歌:初音ミク)より~

「超絶俺様主義」って、まさに生きている感じだが、「キミに合う私」というのは、決して、「キミのいいなりになる」という意味でなく、「私もまた生きている」ということだ。
主体性を持つとは、自分の考えを持つということで、「千万人と雖も吾往かん(センマンニントイエドモワレユカン)」と言うことだ。
まあそれも、自分の力を冷静に見極めながらでないと、この世で生きていけないが、見極め過ぎてもいけないのだから難しい。
そうだ。現実問題、主体性を持って生きるには力が要る。
そして、鍛えない限り、力は得られない。
鍛えるとは、本を読むことでも、勉強することでも、肉体の鍛錬をすることでもない。
だが、自らの意志で、死ぬ気で、読む、学ぶ、鍛錬するなら、生きることにつながる。

「生きる」ってことは「死ぬ気でやる」ってことだ。
寺山修司氏の作詞による『あしたのジョー』のオープニング曲『あしたのジョー』の中の、
「たたけ!たたけ!たたけ!」
「吠えろ!吠えろ!吠えろ!」
「やるぞ!やるぞ!やるぞ!」
ってところが、いかにも「生きている」って感じるじゃないか?
獣の血、荒野の渇望、意地・・・そんなものを持ってるってことだ。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

成り上がり、成り下がり

最低の位置にいた人間が成り上がった時に感じる狂気じみた歓喜は、いかに馬鹿げたものであろうと、感動的に思えてしまう。
私が少し前に電子書籍で読んでいた、梶原一騎原作の漫画『カラテ地獄変牙』で、主人公の若い空手マンの牙(きば)が、アメリカの人気ハリウッド女優の豪邸で、そのハリウッド女優とベッドを並べ、黒人のメイド達が運んできた豪華な朝食をベッドで食べようとした時、牙は、昔、浮浪児だった自分が、ひもじくてゴミ箱をあさっていたことを思い出す。
人によって、それぞれだろうが、私は、こういう場面に弱い。有体に言えば感激してしまった。
成り上がるというのは、こんなに良いものなのかと。
まあ、若いうちに成り上がると、往々にして道を踏み外すものだが、それでも、やっぱり良いと感じてしまう。

マイナスの感激というものもある。
CLAMPの『X』という漫画の中で、雨のゴミ捨て場で、沢山のカラスがゴミをあさるのをじっと見ている、ボロを着た、幼いが凛とした美少女がいた。
上品そうな老女が近付き、傘を差しかけ、「何をしているのですか?」と尋ねると、少女は、「考えていた。食べようか、やめようか」と答える。
そして、少し身の上を語るように、「亡くなった母様との(死んではならないという)約束は守りたいが、ゴミを食べてまで生きる意味があるのだろうか」と言う。
この少女の場合は、すぐに豪邸の子女となる。
老女は、初めから、この少女を探しに来たのだったのだ。
(『X』10巻)

成り下がるということもある。
芥川龍之介の『六の宮の姫君』では、「六の宮の姫君」と呼ばれた娘は、平安時代の裕福な家のお嬢様で、それこそ、花よ蝶よと育てられたが、父母が急死し、どんどん貧しくなっていき、姫君の乳母は姫君を見捨てずがんばるが、何の力もなく、類稀な美女でもあった姫君は、そこそこの身分の相手ではあったが、男に身を売って生活を成り立たせるしかなくなっていた。
そして、それすら続かず、あばら家の中で、不気味なまでにやせ細った姫君は、乳母に看取られながら、息を引き取る。

少し昔の話で、お金持ちで女中達をアゴで使っていた女性がいたが、夫が事業で失敗した上、亡くなってしまい、自分がアゴで使われる女中になってしまい、屈辱の日々を送るという実話があったと思う。

成り上がるは楽しいが、成り下がるは悲惨だ。
成り上がっても謙虚でいるべきことを忘れなければ、悪い位置にいるなら、一度くらいは成り上がってみるのも良い。
『カラテ地獄変』の牙は、空手のおかげで、そんな身分になれた。
同じように、何か1つのことを磨き上げ、実力をつければ、そんなこともあるかもしれない。
地獄から天国を目指す時、人は異常な熱情を感じ、励むものである。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

真の強さ

漫画やアニメのヒーロー・ヒロインには、「殺しても死なない」ような、生命力に満ちたキャラクターがいる。
ところが、人々が、そんな強いヒーロー・ヒロインに飽きてくると、「ヒーローの孤独」「ヒロインの弱さ」「意外な平凡さ」がウケるようになる。
スーパーマンやバッドマン、ワンダーウーマンといった、無敵の象徴のようなヒーロー達ですら、その「弱さ」が新しい魅力になった。

『涼宮ハルヒの憂鬱』のヒロイン涼宮ハルヒは、恋愛に関してだけ弱い超ツンデレキャラクターで、宇宙的規模で不敗のヒロインであるが、その強さには、それなりの道理があるから読者に受け入れられたのだろう。
彼女のエネルギーの源は、「人生、面白くなくちゃ意味がない」という揺るぎなき信念で、退屈を死ぬよりも嫌う。
面白くないことは人生の浪費であり、それは、彼女にとって最大の罪である。
自分がワクワクするためなら何でもやるし、そのために宇宙が滅んだって構わない・・・そこまで徹底している。
本当に彼女のように生きる人間がどうなるのか、見てみたい気もする・・・と、キョンのような雰囲気の気持ちになる。

ハルヒほどの異常なテンションではないが太陽のようなキャラクターは『犬夜叉』のヒロインで、15歳、中学3年生の少女かごめだ。
かごめは、若いエネルギーの塊で、恐れを知らず、不屈で決して怯まず、反発力、回復力の高さは清々しい。
かごめは、桔梗(ききょう)という、普通の少女とはかけ離れた、強い・・・というか超人であり、やはり「超」のつく美少女である巫女の生まれ変わりだが、かごめはごく平凡な「どこにでもいる女の子」である。
だが、その桔梗が、自分はかごめに負けていることを認めている。
普通に考えれば、どこを取っても桔梗がかごめに負けるはずはなく、かごめ本人ですらそう思うが、それでもやはりかごめの方がずっと強い。
言ってみれば、かごめは宇宙そのもので、桔梗は何かによって、宇宙から切り離されていると感じる。
あるいは、かごめは自然で、桔梗には無理がある。
自然で無理がないことが一番強い。
ハルヒは桔梗的なところがあり、自然になり切れないので、脆さがある。
かごめとハルヒが喧嘩したら、ハルヒは人生初の敗北を喫するだろう。
ただ、ハルヒと桔梗では、お互いの欠陥のため、ドロドロした争いになるような気がする。
出来るなら、かごめのように生きれたらと思う。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

シャッポを脱ぐことが出来た偉人達

一流大学や、一流の学校に入るメリットは何だろう?
ビル・ゲイツは、ハーバード大に入った大きなメリットがあったと思う。
ゲイツは数学者になりたかったらしい。それで、ハーバード入学後、数学科に行ったのだが、そこで、自分など足元にも及ばない天才がゴロゴロいるのを見て、すぐに数学の道を断念した…ということだったと思う。
ゲイツは、そのことで自信も挫かれたが、謙虚になれたのではないかと思うのだ。

アメリカの国務長官を務めたコンドリーザ・ライスは、幼い時から何でも一番だったが、大学生の時、ピアニストを目指してたことがあったようだ。
ところが、そのピアノで、自分なら1年かかるようなことを1時間でやってしまえる11歳の天才少年に会ってしまい、ピアニストを断念した。
自分では世界一になれない…というより、そんな天才は他にもいるだろうから、ピアノの世界は元々、自分が進むべきところではないと分かったのではないかと思う。
そして、やはり、ライスも謙虚になったのだと思う。

SF作家の平井和正さんは、元々は漫画家を目指していたが、石森章太郎(石ノ森章太郎)に会って、「こんな天才に敵うはずがない」と痛感し、やはり、漫画家になることを断念している。

上に挙げた人達は、自分より優れた存在に気付く感覚を持っていたことと、自分の本当の場所を見つけたいという願望と意欲を持っていたところが素晴らしい。
一流大学には、なんだかんだ言って優秀な人が多いだろうから、そこで、自分が太刀打ち出来ないような優れた人を見つけ、謙虚になれれば、苦労してその大学に入った甲斐があったと言えるのだと思う。しかし、自分より優れた人間を認めず、自分が一番だと思う馬鹿が少なくはなく、そんな者が一流の学校を出た(あるいは入った)というプライドなんか持ってしまったら、非常に困った人になってしまう恐れが大きい。私は昨日、そんな人に会ってしまったのだが・・・。

私が事務社員をしていた若い頃、その会社の中に、私にプログラミングの勉強を勧めてくれた40代の技術課長がいた。私にとって大恩人である。
彼は、中学は普通の公立に通っていたが、あまりに勉強が出来るので、中学から入る者が多い一流の進学校に高校から入学したらしい。
すると、それまでは成績はずっと一番だったのに、真ん中より下の方になってしまったと言う。
それで、彼は、自分が出た大学の名を上げ、「そこにしか行けなかった」と言ったが、その大学は、私が入ったのと同じ大学だった(笑)。
彼は、優秀な、一目置かれる技術者だが、とても謙虚だった。それは、高校に入って自信を挫かれたことが、良い結果になったのだと思う。

一流大学に進むことに限らないが、優秀な人間がいる場所に行くことには、上で述べたようなメリットがある。
しかし、
「自分より上がいる」
「自分など大したものではない」
といったことが分かるだけの感覚は、やはり親の教育の部分が大きいのではないかと思う。
そして、それを持っていない人が多いと思えるのだ。
残念なことに、私も持っていなかった。
シャッポを脱ぐ(兜を脱ぐ。降参するとうこと。シャッポは帽子のこと)ことが出来る者は、本当は優れている。
↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

本当の自分に戻る方法

本当の自分というものがあるのだろう。
それが、阿弥陀如来やアマテラス、あるいは、クリシュナのようなものかどうかは分からないが、少なくとも、極めて能力が高く、この世でのことくらい、どんなことも楽々こなせる。
だから、本当の自分になれば、全ては思い通りである。
だが、どうすれば本当の自分になれるのかが分からない。
しかし、案外に簡単なことなのだ。
権威ある人達の教えはだいたい一致していて、煩悩が本当の自分を覆い隠してしまっている。
では、煩悩を消せば良いということになるが、それは、とてつもなく難しく、努力しても、一生の間に達成出来るとは、とても思えない。
だが、やはり賢い人達の言葉は、煩悩自体は消す必要がない(むしろ消してはならない)ということで一致しているのだ。
単に、煩悩に支配されなければ良いのである。
しかし、それも、煩悩を消すこと並に難しいと思っている人が多いかもしれないが、そんなことはない。
簡単だ。
しかし、酒好きが、ついつい過度に酒を飲んでしまうとか、女好きが、女房がいるのに、浮気が止められないなど、煩悩に支配されないのは、ほとんど不可能のように言われることがある。

普通は、単に練習すれば良い。
たとえば、運動が嫌いな人が、毎日、必ずスクワットを100回やると決め、「今日はやりたくない」という煩悩に打ち勝って1年365日、欠かさず続ければ、「なまけたい」という煩悩は消えはしないが、煩悩に支配されなくなっている。つまり、本当の自分が支配権を取り戻したのである。
毎日チョコレートを食べたいが、週に1度だけにすると決めて、それを守っても、やはり、支配権が、煩悩から本当の自分に戻ったことになる。

しかし、もっと簡単な方法もある。
ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』では、煩悩にまみれ、最底辺に堕落した26人の男が、16歳のターニャという少女に出逢い、全てが変わる。
ターニャの前では、あるいは、ターニャのことを想う時は、それまでとは違い、礼儀正しくなり、節度があり、おだやかで思慮深くなった。
つまり、支配権が、煩悩から、本当の自分に完全に移行した。
何の努力もせずにだ。
別に、ターニャが特別な少女である訳ではない。
ちょっと可愛いが、平凡な、どちらかといえば駄目な少女だ。
しかし、16歳で可愛いというだけで、中年過ぎたひなびた男から見れば、天使のようなものである。
その天使のような輝きに目が眩み、一瞬で本当の自分が目覚めたようなものだ。
このように、何かを崇めれば良いのである。
だが、崇めると言うのは、単に好きとか、ファンであるとか、マニアであるということとは絶対的に違う。
「敬う」という感情が必要だ。
26人の男達はターニャを敬っていた。
単に、可愛い少女のファンだったのではない。
敬うという感情が、本当の自分になるためのマスターキーなのである。
敬う心を持てた者ほど幸運な者はいない。
イエス・キリストを純粋に敬っている者は全員が成功している。
だが、敬っているフリをしているだけの者は全員が駄目になっているのである。
そして、偽物が多いのである。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
Kay Twitter Home

執筆のご依頼




最新コメント


月別アーカイブ
記事検索
ブログバナー&Mail


メールはこちらへ

PV since 2010/09/08
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

人気ランキング参加中
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ ひきこもりへ


タグクラウド
QRコード
QRコード