ミュージカル映画『サウンド・オブ・ミュージック』の主題歌『The Sound of Music』の初めは、「The hills are alive」だったと思う。
「丘は生きている」と言われたら、何となく雰囲気が分かるもの・・・だろうか?
『エースをねらえ!』の岡ひろみなら、「ああ、生きているなあ」と思うだろうが、「丘」は生きているのか。
つまりね、「丘が生きている」と思う人は、本当の意味で、「自分が生きている」のである。
「生きている人」「死んだような人」という言い方をよくするだろう。
ゾンビじゃないのだから、死んでない限り生きているのだが、生物学的に生きていても、「死んだような人」がいる。
まあ、「生き生きとした人」と「そうでない人」に分かれるような感じだ。
竹宮恵子さんの古い漫画で、町の人々がみんな死んでいるように感じている1人の少年(青年という雰囲気だったが)が、そんな死んだような人達の中に、「彼女は生きている!」と感じる1人の少女を見つけ、追いかけていったら、彼女は魔女で、心臓を食べられてしまう・・・といったオチだったが、なるほど、今の世の中、生きているのは魔女くらいのものだろう。
だが、我々は本当に生きていないといけない。
では、どんな人が「生きている」と言えるのか?
「大きな夢を持っている人」なんて聞くと恥ずかしくていけないが、「年商百億」とか「業界制覇」なんていう夢は、場合によっては地獄の目標で、そんなものを持っている人は、「生きている人」の場合もあるだろうが、「悪魔の手先」「小悪魔」かもしれない。
もっと良い言い方は、「主体性を持って生きている」ということだろう。
国家の言いなり、社会の言いなり、テレビの言いなり、有名人の言いなり、世間の言いなり、会社の言いなり、学校の言いなり、ママの言いなり・・・などの者は、主体性がなく、生きていないということだ。
ある意味、「わがままに生きている」とも言えるが、パパやママ、あるいは、会社に依存しながら勝手気ままに生きているのを、主体的とは言わない。
そうでなく、「完全にわがままに生きている」か、あるいは、「俺流で生きている」と言った方が良いだろう。
超絶俺様主義のキミに合うのはあたしだけ
~『Baby Maniacs』(作詞:q*Left、作・編曲:八王子P、歌:初音ミク)より~
「超絶俺様主義」って、まさに生きている感じだが、「キミに合う私」というのは、決して、「キミのいいなりになる」という意味でなく、「私もまた生きている」ということだ。
主体性を持つとは、自分の考えを持つということで、「千万人と雖も吾往かん(センマンニントイエドモワレユカン)」と言うことだ。
まあそれも、自分の力を冷静に見極めながらでないと、この世で生きていけないが、見極め過ぎてもいけないのだから難しい。
そうだ。現実問題、主体性を持って生きるには力が要る。
そして、鍛えない限り、力は得られない。
鍛えるとは、本を読むことでも、勉強することでも、肉体の鍛錬をすることでもない。
だが、自らの意志で、死ぬ気で、読む、学ぶ、鍛錬するなら、生きることにつながる。
「生きる」ってことは「死ぬ気でやる」ってことだ。
寺山修司氏の作詞による『あしたのジョー』のオープニング曲『あしたのジョー』の中の、
「たたけ!たたけ!たたけ!」
「吠えろ!吠えろ!吠えろ!」
「やるぞ!やるぞ!やるぞ!」
ってところが、いかにも「生きている」って感じるじゃないか?
獣の血、荒野の渇望、意地・・・そんなものを持ってるってことだ。
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「丘は生きている」と言われたら、何となく雰囲気が分かるもの・・・だろうか?
『エースをねらえ!』の岡ひろみなら、「ああ、生きているなあ」と思うだろうが、「丘」は生きているのか。
つまりね、「丘が生きている」と思う人は、本当の意味で、「自分が生きている」のである。
「生きている人」「死んだような人」という言い方をよくするだろう。
ゾンビじゃないのだから、死んでない限り生きているのだが、生物学的に生きていても、「死んだような人」がいる。
まあ、「生き生きとした人」と「そうでない人」に分かれるような感じだ。
竹宮恵子さんの古い漫画で、町の人々がみんな死んでいるように感じている1人の少年(青年という雰囲気だったが)が、そんな死んだような人達の中に、「彼女は生きている!」と感じる1人の少女を見つけ、追いかけていったら、彼女は魔女で、心臓を食べられてしまう・・・といったオチだったが、なるほど、今の世の中、生きているのは魔女くらいのものだろう。
だが、我々は本当に生きていないといけない。
では、どんな人が「生きている」と言えるのか?
「大きな夢を持っている人」なんて聞くと恥ずかしくていけないが、「年商百億」とか「業界制覇」なんていう夢は、場合によっては地獄の目標で、そんなものを持っている人は、「生きている人」の場合もあるだろうが、「悪魔の手先」「小悪魔」かもしれない。
もっと良い言い方は、「主体性を持って生きている」ということだろう。
国家の言いなり、社会の言いなり、テレビの言いなり、有名人の言いなり、世間の言いなり、会社の言いなり、学校の言いなり、ママの言いなり・・・などの者は、主体性がなく、生きていないということだ。
ある意味、「わがままに生きている」とも言えるが、パパやママ、あるいは、会社に依存しながら勝手気ままに生きているのを、主体的とは言わない。
そうでなく、「完全にわがままに生きている」か、あるいは、「俺流で生きている」と言った方が良いだろう。
超絶俺様主義のキミに合うのはあたしだけ
~『Baby Maniacs』(作詞:q*Left、作・編曲:八王子P、歌:初音ミク)より~
「超絶俺様主義」って、まさに生きている感じだが、「キミに合う私」というのは、決して、「キミのいいなりになる」という意味でなく、「私もまた生きている」ということだ。
主体性を持つとは、自分の考えを持つということで、「千万人と雖も吾往かん(センマンニントイエドモワレユカン)」と言うことだ。
まあそれも、自分の力を冷静に見極めながらでないと、この世で生きていけないが、見極め過ぎてもいけないのだから難しい。
そうだ。現実問題、主体性を持って生きるには力が要る。
そして、鍛えない限り、力は得られない。
鍛えるとは、本を読むことでも、勉強することでも、肉体の鍛錬をすることでもない。
だが、自らの意志で、死ぬ気で、読む、学ぶ、鍛錬するなら、生きることにつながる。
「生きる」ってことは「死ぬ気でやる」ってことだ。
寺山修司氏の作詞による『あしたのジョー』のオープニング曲『あしたのジョー』の中の、
「たたけ!たたけ!たたけ!」
「吠えろ!吠えろ!吠えろ!」
「やるぞ!やるぞ!やるぞ!」
ってところが、いかにも「生きている」って感じるじゃないか?
獣の血、荒野の渇望、意地・・・そんなものを持ってるってことだ。
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