ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2016年08月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

未来の預言に触れる

自分にとって、ちょっと辛いと感じる修行を続けていて、はっきり分かったことがある。
それは、「苦しい鍛錬が、結局は一番楽なのだ」ということだ。
簡単な理屈だ。
例えば、普通の人が、合計で良いから、毎日腕立て伏せを100回やったり、これはという本を毎日1時間読むと決めても、「今日はやりたくないなあ」という日もあると思う。
しかし、その時、弱い自分に打ち勝って、必ず行うということを1年も続ければ、間違いなく、自信が生まれる。
ほとんどの人は、自信が欲しいと思っているし、自信がなくて悩んでいるはずなのに、その切望する自信が、こうやって得られるのである。
つまり、自信なんてのは、克己(自分に打ち勝つこと)によってしか得られないのだ。
これは重要なことだが、自信とは、意思の力で心や欲望を支配出来ることと等しいのである。
逆に、心や欲望に支配される者は自信がないのである。
ならば、怠惰な心に打ち勝って行う修行が、自信をもたらさないはずがない。

修行は、あまりに厳しいものもいけないが、楽なものでは駄目である。
目安としては、「かなり厳しいかな」と思う程度のものになるだろう。
そして、無理そうなことでも、やれば、案外出来るものであるし、それを成し遂げることで、より大きな自信と力が得られるのである。

また、いつも言うが、修行は、あくまで自主的にやるものであり、誰かに、「これをしろ」と言われてやるものではない。
もちろん、人にやれと言われたことであっても、それを自分が納得してやるのなら、自主的にやるのと何ら違わない。
特に若い時は、相手が信頼に足る人物である場合には、「やれ」と言われたことをやるのも手である。
言うまでもなく、師匠と決めた相手が言うことであれば無条件にやらなければならないし、それが出来ないなら、その師匠から離れるしかない。

厳しい修行に励んでいると、シンクロニシティ(共時性。意味のある偶然の一致)がよく起こり、セレンディピティ(偶然の幸運を得ること)も起こりそうな気がするのである。
きっと、幸運の女神は、神への向上のために努力を続ける者に微笑むのだと思う。
成功哲学も何もない。
真理は純粋にして明晰だ。

★マジカルミライ2016関係
幕張メッセでの、初音ミクさんのコンサート「マジカルミライ2016」まで、いよいよ、後12日と迫った。
軍服とサーベルの用意も整い(嘘です)、準備は着々と進めているが、大変なご苦労をしていただいているコンサートスタッフの方々に感謝すると共に、地球にとって重要なこのイベントは、宇宙を味方にするはずだと信じているのである。
他の星の方々も観客の中におられるはずで、あなたの隣の人は、もしかしたら、遠い星から、ミクさんに会いに来られた異星人かもしれないのである。
見分け方がある訳ではないが、おそらく、感じることが出来ると思う。
高度に進化した惑星でも、ミクさんはとても愛されていて、熱烈なファンが多いと知らされている。

台風の影響で、公式グッズの配送が遅れているのは残念ではあるが、台風なら仕方のないことだし、こういったことも肯定的に考えれば、心の波動が向上するだろう。
そして、関係する方々のご苦労を労いたいと思うのである。
私は、10日(土曜日)に新幹線で関西から出てきて、その日の夜と、翌日の昼の公演に参加する。
土曜夜は、後ろの端の方の席だが、これはこれで面白そうだし、また、日曜昼公演はBブロック最前列のようだ。
たとえ後ろの方の席の時でも、ミクさんの、「こんにちはー」や「こんばんはー」の挨拶には元気良く応え、「次が最後の曲です」では、全力で「えええええええ!!!!」と返すことを忘れずにいよう。
アンコールを求める時も、皆様、力の出し惜しみはやめようではないか。

本日、初音ミクさんを描いた浮世絵の木版画「歌姫東海道 初音未来」が、早くも届いた。
あらゆる手間を惜しまずに作られたものだけが持つ発光に触れると、不思議なことが起きる。
1/1000秒の間に絵の中に入り込み、そこで見た、風の神に、楽しそうに、美しい着物姿を見せるミクさんは、風のようであり、水のようであり、太陽のようであり、あるいは、未来の預言のようである。
神と人が和していた時代の風景は、全てが調和し、自分もその中の一部になる。
とても懐かしい感覚である。









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夏休み明け間近の子供の救い方

昨日の朝日新聞の夕刊の第一面に「学校つらいなら ここにおいで」という見出しがあった。
夏休み明けは子供の自殺が多いので、それを防ぐために活動している団体があるらしい。
で、(苦しい状況にある子供達が)そこに行ってどうなるのかというと、悩みを聴いてあげたり、一緒にゲームをしたり、お菓子を出したり・・・で、さぞ、慈愛の微笑みで迎えてくれることだろう。

だが、必要なことはただ1つ。
鍛えてやることだ。
もっと正しく言えば、自主的に自分を鍛えることが出来るようにしてやることだ。
まるで駄目男(私が知る人生の完全落伍者)だって、自主的に自分を鍛えることさえ出来れば何の問題もない。
逆に言えば、彼に何の見込みもないのは、彼は自主的に自分を鍛えることが絶対に出来ないからだ。

もちろん、きっかけ作りとしては、少しくらい、甘い顔を見せるのも良いだろう。
また、やはり、導入として、指導して鍛えてやるのも良いだろう。
しかし、そんなものは、なるべく早く止めなければならない。

有名な『ルーツ』という、1977年制作のアメリカのテレビドラマ(今年も国内で再放送されている)で、アフリカのある部族で、主人公のクンタ・キンテ達、成人を迎えた男子(15歳くらいだろうか)達を集めた中で、逞しい戦士が、「男は強くなければならない。強ければ強いほど良いのだ」と言う。
実際は、男でも女でも強くなければならないし、それは、心身両面でなければならない。
「心身両面」なんて、ちょっと曖昧だが、もっとはっきり言えば、頭脳と肉体のことで、その両方が強くなければならない。
そのためには、鍛えるしかないが、本当に強くなれるのは、自分で自分を鍛えることが出来る者だけである。

それは、大人も同様だ。
自主的に鍛えるのをやめた途端、どれほど偉大な人物も、「ただの脂肪の塊」になる。
世間では、サッカーの三浦知良さんや、野球のイチローさんが称賛されるが、あれが単に正常なのである。
もちろん、持って生まれた素質が違うので、同じような活躍は出来ないだろうが、いくつになっても上を目指して努力するのが、当たり前の人間だ。
かつての大選手だって、自主的に鍛えることをやめた人間には、何の価値もないし、彼らの発言には傾聴すべきことなど何もない。

WIREDサイトを見ると、世界的な認知科学者で教育者であるスガタ・ミトラ氏は、子供に教えるべきことは3つだけで、それは、
・読み書きする能力。
・必要な情報を得る能力。
・そして、その情報の価値を判断する能力。
だと言う。
これは確かに重要であるが、それは2番で、一番は、自主的に自分を鍛える意思の力だ。
私は、ミトラ氏の巨漢は嫌いではないが、あえて言えば、もうちょっと鍛えて痩せた方が良い。

ゲーテの『ファウスト』の主人公ファウストは、スケベで偏屈なジジイであるが、神を目指して努力することを忘れないことだけが取りえだ。
だが、その取りえのために、彼は神に見込まれているのである。
まさしく、ファウストはゲーテそのものだ。
だが、そのゲーテも、中年になると肥満し、はるばるやって来た、彼を崇拝する青年の顔には、明らかな失望があったという。
富と名声がゲーテを堕落させたのだが、堕落とは、自主的な努力を止めることだ。
ゲーテだって、自主的に鍛えることを放棄したら、もはや、「ただの脂肪の塊」なのである。









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カラスとビタミンのお話

カラスが美しい生き物だということを指摘する人がよくいるが、私も同感だ。
ある時、一羽のカラスが私のすぐ近くまで飛んできた時、私には、カラスの動きがスローモーションに見え、その筋肉の動きの美しさにうっとりしたことをよく覚えている。
岡本太郎さんもカラスが好きで、本当に飼っていたらしい。

UFO研究家の矢追純一さんが、『カラスの死骸はなぜ見あたらないのか』という本を書かれていて、ちょっと立ち読みしただけだが、カラスに限らず、動物は、死んだら肉体のまま霊界入りするので、死体はあまり見られないといったことが書かれていたと思う。一方、人間に飼われる動物は、そんな能力を失くすらしい。
そういったことが本当かどうかはさっぱり分からないが、確かに、動物の死骸は、そうそう見るものではなく、見たら驚くほどだ。
ただ、これに対しては、単に、動くカラスの方が見られる機会が多いだけだという反論が理屈の上で成り立つような気もするが、人間で言えば、動きの鈍いやつほど邪魔で、悪い意味で存在感があるので、逆のような気もする。

自分が死ぬ時に厄介だと思うのが死体の処理だ。
また、かけている保険や、様々な会員権の支払いなどが、思っているより多く、それは、多くの人が同じであるから、本当に人間は、「おちおち死ぬことも出来ない」。
保険や各種サービスは、自分のものですら、複雑怪奇で何が何やら分からず、普段、整理せずに放置しているのに、死んだからといって、それを誰かに、一気にやらせるなど気が重い。
私は常々、いつでも死ねるよう、これらを全部解約することを目指しているが、いつまで経っても、なかなか出来ない。
サービス会社は、解約させないよう、複雑な条件でユーザーをがんじがらめにしているのではないかと思うほどだ。
私は、出来れば、死ぬ時は、身体も、存在していた証拠も、人の記憶からも消えれば良いと思うのである。

ところで、カラスは、体内でビタミンCを生成出来、ビタミンCは抗酸化作用が強いので、腐ったものを食べても平気なのだというのを、何かで見た覚えがある。
一方、人間はビタミンCを自分で作ることが出来ず、外部から摂り込む必要があるようだ。
アインシュタインと並ぶほど偉大な科学者だが、意外と名を知られえていない化学者のライナス・ポーリングは、普通の食事で摂るビタミンCでは、全く足りないと言い、ビタミンCの大量摂取を薦めていたが、そんな彼の説に対しては、称賛と非難が繰り返され、近年では割と肯定的に受け入れられているように思う。
まあ、大半のビタミンは体内合成出来ないのだが、生物の身体は神秘的で、カルシウムを含まない草しか食べない牛の乳に多量のカルシウムが含まれていたり、ケイ素のない場所に生息するカニの甲羅がケイ素で出来ていたりで面白いが、ビタミンは元素自体はどこにでもある有機化合物だ。
身体の調子が悪くなった犬が、普段決して食べない草を食べるように、人間も活力が衰えた時、無意識にビタミンCを多く含む食品を食べたがると思う。
曖昧な印象だが、私は頭脳労働で疲れた時や、ちょっと頭脳の力が必要な状況で自然に食べるものは、ビタミンEを含むものが多いが、調べてみると、知的能力の強化のためには、ビタミンEが極めて有効だとする説がある。
個人的には、ビタミンCやEの有効性は体験的に正しいように思う。
特定のビタミンを多量に摂るのは弊害が大きいというのも正しいだろうが、むしろ、ビタミンCやEは確かに不足しているのだろうと思うことがある。
私は、この数週間、やや過度の修行で、頭と身体を鍛えているが、確かに、自然に、ビタミンCとEをよく取り込んでいるように思う。
尚、私は、普段は、栄養バランス論を否定するほどで、世界には、特定の食品(たとえばトウモロコシや山芋)しか食べないのに、健康で長寿な民族が存在することを重要視している。
また、細かいことを言えば、ビタミン類も、天然ビタミンと合成品では違うところもあるらいしが、定評あるサプリメントや薬剤では、そう粗悪なものもないだろう。
生命力、能力とビタミンの関係は、とても面白いものであると思う。
やる気の出ない人は、ためしに、ビタミンCとEを、やや多量に摂ってみればと思う。過度にならない程度に。









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この世は簡単に出来ている

究極的なことを言えば、人間を向上させ、力を与えるものは、「敬い」と「努力」しかない。
「敬い」は、崇敬、畏敬、恭順・・・様々な言い方がされるが、意思としては、「敬う」で良いだろうし、より強い意志を示すことは「崇める」で良いと思う。
敬う心、崇める気持ちのない者は、決して向上しないし、力も与えられないし、幸運にも恵まれない。
そして、努力をしない者は、所詮、何をやっても成功しない。

ところが、人間は、「敬う」ではなく、「傲慢」になり勝ちだ。
また、「努力」ではなく、楽に流れて「怠惰」になり勝ちだ。
それはまるで、悪魔が人間を、傲慢と怠惰に陥れるよう、強力に働きかけているかのようだ。
だから、人間は、意志の力を持って、傲慢と怠惰に打ち勝たなければならない。

まるで根性論、宗教論だが、そうではない。
根性論には、敬うことが欠けている。
宗教は人を怠惰にしてしまう。
また、人間は、若くて純粋な心を持っている時に敬い、誇り高く怠け心に打ち勝って励み、その2つを持って力を得ても、傲慢と怠惰に取り憑かれたら、たちまち空から地面に叩き落される。

人生は厳しいものであり、徳川家康が言ったように、(人生は)重荷を背負って坂道を登るようなものであるが、しかし、考えてみれば楽なものだ。
だって、敬い、努力すれば良いのだから。
そして、敬えば、努力する活力は自然に得られる。
そういったことが、いかに簡単かは、私が最近(と言っても数年以上だが)、身に沁みて感じている。
怠惰と傲慢さに侵され切っていた私が、初音ミクさんを崇めることで、毎日5時間以上勉強し、朝晩の身体の鍛錬を1日も欠かすことなく続けられるのだ。
もちろん、それは、初音ミクさんの、平伏さずにいられない神々しさのためであるが、それを自然な心のままに崇めれば良いだけであるのだから、神はひょっとしたら、かなり甘いのではないかと思うほどである。
尚、このような私を嘲るような、傲慢で敬う心のない者は、いつまでも地の底なのであるから気の毒である。せっかく、内に秘めた力があるのに、それを無駄にしてしまうのだ。

何度も取り上げるが、ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』で、落ちぶれた26人の中年過ぎの男達が、ターニャという16歳の娘を女神のように崇めている間は向上し続けたこと、ゲイリ(ガリ)の『自由の大地(天国の根)』で、堕落したフランス兵達が、空想の少女を敬うだけで騎士道を取り戻したことを、私は決して忘れないようにしたい。
(そんな彼らを嘲る傲慢で敬う心のない者も多いだろうが)
敬う心は偉大である。
だが、ただ「主よ、主よ」と言ったり、「南無阿弥陀仏」とただ念仏を唱えているだけの宗教では駄目である。
そんな宗教の人々は、本当には崇めていないのである。
崇めていれば、励むはずだからである。
初音ミクさんを崇めれば、励まずにはいられないのだから、私にとって、ミクさんは宗教とは比較にならない貴い存在である。
ミクさんの「ミ」は神そのもので、「ミ」が「三」に似ているのも偶然ではなく、世界中で神秘数とされる「三」は完全を示す。
「ク」は、ある作用であり、神の作用は言葉で言うことはできない。
とはいえ、「来る」「繰る」と思っても良い。ただ、その霊妙さは言葉で言えないのである。
「南無阿弥陀仏」や「南無観世音菩薩」が、なぜ、阿弥陀仏や観世音菩薩といった名だけを呼ばないのかと言うと、南無という言葉をつけることで、崇め、敬う気持ちが起こるからである。
そのような気持ちを持って、「南無観世音菩薩」と唱えれば、現世のことを全て解決する活力が与えられ、「南無阿弥陀仏」と唱えれば、現世が極楽浄土になり、心が仏になるのである。
この世は、神仏の心遣いに満ちているようである。









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努力するためのエネルギーをどうやって得るか

私は、ちょっと前から、充実した修行をしているが、それでつくづく思うのは、所詮、人間にとって必要なことは「鍛える」ということだ。
修行と言っても、瞑想したりとか、マントラを唱えたりといった類のものではなく、現実的に頭を使い、身体を鍛錬することをしている。

もし、人生相談みたいなものを受けたら、解決策は1つである。
それは、鍛えるということだ。
あらゆる問題は、鍛錬の不足から起こる。
ただ、鍛錬するためには、特に精神的エネルギーが必要なのだから、それをいかにして得るかということが大切で、そこをないがしろにしたら、不毛な根性論になってしまう。
また、「将軍様のため」の努力や、「天皇陛下のため」と言いつつ、その実、軍部のための努力なんかしちゃいけないし、無理矢理に努力させられると、エネルギーも失くし、結果、心身の健康を損ない、死に向かうのである。

エネルギーを得て努力するためには、「崇める」態度が必要である。言うまでもなく、心の底から、自主的に、真に崇めることである。
「崇める」とは、「敬う」と「憧れる」が1つになり、さらに、それを突き抜けたものであるが、単純に、そして、純粋に「敬愛」することとも言える。
そのことを分かるために、イギリスの作家コリン・ウィルソンの指摘は重要だ。
それは以下のようなものだ。
ロオマン・ガリの小説『自由の大地』で、堕落したフランス兵達が、空想の少女を崇めることで騎士道精神を取り戻し、ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』で、人間として最低の状態になった中年の男達が、ターニャという16歳の少女を女神のように崇めることで人間性を取り戻した。
これらを重要なこととして示したのは、まさに、ウィルソンの天才的な直観によるものだ。ウィルソンは、その意義を言葉で正しく示すことは出来なかったかもしれないが、考えてみれば、そこまで求めるべきではない。
示唆さえしてもらえれば、後は自分の努力で見出すべきである。

ラマナ・マハルシは、「私は誰か?」を問うという、悟りへの道を示したが、誰一人うまくいかなかったのは、所詮、努力不足だからだ。
それは、生半可な努力で到達出来ることではない。
ラマナ・マハルシは、起きている間は、ずっとやれと言ったのだ。
しかし、そのようなことをやり遂げることが出来るのは、たまたま、それに適したアスペルガー症候群(特に、興味やコミュニケーションに特異性を示す自閉症的症状)ででもある者くらいだろう。
間違いなく、マハルシはアスペルガー症候群だった。
人間に個性があることは認めざるをえず、従って、努力の方向は多様だ。
特に、現代は、多くのことに取り組むことが出来る反面、何をすれば良いのか決めるのが難しく、同時に、学生期には、受験など、無理矢理に目標を与えられて、精神性を壊したり、腐敗させられることも多い。
だが、被害者ぶっていては、さらに悪くなるだけである。

鍛錬といっても、日常生活や仕事だって、最高の鍛錬になりうる。
その中の何かについて、超人的な努力でもって達人の領域を目指すことは優れた鍛錬だ。
だが、目標とするレベルが低かったり、単にやるというのでは意味がない。
例えば、もし、受験というものを鍛錬の題材にするなら、生まれ持ってのIQの問題もあるが、出来るだけ難関の学校に入学することを目指すのが良い。
ただし、あくまで、自主的にその気になればの話で、親や教師が無理矢理そうさせようとしたら、その子を真の意味で殺すことになる。

さて、話を戻すが、鍛錬するためには、何かを崇めなければならない。
それは、単なる憧れや、ただの好きといったものではない。
青少年期によく見られる、誤った崇拝には問題があるが、鍛錬のためのネネルギーとしては有効である。
だから、まずは、鍛錬が何より重要であると考え、妄想しないように、自主的に厳しく鍛錬すべきである。
いかなる問題も、鍛錬が解決する。
逆に、鍛錬しなければ、問題は増え続ける。
鍛錬のためには、何かを崇めなければならない。
それが鍛錬に耐える力を与えてくれる。
崇めるべき何かは、遠くにある訳ではないのである。
そして、崇めるべきものがあれば、厳しい鍛錬ほど楽しいというのが事実である。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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