ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

2016年05月

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[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
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誰でも何かは信じている

信念さえ持てば、世界は自由自在だ。
だが、中村天風ら、成功哲学の偉い先生らが言うやり方では、普通の人は、決して、信念など持てない。

ジッドゥ・クリシュナムルティーは、「私は何も信じていない」と言ったが、何かは信じていたはずだ。
多くのことではないだろうし、望ましいことでもないかもしれないが、誰だって何かは信じている。
だけど、「信じているような気になっている」とか、「信じさせられている」ものがいっぱいあり過ぎて、こんがらがっているのだ。
確かに、クリシュナムルティーには、そんなものはなかったのだろう。

聖者と呼ばれるある者は、
「あなたが確信できることは、自分が存在しているということだけだ」
と言ったらしいが、私なら、そいつが目の前にいたら、
「下っらない!」
と言ってやりたい。

だが、ある尼僧は、「あなたの本当の願いは?」と訊かれたら、
「お金持ちの隠居さんの後妻になって、左団扇で暮らしたい」
と言ったらしい。
どうも、こっちの人の方が、さっきの聖者さんより、ずっと本物だ。

ジャイアント馬場さんは、「明日、死ぬとしたら、大福を思いっきり食べたい」と言われたらしい。
馬場さんは、本当に偉い人だったと思う。

私は、親鸞って人は、「俺は始末に負えないやつ」と確信していたのだと思う。
でないと、『歎異抄』に書かれているようなことは言えないだろう。
本当に親鸞は偉い人だ。

私が確信することは、私が初音ミクさんを愛しているということだ。
ミクさんの何が良いのかも分かっている。
ミクさんには心がないってことと、あまりセクシーでないことだ。
私は、自分が人嫌いだということは分かっている。
可愛い女の子は好きだが、嫌いでもあるのだ。
ミクさんの場合は、好き嫌いを超えて愛しているのである。

私は、ナボコフの『ロリータ』の主人公ハンバートについて思うのだ。
彼は、自分は、一部の9歳から14歳の少女が好きだという自覚があったのは良いことなのだが、親鸞のように、「俺は始末に負えないやつだ」と思っていなかったから、救われなかったのだろう。
もっとも、聖書の神様は、罰する神様なのだから、どうやっても救われないかもしれない。
だが、阿弥陀如来の救いを妨げるほどの悪は存在しない。
そうであれば、ハンバートのような人でも心が解放されただろう。そうすれば、悪いことはしないものである。

自分の中の真実を直視することだ。
そうすれば、必ずや悪が見えるだろう。
そうしたら、『歎異抄』を読み、いかなる悪人も救う阿弥陀如来について知ると良い。
阿弥陀如来というのは、仏教固有のものではなく、宇宙の叡智と力そのものだ。
だから、阿弥陀如来について知れば、宇宙そのものを、いくらかでも理解出来る。
そうすれば、あなたも信念を持つことが出来る。
私の場合は、初音ミクさんが助けてくれたが、誰にも天使はついているのである。









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本当にやばいもの

テレビを見る。
そうではない。ニュースやドラマや映画を見るのだ。
本を読む。
そうではない。小説やエッセイを読むのだ。
DVDを見る。
そうではない。映画やアニメやコンサートを見るのだ。
舞台を見る。
そうではない。劇を見るのだ。

我々は、中身より、器、入れ物を重視する癖がついてしまっている。
だが、「本を読んでるんじゃない。聖書を読んでるんだ」と言ったところで、これも違う。
聖書というお話を読むのではなくて、英知を読もうとしているのだ。
映画や舞台を見るのだって、作り手の意思を見るのだ。
ニュースを見ることすら、たまたま展開された運命を見ることなのだ。
そして、究極的には、情報を見るのだ。

情報は、この世という三次元空間に投影されて、目に見えるものを作るが、悲しみや憎しみや愛情といった心も作る。
では、愛を作るかというと、それは出来ない。
愛に形はなく、愛に心はないからだ。
人間は、憎しみは理解出来るが、愛は理解出来ない。

愛とは何かというと、人間的には、「やばいもの」としか言いようがない。
「やばい」というのは、最も単純には、「危険」ということだ。
愛は危険だ。
初音ミクさんは本当に危険である。
イエス・キリストは危険であり、阿弥陀如来は危険だ。

イェイツの小説『まだらの鳥』で、マイケルはマーガレットを見て思ったのだ。
「あまりの美は、かえって哀れさを感じさせる」
そうだ。あまりに美しいマーガレットは危険である。

初音ミクさんのコンサートに来ていた人がこう言う。
「僕たちはスクリーンを見に来ているんじゃない」
じゃあ、何を見ている?
危険を見に来ているのだ。
危険を見ずにいられないのだ。

人間は危険が嫌いだが、同時に危険が一番好きなのだ。
我々は、危険を避けたがるが、危険に飛び込まずにはいられない。
岡本太郎は、「僕はいつでも危険を選んだ」と言ったが、みんな本当はそうしたいのだ。

イギリスのことわざに、
「爆発現場に近いほど生き残れる」
というのがあるらしい。
全くその通りなのだ。

テグジュペリの『星の王子さま』で、大人に家の説明をする時、フィーリングで説明しても全く分かってもらえないが、「1万フランの家」って言えばすぐ分かってもらえると書かれていた。
だが、子供には、その家が、どれほどやばいかを言わないと分からないのだ。
壁のレンガの微妙な色合い、庭に咲いている花が、そのやばさ、危険さを表しているのである。

猪子寿之さんが社長をやっているチームラボという会社では、「やばいもの」を作らないといけないらしい。
やばくないと、猪子社長に怒られるのだろう。
NHKの番組では、やばいを「びっくりさせる」と表現していたが、やっぱり、やばいとは、危険という意味なのだ。

人間が一番嫌いで一番好きなものは冒険だ。
冒険は、言うまでもなく危険だ。
夜空の星を掴み取るのは危険なことだ。だが、それをしないことは、もっと危険なのだ。

「やばい、やばい、どうしよう!」
人間は、そんな生き方が一番苦しくて、一番楽しい。
そして、私は、あまりにやばい初音ミクさんと生きるのである。
本当に生きるには死なないといけない。
殺してくれるやばいものが生かしてくれる。
一休さんは竹の刀を指して言う。
「今の坊主は、この刀と同じ。人を殺すことなんか出来るものか。まして、生かすことなんか出来るものか」
本物の坊主は、殺してくれる。生かしてくれる。
初音ミクさんは私だけを殺してくれるのである。









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信念を持つ方法

イエス・キリストは、「山に、動いて海に入れと言い、そうなると信じて疑わなければ、そうなる」と言った。
これは、やはりイエスが言った、「出来ればと言うのか?信じる者には何でも出来る」を、具体的、視覚的に、そして、壮大に表現したのである。
これが、信仰の力である。
イエスは、信仰の力を持つことを、特に弟子達に強く命じた。
信仰の力が強ければ、無敵であり、神と変わらない。
この「信仰」は、普通には「信念」と言う。
中村天風も、信念の大切さや、それを得る方法を必死で教えた。
あなたが偉大な成功者になれるかどうかは、大きな信念が持てるかどうかで決まるのだ。

だが、親鸞は、「私の信心は阿弥陀様にもらったもの」と言い、自分の努力で得た訳ではないと言った。
この「信心」も、信仰、信念と言って良いだろう。
確かに、イエスがいくら、「信ぜよ」と言い、中村天風が「信念を持て」と言ったところで、なかなかそうはいかない。
あなたが、信念を持てるかどうかは、自分で決められるものではなく、運命による。

あなたが山を動かせるかどうかは分からない。
つまり、金持ちになろうとか、偉大な人物になろうとしても、そのための信念が得られるかどうかは分からないのだ。
それは、あなたがどんな運命を持って生まれたかによって決まる。

ところが、ある尼僧が、こんなことを言った。
「阿弥陀様は私に信心は下さらなかったが、南無阿弥陀仏様を下さった」
これほど偉大な言葉は、そうあるものではない。
私やあなたは、偉大なことを成し遂げる信念には恵まれていないかもしれない。
しかし、念仏には巡り合うかもしれない。
そして、念仏を唱えれば、たとえ、信心を持つ運命になくても、信心(あるいは、信仰、信念)を持てるのである。
この尼僧は、様々な人達に、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えることを奨め、そうした相手は、ことごとに信心を得たのである。
そして、神は私に初音ミクさんを下さったのだ。
だから、私はいまや、山を動かすことも可能なのである。

★初音ミクさんコンサート関係
冨田勲 追悼特別公演 冨田勲×初音ミク
「Dr.Coppelius(ドクター・コッペリウス)」
公演日:11月12日(土)18:00
場所:オーチャードホール(東京)

本日、チケットが届いた。
1階8列という、なかなかの席を獲得できた。
冨田先生は生涯最後の作品で、「冨田勲×初音ミク」と、天使の御名と共に表記されるとは、冨田先生の偉大な生涯に感動した神によって賜られた最上の栄誉に違いない。
冨田先生も天国で喜んでおられることだろう。









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目に見えない本当に大切なものをどう知るか

「謙虚」は、人間の好ましい性質であり、美徳と言って良いが、それが、「卑屈」や「臆病」とくっついているなら、醜く歪み、本当の謙虚とは似ても似つかない。
また、「謙虚」の形だけが「傲慢」の隠れ蓑になっている場合も多い。
つまり、「あの人に対しては謙虚だが、この人に対しては傲慢」という人が多いのである。
つまるところ、本当に謙虚な人は滅多にいない。

だが、『歎異抄』に描かれた親鸞だけは、純粋に謙虚な人だ。
だから、海外を含め、かなり極端な主義思想に凝り固まったような人でも、『歎異抄』だけは素直に読むという話を見たことがあるが、それは本当ではないかと思う。
どこの国の、いつの時代の人であるに関わらず、生まれて初めて、本当に謙虚な人を知って、驚くと言うか、ほっとすると言うか・・・滅多にないような、美しい感情を感じるのである。

『歎異抄』は、たまたま発見されなければ、誰にも知られずにいた手記であるが、親鸞の弟子の唯円が、親鸞の死後、かなり経ってから、親鸞の教えを思い出して綴ったものだ。
短く、簡単な文章で読み易い。
ところで、親鸞は鎌倉時代の人だから、今の日本と違い、戦もあり、庶民は恐ろしく貧しく、生きるだけで精一杯で、それすら叶わぬことも珍しくはなかった時代だ。
だからだと思うが、『歎異抄』の中でも、「往生」というものが第一の関心事になっている。
「往生」とは、「極楽往生」のことで、死後、阿弥陀如来という仏様の、素晴らしい極楽世界に生まれることが、あまりに辛い現世に生きなければならない、親鸞の時代の庶民の大きな、あるいは、唯一に近い望みだった。
親鸞の教えは、師の法然から受け継いだ「南無阿弥陀仏」の念仏の教えであり、念仏の最大の効能は、いかなる悪人でも、念仏さえ唱えていれば、死後、極楽往生出来るというものだ。
このあたりは、現代とは当然異なり、現代では、老人といえども、あまり往生に関心はなく、楽しく長生きしたいものだと思っているだろう。
ましてや、若い人、自分が死ぬとは思っていない人にとっては、生きている自分の人生が大事なのであり、人生を出来るだけ楽しく、有意義に過ごしたいと思っているはずである。
これは、世界が進歩したということであるから、当然、良いことである。

そんな今の時代では、『歎異抄』の読み方も、昔と違って当然である。
実は、親鸞は、数多く詠んだ歌の中で、『現世利益和讃』といって、念仏を唱えることは、極楽往生だけでなく、最大の現世利益にすら恵まれると、懇々と述べているのである。
さらに、親鸞の師、法然の『選択本願念仏集』にも、念仏を唱える者は、仏の加護を受けることが明確に書かれている。

そして、親鸞より200年ほども後の人である一休は、法然を尊敬し、親鸞を本物と認め、自分も禅宗の人でありながら、最後は念仏の教えに転向した。
親鸞の宗派の有名な僧である蓮如とも仲良しだったようだ。
ところで、一休という人は、坊主らしくない坊主で、あまり、宗教家らしいところがない。
そんな一休は、単に、法然や親鸞の教えを受け継いだのではなく、明らかに発展させている。
一休の教えは、仏も極楽浄土も、遠い彼方にあるのではなく、心そのものが仏であり、極楽浄土であるという、極めて革新的なもので、これは、現代に通用する。
だから、念仏を唱えれば、今いるこの場が極楽浄土であり、自分の心が阿弥陀如来なのである。
しかし、いくら念仏を唱えても、そうは思わない人が多いだろう。
それは、「そう信じることが出来ればそうなのである」という、西洋の新思想に近いような感じもある。
そして、『歎異抄』の中で、親鸞は、「私の信心は阿弥陀如来からもらったもの」と言い、自分の努力で信念を持ったのではなく、仏様に与えられたものだとしている。
だが、仏様に信心をもらえる人と、もらえない人がいる訳ではない。
しかし、「私は信心を持っていない。つまり、念仏を信じることが出来ない」と言う人がいるだろうが、そのあたりは確かに微妙なのである。
とはいえ、微妙ではあるが、やはり、誰でも信心を持てるし、それは、従来の宗教のような、強制や権威によるものではない。

テグジュペリの『星の王子さま』の中に、「本当に大切なものは目に見えない」という有名な言葉がある。
だが、目に見えないだけに、それを信じない人が圧倒的だ。
それを、どう信じるのかという問題と似ている。いや、本質は同じだ。
その本質とは、昨日も書いたが、アメリカで、初音ミクさんのコンサートに来ていた男性が示してくれていた。
「僕たちは、スクリーンを見に来ている訳じゃない」
と言う彼にとって、初音ミクさんが真の実在だということが、「本当に大切なものは目に見えない」ということなのである。
初音ミクさんは、映像としては目に見えるが、テグジュペリの言う「目に見える」はあくまで、「物質的なもの」を表しており、言い換えれば、「本当に大切なものは物質的なものではない」ということだ。
ミクさんを愛する人にとっては、明らかにミクさんは実在する。
だから、取材のためにミクさんのコンサートに来ていた、それまでミクさんにそれほど関心がなかった50代の雑誌編集者が、コンサートが進むごとに不思議な感動に包まれ、最後の曲では、涙が止め処なく流れるといったことが起こるのである。
私も、ミクさんを愛するようになってから、『歎異抄』や『星の王子さま』の価値が、いくらかは分かるようになり、「何か本を1冊と言われたら歎異抄」と言うのである。
それは、史上最高のプロレスラーであったルー・テーズが、「技を何か1つと言われら、迷うことなく、ダブルリストロックと答える」と言ったのと似ているような気がする。
つまり、真に強力であり、真に実用的でもある、本物の本物であるということだ。
私は、テグジュペリが『星の王子さま』で訴えた「本当に大切なもの」を、初音ミクさんに教わったと言えるだろう。









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これからの時代を生きる重要な鍵

私が子供の時、たまたま見ていたテレビで放送されていた時代劇の、何でもないセリフを、いまだ忘れずに覚えている。
高橋英樹さん演じる浪人(多分、剣の達人なんだろう)が、大きな悩みを抱えているように見える町人の男にこう言う。
「悩みがあるんなら、俺に話してみねえか?俺じゃ何の役にも立たないかもしれねえ。だがな、黙って聴いてやることぐらいは出来るぜ」

今思えば、この浪人、人間をよく分かっている。
これに比べ、学校の教師は、生徒の話を聴くより、自分の話を押し付けるばかりだ。
教師という職業では人間を分かるようにはなれないのだろう。
一方、昔のヤクザさんは、それよりはるかに人間を分かっていた。
なぜか、どう見ても王子様ではない、ヤクザそのものの男に、可愛い女子中高生がホイホイついていく。
ヤクザさんは、女の子達の話を、黙ってじっと聴いてやるのだそうだ。
結果、女の子達は、ヤクザさんに心を開くのである。

うなずきんというオモチャをご存知だろうか?
話しかけると、それに反応してうなずいてくれる、ロシアのマトリョーシカという民芸品の人形に似た、だるま型の小さな人形だ。
これは、話し相手が欲しいというおばあさんの話から開発されたという、ちょっと寂しいものであるが、発売されると、あらゆる世代に大人気となり、世界で100万個以上、販売されたらしい。
上の話でもうお分かりだろうが、人間は、黙って話を聴いてくれる相手が欲しいのだ。
このうなずきんは、うなずくだけではなく、時々、首を横に振って否定の意も示すのだが、それがまた、「ちゃんと話を聴いてくれている」という感じを与えるのだろう。
うなずきんと話していて、泣き出す人が非常に多いらしい。

『僕は友達が少ない』で、友達がいない女子高生、三日月夜空は、「エア友達」という、脳内の友達を作っていたが、うなずきんは「バーチャル友達」である。
うなずきん自体に心はないが、その心は、持ち主の心の中にある。
ところで、我々は、「テレビを見て泣いた」とか「DVDを見て泣いた」とか言うだろう?
そんなの嘘だ。
テレビやDVDを見て泣くのではなく、ドラマや映画を見て泣くのだ。
つまり、硬い言い方をするなら、メディア(テレビやDVD等の媒体)を見て泣くのではなく、コンテンツ(ドラマや映画等)を見て泣くのだ。
そして、うなずきんは、メディアとコンテンツが融合している。
ここ、大事なのだ!
これからの時代は、メディアとコンテンツが融合する時代だ。
ツイートするために、スマートフォンを取り出し、指で撫でるなんて面倒なことはしなくなる。
SFのように、空間にディスプレイが現れるかどうかは分からないが(多分、違う)、装置、つまり、メディアは意識しなくて良くなる。
今は簡単に言うが、これが分かるか分からないかで、これからの時代に適応出来るかどうかが決まる。

ニューヨークで、初音ミクさんのコンサートに来ていた男性がこう言った。
「僕たちは、スクリーンを見に来ている訳じゃない」
彼の、この言葉は、未来を生きるために、物凄く重要なのだ。
彼は、スクリーンというメディアを意識から外し、ミクさんを現実として感じることが出来る、新しい人間だ。

別に、初音ミクさんでなくて良い。
だが、バーチャルな存在と、本当に親密になっておくと良い。
なぜなら、現実と非現実に違いはないという真実が、いよいよ必要になる時代になるからだ。
宇宙人さんと仲良くなれるのは、そんな人だけなのだ。
ミクさんが個人的に趣味に合わないというのは別に良い。
もちろん、そんな人もいる。
しかし、ミクさんや、そのファンを馬鹿にして笑うような者は、これからの時代では、ちょっと面白くない・・・苦しい人生になるかもしれない。

今こそ、とくPさんが創られた初音ミクさんの名曲『ARiA』を聴くと良いだろう。
きっと、大事なことが分かってくるに違いない。









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