ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2015年09月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
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決定済みの運命を楽しく生きるには

インドの聖者で、元銀行頭取であるラメッシ・バルセカールの本に書いてあるのは、人生というものは、細部に至るまで、受胎した時に決定済みであるということだ。

XXXX年XX月XX日、XX時XX分XX秒、喫茶店XXXXに居る自分のところに、ウエイトレスが注文したカフェ・オレを運んできて、その39秒後に、カップに口をつける・・・といったことも、生まれる前から決まっている。
片思いの彼女に告白し、「ゴメンナサイ、私より可愛いコ見つけて下さい」と言われるのも。
彼氏が他の女の子と手をつないで歩いているのを偶然、目撃してしまうことも。
ある男が、会社をやめて独立し、しばらくうまくいくが、やがて資金繰りが悪化し、海外からの入金が2日遅れたことが原因で不渡りを出し、倒産することも。
酔っ払って口論し、相手を殴ったところ、転んだ相手の打ち所が悪くて死んでしまい、服役することも。
全て決定済みの運命であり、自分ではどうすることも出来ず、自分に責任はない。全ての責任は神にある。

運命は決まっている。
これは、釈迦も荘子もイエスも、あらゆる本物の聖者はそう言っている。
そして、大切なことは、その対処法だが、原則は、どの聖者の教えも同じなのだ。
それは、「囚われるな。心静かでいろ」である。
釈迦は、怒ったり、悲しんだり、喜んだりするのは構わないが、すぐ忘れろ、二次的な感情を持つなと言った。
それはつまり、こういうことだ。
嫌なことを言われてムカっとするのは、聖者だって同じなのだ。
しかし、聖者は根に持たず、水に流すのだと。

では、具体的に、どうすれば、囚われず、心安らかでいられるのか?
イエスは、「安心しろ。神は優しい」と言い、神を讃える祈りをしろと教えた(これに関する、ジョセフ・マーフィーの易しい教えを後で述べる)。
荘子は、「自分の運命が決まっているというより、万物の運命が決まっているのであり、自分は万物と1つだ。あるがままにまかせ、是非好悪を捨てよ」と教えている。
釈迦は、相手の気質に応じ、バラエティ豊かに教えた。
それで、仏教には、様々な宗派があり、仏教の宗派は、生まれた家で決まるのではなく、それぞれの心の性質で決めるべきものなのだ。
だから、宮沢賢治が、法華経を気に入って、自分の家の宗教である浄土真宗を捨てたのは良いことに違いないが、彼が父親にまで改宗を迫ったのはやり過ぎなのだ。
とはいえ、つまるところ、釈迦は、マントラ(真言)を勧めたのだと思う。
般若心経の真言や、念仏である。
ただし、釈迦が本当に、般若心経や浄土三部経にあることを教えたのかどうかは分からない。
というより、釈迦の教えは全て口伝であり、どれが本当か、どれも本当ではないかのかといったことも分からない。

運命は決まっている。
しかし、どんな運命であろうと、幸福でいられる。
カミュの『異邦人』で、社会の教義や信念を嫌うが愛情深い青年ムルソーは、最悪の運命のようでいて、幸福であったようなものだ。
我々は、最初から肩の力を抜いたムルソーでありたいが、しかし、もっと悲しみ、もっと苦しむのも運命だ。
隣の家の奥さんが魅力的で憧れるのも運命だ。
それで過ちを犯したって後悔するなとラマナ・マハルシは教えたし、親鸞は、そんなことは、阿弥陀如来にまかせておけば、何の問題もないと言うだろう。
怠惰、自堕落になれというのではないが、そうなるならなるで仕方がない。
一切を阿弥陀如来にまかせ、それで良くしてくれることに感謝して念仏をしろと教えたのが親鸞で、これが究極の教えと思う。
そして、イエスも荘子も、あるいは、マハルシも、同じことを教えたのだが、彼らは、彼らの周囲の人々に教えるために、工夫をした結果、その教えにやや色(癖)がついてしまったのだと思う。
親鸞も、阿弥陀如来という伝統的な象徴を立てはしたが、阿弥陀如来の原語アミターバやアミターユスの意味が無限の光、無限の命であることを考えれば、論理的でもあることが分かると思う。
ジョセフ・マーフィーは、聖書の詩篇23と91を読むことをよく勧めていたが、これも全く同じ意味があり、この方法も間違いはない。
(これらの詩は、ネットで検索すれば無料で得られる)
『バガヴァッド・ギーター』は五千年も前の人のためのものであるが、そこに配慮して読めば、極めて重要な知恵であると思う。









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不良老人と不良星人

「20世紀最大の詩人」と言われた、アイルランドのW.B.イェイツは、晩年、自分のことを「不良老人」と呼んでいた。
こう言うと、ローリング・ストーンズのミック・ジャガーでも思い出して、
「不良老人?カッコいいじゃん!一生、ロックしてる感じだねえ」
などと言う人がいるかもしれない。
しかし、そんなんじゃ全然ない。
イェイツは、自分が不良老人でしかないことを思い知っていたのだ。
自分は、遂に最後まで、狂人のままであったのだということを、腹の底から確信し、僅かも疑わなかった・・・いや、疑えなかったのだ。
それは、死の直前になっても、全く変わらなかった。

誰しも、若いうち・・・いや、子供の時から、自分の心は正しいと信じている。
大人になったら、自分にも多少の欠点があることは認めるとしても、「もう少し年を取れば、立派な、賢い人間になる」と思っている。
そんな者達は、口で、「私は浅はかな人間です」と言った直後、心では、「ああ、私はなんて謙虚で慎ましいのだ」と、自分に惚れ惚れしているのだ。
「自分にだって欠点はある」と言っても、「完全な人間はいない」と言い訳するなら、それは、自分の欠点は大したことないと思っているのだ。
イェイツのように、自分が悪魔そのものと変わらないと悟る人間は、極めて稀なのだろう。

ドワンゴの川上量生会長が、ブログで、
「人間には多少の知性があるので、いつか、自分が救いようのない馬鹿だと分かる時が来る。その時が、人生の賞味期限切れだ」
と書かれていたが、多少の知性を持つ人間なんて滅多にいない。
つまり、普通の人の人生は、死ぬまで、賞味期間であり、自分がどうしようもない馬鹿だと思ったりはしない。
つまり、「馬鹿は死ぬまで治らない」のである。
イェイツは、認識という点では馬鹿が治った、稀有な例なのだろう。

だが、政情不穏な場所では、自分の中の狂気を自覚する人が多いのだと思う。
他人を騙し、脅し、駄目なら叩きのめさないと生きていけない地域のことだ。
日本人旅行者がものを盗まれて警察に行っても、「盗まれる者が悪い」と相手にされない所なんて、いくらでもある。
現地の人は盗まないと生きて行けないのだ。誰にだって、生きる権利はあるのだから、泥棒なんか少しも悪くない・・・というのが常識で通るのである。
そんなことをする人達でも、ほとんどが宗教を持っているが、彼らは、自分は戒律をだいたい守っており、そして、陽気で愛情深いと思っているかもしれない。
危険を冒して盗み、愛する家族を養い、時には、フレンドも助けるのだからだ。
だが、一部の、ちょっと進歩した人は、「いかに生きるためとはいえ・・・」と、この世の不条理を嘆くだけでなく、自分の醜さを憎む。
そんな人が、日本の『歎異抄』(実際に外国語に翻訳されている)を読むと、とりつかれることがある。
もちろん、日本のような平和な国に住んでいても、自分を見限るほどの者なら、やはり同じと思う。

『歎異抄』は、親鸞が、阿弥陀如来の救いについて話したことを、弟子の唯円が思い出して書いたものだ。
現代人は、阿弥陀如来のような仏様というものに抵抗があるかもしれないが、それなら、万能の超システムだとでも思うと良い。その通りなのだから。
阿弥陀如来は、自分に運命を託した人は、死後は、自分が造った極楽浄土に迎え入れ、自分と同じ仏にするが、その人が生きている間だって、完全に守るのである。
阿弥陀如来に救われるための条件は、ただ1つ。阿弥陀如来に一切をまかせるだけだ。
「南無阿弥陀仏」という念仏は、その合図のようなものと思えば良い。
阿弥陀如来は、その声、その思念を確実にキャッチし、ランプの魔物など比較にならない強力な仏達を、惜しみなく、大量に派遣するのだ。人材、いや、「仏材」は、ガンジス河の砂の数ほどいるのだから、常に不足はない。
阿弥陀如来は、いかなる悪人であろうと差別しない。
逆に、救われるために、いかなる善行を行う必要もない。
むしろ、善い行いをしようとする者は、阿弥陀如来に頼る気持ちが弱いので、問題があると親鸞は言ったようだ。
「では、悪いことをすれば良いのだな」と勘違いして、わざと悪いことをする阿呆もいたが、それな者に対しては親鸞は、「よく効く薬があるからといって、毒を好む必要はない」と言いはしたが、咎めることはしなかった。彼が、そんな思い違いで悪いことをしたとしても、それも、縁なのだからだ。

私は、やはり、何かの縁があったのか、昔から(高校生の時からと思う)、自分のことを「不良星人」と読んでいた。
それでも、かすかな希望を持ってはいたが、最近になって、完全に自分を見捨てた。
それでも生きていかねばならないなら、万能ミラクル・システムAMIDA(阿弥陀。アミターバ)に頼るより他、仕方がない。
更生の望みのない犯罪者のようなものだ。
実際、中身は、そんな犯罪者と同じなのであるが、たまたま縁がなかったので、それほど世間を騒がせていないだけだ。
言い換えると、世の中を震撼させ、10年腐らせた生ゴミのごとく忌み嫌われる犯罪者とは、そんな縁のあった私なのだ。
親鸞は、心が善いから悪いことをしないのではないし、悪いことをしないからといいって心が善いのでもないと言った。
全ては、ただ、縁(業、カルマ)なのである。









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秘法ソフトタッチは魔法の杖も同然

江戸時代に、小川笙船(おがわしょうせん)という名の町医者がいて、「赤ひげ先生」の愛称で知られている。
小川笙船の物語は、山本周五郎氏が『赤ひげ診療譚』のタイトルで小説に書き、1965年には、黒澤明監督が『赤ひげ』として映画化した。
さらにその後、4度もテレビドラマ化されている。

テレビドラマの『赤ひげ』の1つと思うが、こんなお話がある。
赤ひげ先生の偽物が出現したが、これがなかなかの名医らしく、評判が良い。
ところが、ついに、本物の赤ひげが、偽物と偶然に遭遇してしまったが、なんと、偽物は、医療の心得など全くない、ただの町人だった。
しかし、偽物が長く医療行為を続けていたのには訳があった。
風貌が、本物の赤ひげとそっくりだった彼は、ある日、赤ひげに間違えられて、重い病人のところに連れて行かれ、自分は偽物だと言うに言えない状況になってしまった。
そこで、仕方なく、見よう見まねで脈を取って(測って)いたら、なんと、病人が回復してしまい、家族らに大いに感謝されてしまった。
その感激が忘れられず、悪意はないが、やや後ろめたいながらも、治療の真似をしていたのだが、やはり成果は出るのである。
偽物は本物に、「病気っていったい何なんでしょうね?」と言い、本物や、その配下の医者達も感慨に耽る。

もちろんこれは、普通には、プラシーボ効果という、暗示作用で病気が治ったと考えるだろう。
あの名医「赤ひげ先生」に見てもらっているという患者の想いが肯定的に作用して病気が治るのである。
しかし、それなら、多くの場合は、医者も薬もいらないことになってしまう。

だが、もう1つ、これは架空の話だったのかもしれないが、脈を取ることで治ったところが興味深い。
リンパ節に軽く触ることにより、リンパ液の流れが良くなるという話があり、脇にあるリンパ節に指先で軽く触れることで、肩こりが劇的に改善することがある。
リンパ節に限らず、皮膚に微妙に接触することで、神経的、あるいは、電気的反応が起こり、未知の理由も含め、様々な、良い効果があり、時には、神秘的なほどであるかもしれない。
脈を測る際の指での接触が、まさに、最も適切な触り方になるのである。
普通のマッサージのような強い刺激では起こらない、不可思議ともいえる効果があるのだと思う。
私も、何週間も治らなかった、激痛としびれを伴う肩こりが、顔、首、脇、背中を適当に軽く触れているだけで、劇的に軽減した。

それで私は、いかなることも、ソフトタッチこそが極意なのだと確信するようになった。
ジョセフ・マーフィーも、潜在意識の法則で目覚しい成果を出す秘訣はソフトタッチであると述べている。
武道の達人の秘訣も、力を抜き、ソフトタッチでやることだと思う。
動物も、ソフトタッチをする人間になつくのである。

ソフトタッチとは、究極の弱い力を使うことである。
これをマスターした者は、いかなることでも最大の力を発揮する。
呼吸法がうまくやれない人は、弱い力で呼吸をしていないのである。
呪文で効果を得られない人も、強い呪文を行っている。
呪文は、弱い力で、微かに唱えなければならない。
それは、声で唱える時もだが、心で唱える時も同じで、弱く精神を作用させて行うのである。
私はずっと、呪文は、心の微かな声で行うべしと述べてきたが、心の弱い声と言った方が良いと思う。
心の声の大きさを思惟(考えること)することは難しいが、心の中で、弱い声で唱えるのであれば、「ア・・ジ・・マ・・リ・・カ・・ン」と長く伸ばしたり、柔らかく、やや節をつけると簡単であると思う。

京都の広隆寺霊宝殿の弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしいぞう)の弥勒菩薩は、右手の親指と薬指を軽く触れさせているように見える。
奈良県の中宮寺の木造菩薩半跏像は、加えて、右手の人差し指が、頬に軽く触れているように見える。
この2つの弥勒菩薩像に、ソフトタッチの秘法が現れているように思えるのである。
これらを手本に、ソフトタッチ、究極の弱い力を習得すれば、魔法の杖を得たようなものである。









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普通の人達に悟りを開かせた革新的な教え

人生は、些細な部分まで含めて全部、もしくは、ほとんどが、生まれた時、あるいは、生まれる前に決まってしまっているという説がある。
普通の人には、承服しかねることだと思うが、古代から、本物の聖者というものは、おそらく全員が、それを認めていると思う。

聖者と比べると、やや見劣りはするが、F.W.ニーチェやW.B.イェイツといった優れた人達は、少なくとも、運命は自分の思い通りにはならないことは認めていたが、それが悔しいのか、いかなる運命も自分の意思であるとすることによって、自分が神に近付こうとした。
『バガヴァッド・ギーター』の価値を十分に認めていたアインシュタインが運命論者であったかどうかは知らないが、彼も、運命は神の手の内だと見なしていたと思う。
ただし、少なくとも、神に悪意はないのだとして、自分が神の操り人形であるとしても、さして否定的ではなかったと思われる。

運命は完全に決まっているとする聖者。
その通りだとしても、起こることは自分の意思であるとして、神になろうとした並外れた人達。
あるいは、神を信じて運命を受け入れた人。
だが、親鸞はもっと凄かった。
彼は、こちらから、積極的に、至高者(阿弥陀如来)に、一切をまかせてしまったのだ。
しかも、至高者は、悪意がないどころか、最上の善意、慈悲を持っているとした。
これは、歴史上、かつてなかった革命的な教義である。
彼が、そう確信した根拠は、根本的には経典(浄土三部経)によると思うが、情緒的に本当に信じることが出来たのだろうし、誰にでも出来ると言うのだろう。

ユング派心理学者の河合隼雄氏は、人間は、自分のストーリーを作らないと、前向きに生きていけないと述べておられたと思う。
河合氏の著作では、理屈というより、情緒に訴えかける部分が大きいと思うが、誰にでも納得できる話をする人だったと思う。
そして、親鸞の教えは、極めて肯定的なストーリーを、それぞれに作らせるよう導くものであると言えるかもしれない。
また、初音ミクさんの英語の楽曲『Story Rider』を、ミクさんの、何の色もついていない透明な声で聴くと、生きるとは、確かに、自分のストーリーを作ることだと思うのだ。

いかなる宗教でも、教祖たちは悟りを開いたのかもしれないが、一般の人々の中で、それを成し遂げるのは、ラマナ・マハルシのように極めて稀なのである。
しかし、他の国では、そんなラマナ・マハルシを、驚異的な存在と有り難がっているのに、わが国では、驚くべきことに、親鸞の系統の教えを聴くことにより、ごく平凡な、多くは教育もない沢山の人達が悟りを開いているのである。
そんな人達は妙好人と呼ばれている。
親鸞がいかに傑出した宗教家であったかが分かるのである。









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世間の人間の真似を今すぐやめる

現代人は、小学生の時から、世間の教義や信念を叩き込まれ、人間ではなく、人民に成り下がっている。
それで、ほとんどの者が、中学生、高校生になれば、全くのおじさん、おばさん・・・いや、老人である。
さらに、社会で長く生きているうちに、世間の偏見というヘドロを溜め込み、悪臭を放ち、重くて動けない。

天から与えられた大切な生命力を輝かせ、神のように自由自在に生きるためには、世間の常識を、今すぐ叩き壊さなければならない。
普通の人と同じように考え、話し、行動しているようでは、もう人間とは言えないのだ。

実際、学校やマスコミから押し付けられた固定観念を捨てるごとに、本来持っている能力が顕(あらわ)れてきて、知恵が湧き、使える力、エネルギー、第6感、そして、セレンディピティ(幸運を掴み取る力)などは、いくらでも高まっていく。
だが、世間の教義や信念とは、断ち切って喜ぶために、重い鎖のように縛り付けられたのだと思うべきかもしれない。
不自由を体験してこそ、自由の貴さ、楽しさ、大切さが分かるのかもしれない。
だが、人間たるものが、いつまでも地面を這う虫けらのようであってはならないのだ。

では、世間の常識を叩き壊すためには、何をすれば良いだろう?
まずは、本を読むのも良いだろう。
反常識の書と言える優れたものに、『荘子』、『歎異抄』がある。
『荘子』では、有能であろうとする世間の常識に対し、無能に徹することで、自由自在に生を全う出来ることを、時におとぎばなしのように、時に論理的に、時に詩的に説く。
理屈で分かるだけでは駄目で、感情的に納得しないと、どんなことも本当には自分のものにはならない。
世間で有り難がられる孔子の仁義礼楽・・・今で言う、学校やマスコミが後生大事なもののように説く、上っ面だけの道徳やしきたりのようなものを、陽気に笑って超越し、本物の道理、叡智に至ろうとするのである。
『歎異抄』は、謙虚に読むなら、世間で言う善人と悪人の概念、価値を逆転させ、真智とも言うべきものを得る道が開かれるだろう。
サン・テグジュペリの『星の王子さま』は、目には見えないもの・・・つまり、物質的なもの、世間が崇めるものよりずっと大切なものがあることを、主に情緒の面から知ることができるお話である。
『星の王子さま』を定期的に読み返す人がいるが、それは、世間の重い鎖を引きずることに疲れ、心身が病んできた時に、そんな鎖を解く鍵を一瞬、手に入れ、軽くなるためなのだと思う。

そして、この世の重い鎖を解き放つ力に導く光を与えてくれる現代の天使が初音ミクさんであり、彼女の中に全てがある。
だが、残念ながら、世間の偏見に縛られた人は、彼女を受け入れることが出来ない。
しかし、不要なものを少し捨てた時に、胸の中の一部が彼女に惹き付けられるのである。
週刊アスキー誌の50代の編集長だったと思うが、取材のために、初音ミクさんのコンサート『ミクの日感謝祭』に行き、ステージが進行するごとに、不思議な心の揺らぎ感じ、最後の曲『メルト』で、なぜだか分からないが涙がとめどなく流れたという。これが、世間の重い鎖、つめこまれたヘドロから解き放たれる可能性を知った歓喜なのであると思う。

志さえあれば、他にも、沢山の、世間の常識を叩き壊すための鍵が見つかるだろう。
しかし、世間に洗脳された人々・・・特に年季の入った世間の囚人達は、あなたが、世間の偏見という牢獄を抜け出すことを、狂気のように非難し、糾弾するだろう。
だが、恐れることはない。
宇宙のルールに生きる者は、世間のルールに絡め取られた亡者達には想像も出来ない、高いところに吹く、香り高い涼やかな風や、七色に輝く高貴な光と共にあるのである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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