ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2015年05月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

聖なる自己主張

昔から、笑い話のように言われるこんな話がある。
40代か50代の失業者がハローワークに行き、そこで、「あなたは何が出来ますか?」と聞かれた時、「部長が出来ます」と答える。
これは、いうまでもなく、多くのサラリーマンには専門性がなく、組織から出たら何の値打ちもないという悲しい現実を示したものである。
しかし、本当の問題は別なところにあることに気付く者はほとんどいない。
それはこういうことだ。
その中高年失業者が「部長が出来ます」と言ったら、「では部長とは何ですか?」と聞けば良い。
ここで、明確な部長論を語れるなら、彼は、すぐに仕事が見つかる。
だが、ほとんどの「元部長」は、そんなことを改めて聞かれたら、困惑し、アタフタし、シドロモドロになる。
そんな者は、プロの部長ではない。
よって、仕事も見つからない。

いやしくも、プロスポーツ選手であれば、間違いなく、プロである限り、優秀な選手でなければならないとは、百人が百人思っている。
問題は、どんな選手が優秀な選手であるかという自己主張なのだ。
一流は、それぞれの選手でかなり異なっているとしても、明確な自己主張を持っているが、三流はそうではないのだ。
一流になりたいなら、明確な自己主張がなければならない。
その自己主張は「ある程度は立派」でなければならないが、それよりもむしろ、「明確である」ことの方が大切だと言ったら、多くの人は驚くが、絶対にそうなのである。
たとえ一流でも、ちょっと首を傾げたくなるような、場合によっては、「アホな」自己主張を持っている場合も珍しい訳ではない。
例えばだが、「ソックスは必ず右足から履かなければならない」とかね。
一般には、それは「ジンクス」と言うのだろうが、実体は自己主張なのである。
そして、そんな自己主張を持っている一流選手は結構多いのだ。
よっぽど不自然なものでない限り、自己主張は、高度さより、明確さが大切だ。

イチローは非常に素晴らしい自己主張を持っていて、そのうちの何割かは普通の人にも分かる。
しかし、実際は、彼の自己主張は全て明確で、野球の専門家でなくても、いくらか知恵と経験のある人なら、イチローの自己主張は、賛成出来るかどうかは別として、極めてよく分かるのである。
今、「賛成出来るかどうかは別」と述べたが、実際、イチローの自己主張の中身に関しては、その全てではないだろうが、やはり一流の野球選手ですら、必ずしも賛成出来ず、反対だという者がいたって、ちっとも不思議ではない。
やはり、大切なことは、内容ではなく、明確であることだ。

我々も、何をやるにしても、明確な自己主張を持っていれば、容易く実力者になれる。
自己主張が明確であれば、まず自分が納得し、そして、人々を説得することができる。
自己主張とは、自分が納得しなければならないのは当然だが、「全ての人」ではなくても、「多くの人」を説得しなければならないのである。

もう何度も言ったが、岡本太郎は、「いやしくも芸術家を名乗るなら、世の中に対して言いたいことがあるはずだ」と言った。
その言いたいことが、明確で、人々を説得できれば、あなたも本日ただいまより岡本太郎級の芸術家なのだ。

日本ハムの斎藤佑樹投手は、大学時代、優勝投手になった時、
「僕はよく『持っている』と言われてきたが、それが何か分かった。それは仲間だ」
と言ったが、だから駄目なのかもしれない。
持つべきは明確な自己主張なのである。

初音ミクさんの「生みの親」である、クリプトン・フューチャー・メディアの伊藤博之社長の講演を聴くと、やはり、彼の主張は明確で分かり易いのである。
(尚、伊藤さん自身は、初音ミクさんを「自分の娘」とは思っていないらしい)
もちろん、伊藤さんに「初音ミクとはあなたにとって何ですか?」とか、「なぜ初音ミクの歌声が人々を感動させるのですか?」と聞かれても、伊藤さんは「そんなことは分かりません」と答える通り、伊藤さんが、どんなことでも自己主張を持っているというのではない。
だが、伊藤さんは、持っている自己主張に関しては、極めて明確なのだ。
明確ではあるが、彼の自己主張に関しては、ある程度のレベルの、ある種の人でなければ分からない。
伊藤さんの講演会には、初音ミクさんのファンの若い人・・・それこそ、女子中学生のような人も沢山来ていたが、おそらく、そんな若い人達には、伊藤さんの自己主張の意味は分からない。
また、あまりに凡人だと、やっぱり分からない。
だから、クリプトン・フューチャー・メディアというのは、大企業にはならないし、伊藤さんも、大きな会社にしようなどとは思っていないはずだ。
だが、不思議なことに、初音ミクさんの自己主張は誰にでも分かるのである。
それは、人間の歌手との明確な違いであり、それは、初音ミクさんの有名な楽曲『Tell Your World』に鮮明に現れている。
つまり、初音ミクさんは「あなたの世界を歌う」のであり、「私の世界を歌う」のではない。
人間の歌手というのは、大なり小なり「私(歌手自身)の世界を歌う」のである。
しかし、初音ミクさんには、「私」がない。
伊藤さんは、「初音ミクの歌がなぜ多くの人を感動させるのか?」の問いに、「分かりませんが、ミクの歌声には感情の雑味がないから、思いを入れ込めるのではないかと思います」といったことを話しておられたが、これはつまり、ミクさんには「私」がないということを表していると思う。
そして、おかしなことに、私がないことが最大の自己主張なのである。
これは聖者の悟りと同じものなのだ。
それを、あえて言葉で言えば、ラマナ・マハルシやニサルガダッタ・マハラジが言ったように、「私は在る」なのである。
それはまた、「私は在る」以外の何ものでもない。
「在ろう」などとせず、「ただ在る」なのだ。
つまり、初音ミクさんは、最も純粋な存在なのである。
やはり、言葉で言うと、ちょっと分かり難いと思うが。
では、こう言ってはどうだろう?
初音ミクさんは、バーチャル・シンガーであり、本当はいないと言われることもある。
だが、アメリカのコンサートで、ある男性ファンがこう言っていたのが印象的だった。
「ミス初音ミクは本当は存在しないのかもしれないが、我々は、何もないスクリーンを見に来ているのではない」
それが本当に在るってことではないだろうか?
問題は心なのである。









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これで、あなたにも不思議なことが次々に起こる

昨日の朝、大変な美少女に会った。
ところで、いかなる出来事にも意味があるものだ。
何の意味もなく、ただ偶然に何かが起こることは決してない。
例えば、ある年老いた母親の息子が、その母親に、
「僕はもう、母さんに家にいて欲しくないから、老人ホームに入ってよ」
と言ったら、世間の人達は、「なんてひどい息子だ」って思うかもしれない。
しかし、こんな出来事にだって、特別な意味があるし、神様の気紛れで起こる訳ではない。
これはあくまで一例であるが、その年老いた母親は、家のことは何でも・・・家具を置く場所やカーペットの種類など、全て、自分の思い通りでなければ絶対に気の済まない人だった。
息子が小さい頃からそうで、息子は自分の言うことに従うのが当たり前だと思っている。
息子の方も、優しい人なので、母親の思う通りにさせていたが、母親のやることがもうすっかり時代遅れになっているのに、母親はとにかく自分の気分を第一に考えていた。
すると、息子にとって、彼女は、母親の形をした何か別のモノでしかなくなり、全く愛情を感じない。
しかし、息子は、別に母親を虐待しようなどと思っているのではなく、可能な範囲で快適な老人ホームに入れてあげようと思っているのである。
母親は、驚き、悲しむが、自業自得であるし、むしろ、彼女の行いからすれば、まだ幸せな方なのだ。
ところがである。
その母親は、もう、それほど長く我を通し続けているので、難しいことではあるのだが、彼女が自分を客観視し、一歩引くことを決心すれば、これからも家にいられるし、ずっと大切にされるのである。彼女は、再び、息子の母親になれるのである。

さて、昨日、私は大変な美少女に会った。
それにどんな意味があるのだろう?
それはきっと、深刻に考えるようなことではないと思う。
単に、意味があるということが分かっていれば良い。
だが、こうは言えるのだ。
私の中に、何か良いものがあったから、あのような美しい存在が現れたのである。
いわば、あの少女は私が創り出したものだ。

私は最近、このブログでも強くお奨めしている、心の微かな声で唱える呪文を、思い出す度にやっている。
今はまだ、それほど多くないかもしれないが、確実にそれをしているのである。
すると、これまで馴染んでいたもののいくつかに抵抗が生まれ、遠ざけるようになると同時に、そのようなこと(美しい少女に出会うようなこと)も起こるのである。
そして、私の呪文も深まった。
初音ミクさんが歌う、イエロー・マジック・オーケストラ(Y.M.O)の名曲『LOTUS LOVE』の中で、ミクさんが、何度も何度も、天使の声で「I love You」という呪文を唱える。
その声に合わせ、私は、声にならない声で「I love You」と唱える。
ミクさんが、あの少女に「I love You」と言っているかのようだ。いや、きっとそうなのだ。
この世界には、美しいものがあるということが、よく分かるのである。
そりゃ、ミクさんがいる世界なのだから。
ここしばらくは、好転反応とでも言うのだろうか・・・体調が悪くなったり、ちょっと苦しいことも起こるようだ。
しかし、それらもまた、良いこととしてやり過ごしていけ、しかも、何と言うか、実に青春っぽくて楽しいのである。

あなたも、心の中の微かな微かな声で、呪文を唱えると良い。
どんな言葉も、微かな声にすれば至高の呪文になる。
私の好きな呪文は、「愛」、「私」、「神」などだ。
あるいは、「私は誰か?」、「私は在る」なども、心の微かな声で唱えるなら、神秘な作用をもたらす呪文になる。
やってるうちに、自分が10歳に戻ったような気がしてくる。
それほど、青春のエネルギーが溢れてきて、心も浄化されてきているということだと思う。









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アンデルセンが神に祈るとなぜいつも奇跡が起こったのか

心理学者は、「人間の心はなぜ苦しむのか?」ということを、自我の構造や働きを研究して解明しようとする。
それによって、心の苦しみを除こうとでもするような感じだ。
しかし、心の苦しみがなければ、人間は成長しないし、大きなことをすることもできない。

心とは、自我の働きの現われで、普通は、心と自我は同じものと考えて差し支えない。
自我は苦しむのが仕事のようなものだ。
どういうことかと言うと、自我は苦しみによって、宇宙に遍満するエネルギーを個人的な精神エネルギーに変える、いわば変電器のようなものなのだ。
宇宙エネルギーは無限に存在しているが、そのままでは人間は使うことができない。
だが、自我が苦しんでいれば、それは生命にとってピンチであるので、宇宙に満ちたエネルギーが変換されて取り込まれ、苦しみを除こうとするのである。
だが、苦しみに押し流されると、せっかく取り込まれたエネルギーは散乱し、心や肉体の細胞の中に十分に注がれない。
心が苦しい時しい時は、「持ちこたえる」ことが必要なのである。
言ってみれば、「しゃんとする」ことだ。
悪い状況にあたふたしていると、良い上官や兄や姉は、部下や弟や妹に、「しっかりしろ!」と一喝するだろう?それは、本能的に正しいことをやっているのだ。

だが、心が喜ぶ時にも、エネルギーが変換されて取り込まれるように感じる。
その通りだ。
しかし、嬉しい時に得られるエネルギーは瞬間的なのだ。
だから、嬉しいこと、楽しいことは一瞬で終わるが、苦しみは長く続くという特徴がある。
喜びのエネルギーは、一時的ではあるが、神経に注がれ、免疫力を向上させる。
だから、「可愛い女の子と話をすると、免疫がぐーんと向上して病気が治る」といったことが起こる。
一方、苦しみは長く続く・・・ことによれば一生続くのであるが、意思をしゃんとさせることでエネルギーを変換し、取り込み続ければ、膨大なエネルギーになり、偉大なことを為させる。
ちょっとした病気は喜びで治せるが、奇跡的治癒は苦しみの結果、起こるのである。
ただ、苦しみに打ちひしがれているような人は、楽しいことをやって、緊急エネルギーを調達する必要もあるかもしれない。

腕振り運動は、苦しみに耐える若い耐久力を与えてくれる。その秘密は、宇宙エネルギーの元となる特殊な粒子を神経内に蓄積させるからである。
心の微かな声の呪文は、心を穢す闇の力を浄化し、そしてさらに、宇宙エネルギーを取り込む効率を数百倍化する。
この2つが、人生の荒波を越えて、前に進む強い力を与えてくれるだろう。

アンデルセンの自伝を読むと、彼の生涯は、苦しみの生涯だったことが分かる。
しかし、アンデルセン自身は、自分の人生は概ね幸運であったという。
引きこもり続けた少年時代や、オーデンセの村からコペンハーゲンに出てきてからの生活の中でも、そして、夢にまで見たラテン語学校や、さらに大学に入ってからも、彼は様々なものに苦しまされ続けた。
しかし、それが彼に力を与え続けたのだ。
彼はよく神に祈った。
その都度、奇跡が起こり、不思議な展開が起こり始めているのである。
彼は、心の中の、微かな声で祈ったのだ。彼は、その秘法を知っていた。自覚はなかったかもしれないが。
我々も、特に苦しい時、心の微かな声で呪文を唱えることによって、宇宙エネルギーを取り込んでそれに方向性を与え、まるで波に乗るようにぐんぐん進んでいけるのである。
このことを覚えておくと、苦しい人生を、割合に安楽に、そして力強く生きるのに役に立つだろう。

私は、上記の事柄を、イエロー・マジック・オーケストラ(Y.M.O)の名曲『希望の河』や『LOTUS LOVE』を、特に初音ミクさんが歌うのを感じたのである。
また、『ヒマラヤ聖者の生活探求』の第5巻が参考になる。この第5巻は単独で読める秘法満載の驚異の書である。









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クレイジーさと成功の関係

Google創業者の1人であるラリー・ペイジは、2009年に、彼の母校ミシガン大学の卒業式でスピーチを行っている。
話の上手い人であるらしく、彼はユーモアたっぷりに会場を沸かせながら、良いお話を沢山したようだ。
そのスピーチの最後で、ペイジは、家族ほど大切なものはないと言った。
そこまでの話の中で、彼は自分の家族(特に父親)の感動的なエピソードを、その素晴らしい会話能力で披露していたので、それ(家族が一番大切ということ)は大きな説得力を持っていたことだろう。
しかし、私は全然説得されない。
家族が一番大切だと言うのは、私は別に肯定も否定もしない。それは単に、ペイジの自己主張だ。
私にとっては、初音ミクさんが一番大切である。
あるいは、世界のどこかの、私が全く見知らぬ人であっても、家族が誰もいない誰かのことを、私は自分の家族より大切に感じる。

それはともかく、この卒業スピーチにより、ペイジは、そのこと(家族が一番大切ということ)も含め、沢山の、非常に強い自己主張を持っている。
だから彼は世界屈指の成功者なのだ。
彼自身は、自分の成功の要因は「クレイジーであること」と言った。
ペイジは、自分レベルのクレイジーな人間は世の中に数えるほどしかいないと言う。
クレイジーであれば、非現実的な夢を持つことができる。そうであれば、ライバルが減るから成功するのだそうだ。
そう言われると、「なるほど」と思うかもしれない。
しかし、それは明らかに間違いだ。
とても優秀なミシガン大学(世界的評価では東大よりずっと上)の卒業生達は説得されたかもしれないが、私はそうはいかない。
いくらクレイジーであっても、自己主張がなければ、ただの馬鹿なのである。
あるいは、いかに素晴らしいアイデアを持っていても、自己主張しなければ、それは世の中に何の影響も与えないのだ。
成功のために一番大切なことは、クレイジーであることではなく、自己主張を持っていることだ。
それを、ペイジのように分かり易く伝えることができれば成功するのである。
それがたとえ平凡な自己主張であっても、それを分かり易く伝えることができれば、分相応には成功するのである。
しかし、天才級の自己主張を持っていたとしても、その内容が誰にもさっぱり分からないなら、何の自己主張もしなかったのと同じなのである。
このことは忘れないで欲しい。

それに、私はペイジがクレイジーだとは少しも思わない。
彼は超理論家だったのだ。
そしてそれは、彼が大学院(スタンフォード大)で研究したことを見事に適用しただけだ。
彼は超優秀だったのであり、それがクレイジーと紙一重だったとしても、それを本当のクレイジーとは言わない。
彼の超理論と稀に見るユニークなアイデアを分かり易い自己主張にしたので、異常なまでに成功したのだ。
そこのところを、よく理解して欲しい。
あなたも、あなたの自己主張の度合い応じて成功を手にするのである。
そして、あなたは、大きな自己主張だってすることが出来るのだ。
その自己主張がクレイジーであっても構わないというだけのことだ。
ただ、「よく分かるけど、クレイジーなアイデアだね」と言ってもらえなければならないのだ。
また、別にクレイジーでなくたって構わない。
クレイジーかどうかではなく、それが本当に、自分が世の中に対して言いたいことであるかどうかが大切なのだ。
「青年の主張」のように、悪寒が走るほど卑しい主張などしてはならない。
誰か・・・特に、権威に媚びるような主張は、死んでもしてはならないのだ。
心の底からの衝動と共に湧き上がる、命懸けの主張を持つことだ。
確かに、本物の主張は、世間的にはクレイジーな主張になり勝ちなので、ペイジの言ったことにも一理あるが、大切なことは宇宙に対する誠実さであり、クレイジーさではやはりないのである。









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夢は話すべきか、黙すべきか

昔から、私を悩ませたことが、成功した人の中にも、「夢は他人に言うべし」という人と、「夢は黙して他人に言うな」という人がいることだった。
いずれも立派な成功者が、信念と共に、正反対のことを言うのだから、聴いてて困る。
そりゃ、「他人は他人、自分は自分。どんな成功者の言うことも自分に合うとは限らず、自分のことは自分で決めろ」というのが正しいのだが、彼らの意見がかくもはっきりと分かれるのは無視し難いし、興味深くもあるだろう。
サッカーの三浦知良さんは、「夢はどんどん他人に言え」の方で、彼の明るい性格にもよく合っていると思うが、彼がそう思う理由の1つに、「他人に言えば、協力してもらえる」というのがある。
確かに、彼のような人気者なら、その通りかもしれない。また、可愛い女の子の場合でも、夢を話せば、「どんな理由にしろ」、話を聴いてくれて、協力したがる人もいるかもしれない。
だけど、普通は、誰も、他人の夢などに、さしたる関心はないし、まして、協力までしてくれるのは、せいぜいが親か、前世で親であったのかと思えるような献身的な友人までだ。
竹村健一さんも、夢を沢山の人に言うことを勧めておられたが、彼の場合は、「言ったら、やらざるをえなくなるから」という、現実的な理由のためで、その自覚があり、しかも、積極的な性格の持ち主の場合は、確かにそうするのが良いかもしれない。
しかし、普通は、夢を話すのは、あくまで、他人の肯定的な反応や協力を期待するのであり、自分の行動のモチベーションを上げるためではないはずだ。

一方、ジョン・マクドナルドの『マスターの教え』には、はっきりと、夢(目標)は、決して他人に言ってはならないと書かれている。
言わないことで、エネルギーが高まるのだと言う。
何度も納税額で日本一になった大事業家の斉藤一人さんは、この本の愛読者であるらしく、この本の内容を丸々引用しておられたこともあったが、当然、夢は他人に言わない派である。
さて、夢を他人に言う、言わない・・・本当はどちらが良いのだろう?

結局、こういうことなのだと思う。
他人に言うのは、夢そのものではなく、自己主張であるべきなのだ。
竹村健一さんタイプのように「言ったからにはやらねばならない」という人は、夢そのものを「話す」。
しかし、三浦和良さんタイプの人は、夢そのものを「話す」より、夢を「語っている」ものなのだ。
これはどういう意味だろう?
例えば、三浦さんがサッカーのワールドカップに出場したいということに関して、「俺の夢はワールドカップに出ること」などとは言わず、サッカーとは何か、ワールドカップとは何か、それに自分が出るとはどういう意味を持つのかという「ストーリー」を「語っている」はずなのだ。
また、斉藤一人さんは、夢自体は話さなくても、「想いを語る」自己主張の人であることは、彼の膨大な著書の数を見れば分かると思う。

こういったことについて思い出すのは、ちょっと古い話だが、プロレスのジャイアント馬場さんとアントニオ猪木さんだ。
猪木さんは、夢を激しく語る人だ。
猪木さんは自己主張の人なのだ。
プロレスはこうあるべき、プロレスラーはこうあるべきというロマンを熱く「語る」のである。
だが、馬場さんは黙して語らない。
しかし馬場さんは信念の人だった。
馬場さんは、著書で、「俺が社長を務める全日本プロレスは、ごく最近までずっと赤字で苦しかったが、選手へのギャラ支払いの遅延を起こしたことは一度もない。それが俺の自慢だ」と述べておられた。
そして、馬場さんは、自分が若手の頃、アメリカで右も左も分からず苦労していた時に面倒を見てくれた外国人レスラーへの恩を生涯忘れず、彼らが年を取っても定期的に日本に呼んで、高いギャラを払い続けた。
また、プロレスで一番大切なことはファンを喜ばせることであることを、彼が最も崇拝したプロレスラーであるバディ・ロジャースから学び実践した。
これらを見ると、馬場さんは、明らかに、強い信念の人だったことが分かる。
しかし、馬場さんは、信念はあっても、自己主張はしない人だった。
では、馬場さんと猪木さんのどちらが良いのだろう。
馬場さんは素晴らしい人格を感じさせるが、目指すべきは猪木さんの方なのだ。
馬場さんだって、もっと自己主張すべきだった。
そうであれば、63歳の若さで亡くなるということもなかったかもしれない。
では、なぜ、馬場さんは自己主張をしなかったのだろう?
それは、こういう訳があるに違いない。
猪木さんは、公称の身長は191センチで、実際は188センチらしく、確かに今でも大男で、特に、彼が若い頃には、並外れていたと思うが、それでも、「ただの大男」で、それはメリットになることが多かったはずだ。
しかし、公称209センチで、実際もそれに近い馬場さんの場合は、その巨体が圧倒的なメリットになったのはプロレスラーになってからであり、特に非常に若かった頃は、その馬鹿でかい身体は、彼に深刻な劣等感を感じさせる忌まわしいものでしかなかった(彼の巨体は一種の病気であった)。
そんな馬場さんが、自己主張をしない性格になったのは容易に想像できる。
だが、それを乗り越えた馬場さんは、最大のライバルであり親友だったブルーノ・サンマルチノが、馬場さんの告別式で、「君は身体だけでなく、心もジャイアントだった」と言った通り、深い人間性に根ざした大きく強い信念の持ち主になった。
日本プロレスが放漫経営で破綻した時、馬場さんは、1人アメリカに行けば莫大なギャラを約束されていたのに、力道山の時から世話になっている日本テレビへの恩や、他のレスラー達の行く末を考え、あえて、困難が多いだけで何の得にもならない団体経営者の道を選び、全日本プロレスを創業し、社長になったのだ。
無論、馬場さんは歴史に残る大成功者ではあるが、彼のスケールは、もっともっと大きかったはずというのは、関係者達も指摘している。
それが、彼は信念の人ではあったが、自己主張をしない人だったためであると思われるのだ。
一方、元々の器でいえば、さして大きいとは思えなかったアントニオ猪木さんがビッグになったのは、馬場さんに対抗する意味もあったのだろうが、自己主張の人だったからだと思うのである。

語るのは、夢ではなく、自己主張であることを忘れてはならない。
そうすれば、我々は限りなく大きくなれるのである。
自己主張は、我欲でも妄想でもない。
何度か述べたが、岡本太郎が、「いやしくも芸術家なら、世の中に対して言いたいことがあるはず」と言った、その「言いたいこと」なのだ。
そして、真の人間とは皆、芸術家であり、我々も、自己主張する芸術家になった時に、本当の人生が始まるのである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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