ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

2014年12月

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[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。
[2010/12/12]詳細なlivedoorプロフィール設置しました。[livedoorプロフィール]

運が百倍良くなるお参りの仕方

年始には、今でも大勢の人々が神社や仏閣に初詣に出かける。
普段、信心深いとは言い難くとも、全く神や仏を信じていないという人は、あまりいないであろうから、別におかしなことではない。
それに、たとえ年に一度でも、そのような場所にお参りすることにも意義がある。
その意義とは、「自分より高い存在があると認めることを、曲りなりにも行動で示す」ことである。
この「自分より高い存在がある」と認める度合いも色々であろうが、たとえ僅かであろうと、それを思い出すのは良いことである。

念仏を称えたり、アーメンと言ったり、神棚に手を合わせるという行為も全て、「自分より高い何か」の存在を意識することである。
この「自分より高い何か」を、神と呼ぼうが、仏と呼ぼうが構わないが、その存在を感じることは尊いことである。
なぜなら、そのような何かは確実に存在するからだ。
誰かがアインシュタインに「神が本当にいるとお考えですか?」と尋ねたら、アインシュタインは、「世界を少しでも見たら、神がいないなどと、どうして考えることができましょう」と答えたらしいが、言われてみれば当たり前のことだと私も思う。

利己的なことを言うようで恐縮だが、自分より上位の存在を感じれば感じるほど、運が良くなるということは別に不思議なことではない。
なぜなら、上位の存在を認めるということは、その存在の高い力も認め、受け入れることになるからである。
おそらくだが、上位の存在は、人間に良いものを与えようとしているのであるが、人の方でそれを受け入れなければ、福の押し付けも出来ないのだと思う。
だから、「南無阿弥陀仏」と称えれば、相手が人間の考えるような意味での仏ではないとしても、これ幸いとばかりに恵みを与えるのである。

そして、よく考えれば、年に一度のお参りに行くよりは、普段から、何らかの形で、この「自分より高い何か」を感じる方が良いのである。
それが、念仏を称えたり、ロザリオの祈りをしたり、神棚に手を合わせることであり、他にも様々な形があるだろう。
例えば、仏典や聖書を読むことにも同じ意味がある。
また、童話を読むことも、堂々、それに匹敵すると思われるのだ。
ところで、祈りや念仏をする際には、イエスが言ったように、隠れてすることが望ましい。
なぜなら、せっかく、そのようなことをしても、それが、教会や神社等のしきたりに合わせるためとか、誰かに言われたからとか、あるいは、自分が信心深いことを見せるためという気持ちがあっては、肝心の「上位の存在」を感じることがおろそかになってしまうかもしれないからだ。
だから、誰もいないところで、自分だけの行いとして、念仏やお祈りをすべきなのである。
集団念仏や、合同ミサのようなものは、よほど敬虔な人達が集まっているのでない限り、私はあまり薦めず、やはり1人で祈るのが良いと思う。

ただ、正直な話が、現代人に、宗教的な意味での神様や仏様を信じることが難しい場合もあるのだと認めることも必要と思う。
キリスト教やユダヤ教がしっかりと定着した地域・・・まして、アメリカのように、あらゆる貨幣に「我々は神を信じる」と書かれている、一神教の教えが強く心に染み付いた国民には、神様はかなり現実的なのであろうが、日本人はそうではない。
だが、真の意味での、自分より上位の存在とは、「本当の自分」「真の自分」なのである。
そして、本当は、自分の内に、無限の存在とつながった(無限の存在と一体と考えて良い)真の自分があることを認めることが、最も良いのである。
一休さんのような昔の、しかも仏教のお坊様でさえ、「阿弥陀仏は西にいない。南にいる」と言い、その「南」とは、「皆身(みなみ)」と洒落たのであり、心の中に仏がいるのだと鋭く見抜いていたのである。
「真の私とは何か?」と問うことが、より高度な念仏であり、祈りであると私は思う。
これは、ラマナ・マハルシが言ったらしい「私は誰か?」、あるいは、「私とは何か?」と問うより、混乱が少ないはずだ。
破廉恥なことを言うように思われるかもしれないが、これを毎日やれば、運は百倍良くなると思う。









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タブーの成功法則

人間は聖人になる前に、自分の才能を発揮して活躍し、それなりの富を得たいと思うものだ。
では、自分にはどんな才能があるのかは、どうやれば分かるのかということになる。
しかし、おそらく、ほとんどの人が、自分の才能を分からないまま一生を終わるのだ。

ある大画家に対し、画家を志す人が、「描きたいものが見つからない」と言ったことがある。
そう言われた大画家の本音は、「あんたには才能がない」だったのだと思う。
才能があれば、描くなと言っても描きたいものがあるだろう。
この画家を志す人は、きっと画家というものを、美味しい職業だと誤解しているのだろう。
どんな道にしろ、才能ある人というのは、お金や名誉のことを考えない。
ミュージシャンになれるのは、街角でハーモニカを吹いていれば満足できるような人だけだ。

これは、一流はあまり言わないことだが、才能にもレベルがある。
「こいつ、絵の才能があるな」、「野球の才能があるな」と思う人はいても、その才能がプロになれるほどのものかは別問題だ。
『神様のメモ帳』(杉井光)という小説で、高校時代、才能あるピッチャーと言われ、甲子園にまで出場した男が、ヤクザになったという話があった。
その元ピッチャーのヤクザも、学校や地元では、凄い、天才と言われていたのだろうが、甲子園に来てみれば、怪物みたいなのが沢山いて、自分などお話にならないということが分かったようだった。
『東京BABYLON』(CLAMP著)という漫画では、自殺した駆け出し女優の幽霊が、しみじみと、「田舎にいた時は可愛いってチヤホヤされてその気になったけど、芸能人の中に入ったら私なんか普通以下」と気付いたことを話す。それでも、プロデューサーに身体を売って端役の仕事をもらい、両親や友達に映画出演が決まったと報告したが、主演女優の気紛れで、それもフイになり、絶望して自殺したのだ。
誰にでも天才的才能というものがある訳ではないのかもしれないし、あるとしても、それは発掘されない運命なのかもしれない。
教育ビジネスで、「才能を見つける、伸ばす」なんて言ってるのは、100パーセント嘘ならまだマシで、普通の才能すら分からないように混乱させるだけだ。だから、相手にしないことだ。

ただ、あなたが子供の時に描いた落書きが、奇跡的に保存され、後の世で大芸術になるかもしれない。
世界的版画家の池田満寿夫さんは、「私の絵は便所のラクガキ」と言っていたらしい。
現在では大芸術と言われる、未開民族の呪術の道具や、縄文土器、それに、浮世絵なども、作った人は、ごく平凡な人間で、趣味程度に作ったのかもしれない。

そう考えると、真実が見えてくるだろう。
特に芸術の場合がそうだが、作品の価値なんて、何か普遍的な基準がある訳では絶対にない。
しかし、それを言うのはタブーであるのだと思う。
一般の人々は、高価な芸術品は、自分などには分からない特別な何かがあるのだと思い込んでいるが、本当はそれはない。
その価値は幻想でしかなく、その幻想を共有する人が多ければ、世間では価値ある芸術品になり、制作者は大芸術家と言われるというだけのことである。
あなたの作る作品を価値ありとする幻想を共有する人が多ければ、あなたが大芸術家なのである。
しかし、別に芸術に限らない。
今あるようなパソコンやスマートフォン、あるいは、自動車を良いとする偏見が多いので、これらが世の中に出回っているというだけのことだ。

だから、ビジネスの才能、芸術の才能というのは、実は幻想を作り出す才能なのである。
それは、ストーリーを作り出す才能と言えるかもしれない。
幻想というのは、ストーリーから生まれるものだ。
成功したければ、ストーリーを作れるようになることだ。
同じ37歳で亡くなったゴッホや宮沢賢治は、自分ではストーリーを作れず(作らず)、死語、誰かがストーリーを作ったので、大画家、大作家になったのである。









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全員賛成なら絶対にやめる

「自分の正義を貫く」と言えば、傲慢に聴こえるかもしれない。
「私の善が真の善」、「私の真理が本当の真理」、「私が美と認めるものが絶対の美」と言えば、独断家や暴君のように思われるかもしれない。
だが、そうではないのだ。
暴君というものは、本当は、自分を少しも信じてなどいないのだ。

自分に自信を持っている者は、反対されようが、否定されようが平気である。
当たり前だ。
否定されなければ、本当の真理のはずがないじゃないか?

中学か高校の時のことを思い出せば分かる。
例えば、国語の教科書には名高い文豪の作品が採り上げられている。
その作品の文意は何かということで、教師と対立した時、あなたが自分の考えに確信を持っていた場合、あるいは、教師の言うことが疑わしかった場合、間違いなく、あなたの方が正しかったはずなのだ。
別に文学でなくても、あらゆることで、学校や教師の見解と、あなた個人の見解が根本で違っていた時、やはり、あなたが正しかったのだ。
ただし、大勢の生徒達と意見が一致していたように思えた場合は、その意見は、学校の考えと同じくらい愚かだったのだ。
そんな時は、学校の意見と、大勢の生徒達の意見は、容易く妥協するのだ。
学校の考えは世間の考えであるが、寄り集まって出来た考え方というのは、世間の考えと同じになるのだ。

だから、賢い社長は、幹部全員が反対するなら、絶対にやるのだ。
宅急便なんてのは、それを始めた会社というのは、やはり、社内で全員反対だったから、勇敢な社長が指令を放って、それをやったのである。
それによって、当時の郵便局や国鉄の横暴横柄な小包配送を消し去ったのである。

古代からユダヤで伝えられてきた賢い言葉をあなたも覚えていくと良い。
「全員一致は否決」
である。
みんながやると言えば、やらない。
みんながやらないと言えば、断固やる。

ただし、ユダヤを超える知恵が、
「私が正しいと思えば正しい」
である。
「私が良いと言えば、それが価値になる」
そう言えないなら、人間の値打ちはない。









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これからの社長

社長の定義として最も相応しいものを、アメリカの子供向けアニメで聴いたことがある。
それは、
「社長は、いざという時に活躍するから高収入なのだ」
である。
ただ、この「活躍」は、普通の人の活躍とは違う。
その「いざという時」、99パーセント勝ち目のない戦いでも、100パーセント勝つのが社長の使命である。
それが、高収入な社長の、いざと言う時の活躍である。
未知の怪物との戦いに敢然と出向き、当たり前のように勝って涼しい顔で帰ってくる。
それが社長である。
そして、一度雇ったからには、それがどんなロクデナシでも、その社員の生活の保証をするのが社長である。
これが、社長の2つ目の定義になる。
これには同意しない人が多いだろうが、そうでなければ社長ではない。
ただ、確かに口ではそう言いながら、他の者にリストラさせたり、弱い立場の社員が辞めざるとえないことになるのを放置している社長もいる。
だが、そんなことは、大抵の場合、社長の家族に反映されるものである。
かつて、山賊や海賊のボスだって、「子分共を食わせるのは大変なんだ」と時々愚痴をこぼしたものだった。
昔は、盗賊ですら、ちゃんと社長をしていたのである。
ましてや、これから社長をやる人は、上の2つの定義を守るつもりでやれば良い。

だが、英雄は英雄の定義をしないし、天使は天使の定義をすることができない。
悪魔も、悪魔の定義を掲げることはできないのだ。
そして、天使や悪魔は、人々の心の中にしか存在できない。
ところが、英雄とは、天使か悪魔と契約した者のことなのだ。
法律上の社長はともかく、本当の社長も同じようなものであるらしい。
かつて、悪魔と契約した英雄が地上に増えた時代があった。
そして、いつの頃からか、悪魔と契約した社長が世界中に増えてきている。
だが、悪魔はロハでは契約しない。
これから社長をやる者は、このことは覚えておいた方が良い。









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なぜ夢は大きい方が良いのか

ゲーテの『ファウスト』に登場する悪魔メフィストの知り合いの魔女の薬を飲めば、どんな女も、石原さとみさんや、島崎遥香さんのように見えてしまう(私の場合は、初音ミクさんになるのだが)。
しかし、こんなことは、魔法の力に頼るまでもなく、催眠術で同じことがやれる。
深い催眠状態に導いた全くの他人に、「私はあなたの父親だ」と言って、その暗示を解かないままトランスから抜け出させ、「私は誰か?」とその人に尋ねれば、「お父さんです」と言うのである。
若い女性に、好きな男性のスターが誰かを聞き、やはり、私がそれだと暗示をかければ、彼女には私が、彼女の憧れのイケメンスターに見えることになる。
実際に、催眠術ショーでそんなパフォーマンスをする人もいるが、腕の良いパフォーマーは、観客の中から、催眠中にかかりやすい人を的確に見抜いて選ぶのである。

催眠術は、この通り、神秘的な効果を発揮するのであるが、催眠療法というものは、あまりうまくいかない。
催眠療法に頼るような人は、じっと座っていて、目が覚めたら自信満々で、勇気が湧いているなどと思うかもしれない。
しかし、効果はほんの一瞬だし、むしろ、現実逃避が強くなり、ますます意気地なしになることだろう。
催眠術が作り出す心地良い世界は幻想であるが、勇気のある強い人というのは、幻想を叩き壊した人なのだ。
幻想に逃げ込むのは弱い人だ。
強くなるためには、幻想を拒否するために、まずは、悲観的な予想を立て、それに耐えなければならない。
それが、誰もが通る必要がある、最初のイニシエーションだ。
最悪の絶望的な結果を覚悟して、それに耐えれば、最も心は強くなる。
その強くなった心で物事に向かえば、達成できる可能性は高い。
「初恋が実った人生は不幸だ」と言われる。
というのは、初恋では、甘い期待を持っていることが多いが、そんなものが成就してしまったら、絶望に耐えて心を鍛えることができなくなってしまう危険があるからだ。
だから、初恋に限らないが、理想は高く持つが良い。
甘い期待など、絶対にできないほどの大物を狙うのだ。
だが、人間というのは自惚れ屋で、自分を実際の価値の百倍に見るものだ。
だから、もっともっと理想を上げなければならない。
決して妥協するな。
「初音ミクが俺の嫁」、大いに結構である。
「あいつは、理想が高過ぎる馬鹿だ」と言われる間は、おそらく、まだまだ理想が低いのである。
だが、同時に、汝を知れ。身の程をわきまえよ。
そうすれば、メフィストに負けることもないであろう。
政木和三さんが、「目標を持つなら、一生かかっても達成できそうにない大きな目標を持て」と言ったのには意味がある。
望みが叶わないことは、心にとっては心地が悪いことであり、ある意味、死に向かっていることである。
すると、心は、生命を守るため、エネルギーを取り込んで強くなるのである。
夢は大きな方が良いという真意はこれであり、決して、妄想しろという意味ではない。

ところで、個人的意見ではあるが、『ファウスト』を読むなら、高橋健二訳を強くお奨めする。
いや、ゲーテの翻訳では高橋健二が最も良い。
分かり易く、気品ある口語訳の文章は、まさに芸術的だ。
一方、森鴎外訳は全くお奨めしない。
荘厳な文語訳なのだろうが、よほど文語に強くなければ、何が書かれているのか、さっぱり分からない。
高橋健二訳の『ファウスト』は1967年に角川から出ているものは絶版だが、電子書籍が出ている。
まだ『ファウスト』を読んだことがないなら、是非、高橋健二訳で読んで欲しいと思う。









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