ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

2014年06月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

静止するものの美

特に女性にとって、「人形のよう」というのは、やはり最高の誉め言葉になる。
この場合の人形とは、暗に、一流の職人が心を込め、最大の手間暇をかけ、能力と情熱の全てを捧げて創った高級な人形を意味するのだからだ。
一流の人形職人は芸術家に他ならないし、その作品は間違いなく芸術作品である。
芸術家たる優れた人形創りは、儲けようとして創るのではなく、最高の美を現すため、あるいは、それを持つ人に至上の喜びを与えるために創るのである。
そんな人形にたとえられることはまごうことなき栄誉である。
時には、「何もできない人」という意味で人形のようだと言うこともあるのだろうが、その言葉にすら、「美の象徴ではあるが」という意味合いがあるのだし、それは、「こんなに美しいのに、惜しいことだ」ということなのだが、この「惜しい」は「愛(いと)しい」から来ているのである。
つまり、どんな場合であろうが、価値のない人に「人形のよう」とは言わないのだ。

「人形にはなりたくない」と言う場合は、そこに自我(個我)が現れている。
人形であることを厭わない時、その人は自我のない天使のようなものになる。
初音ミクをリアルな映像にする時、あえて人形らしさを表現しているように思えるのも、制作者の深い意識の中に、人形に対する憧憬があるのだと思う。

優れた人形には、神と言って差し支えないような高級な霊が宿る。
悪霊が宿るのは、見ている者の意識に悪霊が作用しているのである。

ところで、人形の真似をすることで、自分を芸術的なものにしていくこともできる。
人形とは、無感情で動かないものだ。
そのようなものになれば、物質世界と霊的世界をつなぐ扉となり、現象世界の女王、もしくは、王になる。
マイケル・ジャクソンがステージ上で、蝋人形のように静止するというパフォーマンスをしていたが、それは、最高のダンスに劣らないものであることが分かると思う。
初音ミクや巡音ルカが全く動かずに静止した姿が、ため息が出るほど美しいものがよくあった。
『最後のミクの日感謝祭』の『ワールズエンド・ダンスホール』の最初のところで、後ろ向きでポーズを取り、完全に静止した巡音ルカの美しさに惹き込まれ、見ている私の心は沈黙する。
また、2012年の『イーハトーヴ交響曲』の『銀河鉄道の夜』の最後、初音ミクがぴたりと静止してポーズを決め、長い髪だけが静かに動くその神秘的な美に楽園を感じた。
これが、静止するものの美である。
価値のない人間はせわしなく動いている。
逆に、高度な人間はあまり動かず、人形のように見えることが多い。
人形の真似をすることで人を超えるとは不思議だが面白いことである。
あなたが真似るべき価値のある人形の姿が分かる本を下にご紹介しておく。









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ツイてない日の終わりに

「今日は厄日だ」というような運の悪い日がある。
悟りを開いた聖者にすらあるのだと思う。
傍目から見れば、美男美女と仲良くして、さぞいい気分だろうと思われていたとしても、実は、そんなことが一番苦しいのだという人もいるに違いない。
そんな者が、世の中に私1人とは限らないからね。

さて、落ち込んだり、憂鬱になったり、喚き散らしたい気分の時、どうすれば良いのかというと、そんな時こそ、自我を消し去りたいはずなのだ。
心の中で、「私」、あるいは、自分の好きな「私」を意味する言葉を称え、自分に何が起こるか、真剣に観察することだ。
いつも言うように、探偵のように、あるいは、好みに応じて、科学者のように。
または、世界中から注目されるような試合での、野球やサッカーの審判のようにね。

日々の出来事は、どうやって起こるのだろう?
誰かが言っていたが、生まれる前に、出会う者同士が話し合って決めた劇の通りに、この世界という舞台で役者を演じるのかもしれない。
単に、神様がメモ帳に書いた通りの役を演じるのかもしれない。
どっちだって良いが、大体、そんなところではないかと思うのだ。
「私」という言葉を響かせた自分を観察していると、観察者としての自分が輝きながら現れる。
すると、神様のメモ帳自体には意味は無いか、あるいは、意味はさっぱり分からなくても、因果というものは見えてくる。
因果の糸がこの世を織り成しているのだ。
だから、神様のメモ帳を見た者は全知全能なのだ。
それを信じて、「私」と称えながら、自分に何が起こるか、よく観察していただきたい。









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何に価値があるかは自分の意識の問題なのだ

人生には、記念すべき日だとか、記念すべき物というものがあるだろう。
ところで、小学校に初めて登校した日なんて、記念すべき日のように思えるかもしれないが、その日のことを覚えている人がどれくらいいるだろう。
その日は何曜日だったか?
その日、どんな服を着て、どんな靴を履いていたか?
私は全く覚えていない。
中学校もそうだ。
ただ、小学校や中学校の卒業式の日のことはよく覚えている。
高校の場合は、初登校日に、ちょっとしたトラブルがあったので覚えているが、そうでなければ覚えていないと思う。
しかし、高校の卒業式の日となるとよく覚えている。
つまり、学校に入学することは、私には記念とすべき価値は全くなく、卒業というより、「もうそこに行かなくて済む」ようになった日は、ひどく重要だったということである。
入学式の日のことをよく覚えているなら、その人にとって、その学校は価値があったということなんだろう。

車好きな人なら、初めて1人で車を運転した日のことを覚えているのかもしれない。
実を言うと、私は覚えていない。
私は確かに、あまり車や運転が好きではない。
ところで、なぜ、自分にとって大切な日のことを覚えているかというと、観察力が高くなっていたからだ。
シャーロック・ホームズは、ただ見るということと、観察することは全く違うのだと言うが、その通りだろう。
人は価値のあるものしか観察しない。
私は、小学3年生の時、初めてマジックショーを父親に連れられて見に行った。
それなりに楽しく、興奮したと思う。
しかし、やはり、ショーのことはほとんど覚えていないのだ。
面白くはあったが、私にとって、さしたる価値はなかったのだ。
ところが、その会場で、前の席に座っていた男性が、頭の後ろで手を組んだ時に見えた腕時計のことを鮮明に覚えているのだ。
フェイス(文字盤)は紫がかった青で、風防がよく反射していた。
実は、私はその頃、腕時計を持っておらず、それを欲しいと強く願っていたのだ。

小学校や中学校の授業は、何か特別なことでも起こっていない限りほとんど覚えていないが、ある日、私は、気紛れに「この時のことを記憶に残そう」と思った。
さて、その場合、どうすれば良いだろうか?
私は無意識に、教室の壁に貼ってあった1枚の張り紙を注視した。
つまり、観察したのだ。
私は、その貼紙の色をよく覚えているし、この時のことをよく覚えているのだ。
やはり、観察すれば覚えていることができる。
そして、観察すべき価値は、自分で作ることもできるのだと分かる。

大切な日のことを忘れたくないと思って、何かを記念に残す人もいる。
だが、私は学校の卒業式でもらった物はすぐに失くしている。
中学校の卒業式の時にもらった記念樹は人にあげた。
よっぽど学校が嫌いだったのだろう。
しかし、それをあげた女の子のことはよく覚えている。
特に好きという訳ではなかったが、魅力的な子だった。
それをあげる時の彼女の表情までよく覚えている。
それを観察していたからだ。
彼女は記念になったのだ。

シャーロック・ホームズは、観察のことを説明するために、2階の部屋で、ワトソンに、「階段は何段あった?」と尋ねる。
ワトソンは、その階段を数多く昇り降りしているはずだった。
しかし、ワトソンは、階段の段数が分からなかった。
確かにワトソンは探偵向きではない。彼は医者であり、ホームズの助手だ。
あなたは、自分の家の階段が何段か知っているだろうか?
その家に何十年住んでいる人でも、おそらく知りはすまい。
だが、ホームズは、何でも知っている。
彼にとって、世界の全てが重要なので、何でも観察するからだ。
『神様のメモ帳』では、ニート探偵アリスの助手である藤島鳴海は、平凡な男子高校生だが、時々、「全知全能」のアリスを驚かせる。
彼は、特に他人に秀でたところがある訳ではないが、しばしば、「目だけは良い」と言われる。
視力というより、いつもではないが、優れた観察力を発揮するのだ。
観察力を発揮する時の彼は、凡人ではない。
天才と言って差し支えない。
アリスもそれは知っているのだろう。
観察が力になることに、我々はもっとよく注意しなければならない。

私は昨日、つまり、2014年6月26日の木曜日、初めて、アリスが愛飲するドクターペッパーを飲んだ。
好きと嫌いの評価が極端に分かれる、世界最古とも言われる炭酸飲料で、発売日は1885年12月1日らしい。
私は、一口飲んだだけで好きになったのは、アリスの影響ばかりではない・・・と思う。
私はアリスと違い、ペットボトルのものを飲んだのだが(アリスは缶専門のようだ)、このペットボトルは永久保管するかもしれない。
初めて飲んだコカコーラやペプシコーラのことは覚えていないが、ドクターペッパーは私にとって記念になるのだろう。









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不誠実と冷淡ではどちらがマシか?

アインシュタインは、一般の人に相対性理論の時間の伸縮について説明する時、
「熱いストーブの上に座っている10分は長いが、美女と一緒にいる1時間は短いようなもの」
と言ったらしいが、彼はそう言った後、自分の不誠実さに自己嫌悪に陥ったのではないかと思うのだ。
ただ、現代ですら、相対性理論を本当に理解する者などほとんどいないのに、人類が初めて、時間が相対的なものだと聞かされた時代の人にとって、理解以前にどんなイメージも湧かなかったはずで、本当のことを言えば、アインシュタインがそんな人達に説明するという状況そのものがおかしかったのではあるがね。

国産OSのTRONを開発したことで有名な偉大な科学者である坂村健さんが著書で、社会的地位のある人が、何かの科学理論について、
「俺は知識ゼロだ。それを前提に俺に分かるように言え」
という人間の傲慢さを批判されていたように思うが、確かにそんな人間は多いだろう。
自分は、そのように知識ゼロで、それを改善する気もないのに、自分はそれを知る権利があるとか、専門家は自分に分かるように説明する義務があると思っているような、高慢で、実に迷惑な人達だ。
だが、坂村教授も真面目な人なのだろう。
アイシュンタインのように、適当に相手を煙に巻くことを言っておけば良いのにと思うが、彼の立場でそうもいかない状況だったのかもしれないし、やっぱり、科学的に重要なことに関し、いい加減なことを言えない性格なのかもしれない。

以前、私が、少しビッグデータについて話していた時、その相手の中の、私のことを犬かネズミと見なしている偉い人が、
「ビッグデータって、いったん何なんだ!俺に分かるように言え」
と言ったものだった。
私が何か説明する度に、
「それのどこに良いところがあるんだ」
「デタラメなデータなんか集めたら駄目に決まっとるだろ」
と難癖を付けて来る。
それで、私は、
「申し訳ありません。ビッグデータの話は不適切でした。私が間違っておりました」
と言って、思いっきり見下されながら、さっさと引き上げた。
私は、アイシュンタインのようにウィット(機知)がないので、そういう言い方しかできないのだが、もし、うまいことを言って誤魔化すことができたとしても、やはり、私は自分の不誠実さが嫌になるだろう。
とは言え、私の言い方も不誠実なのだろう。
いや、私は、不誠実というより、冷たいのかもしれない。
木枯し紋次郎がよく言っていた、「あっしには関わり合いのねえことでござんす」というのと同じようなものだろう。
私は、年長の人に、
「あんたは愛がないよ」
とよく言われるのだが、それは全くそうである。
尚、下にご紹介した『アインシュタイン物語』は、短くて読みやすいから選んだが、最初に述べたエピソードは載っていない。
また、ビッグデータの入門としては、一貫して下にご紹介したものをお奨めする。









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私にはW杯の日本の予選突破を願う方がおかしいと感じる

私は正直、サッカーに興味はないのだが、ワールドカップの情報は嫌でも目にする。
それで、予選リーグで日本が入っているグループの他の国が、コロンビア、ギリシャ、コートジボワールと知った時、非常に複雑と言うか、妙な感覚を覚えた。
私の認識では、明らかな貧困国ばかりである。
完全に経済破綻し、政府が腐敗し切ったたギリシャ。
貧困そのもののコートジボワール。
コロンビアは、貧富の差が激しいのはどこの国も同じだが、暴力が蔓延り、貧しい者の悲惨さは半端でなく、国としての経済は極端な貧困国よりはマシと思われているのだろうが、コカインが主要産業の1つという歪んだ国だ。
彼らにとって、国民全員が貴族のような生活をし、毎日美味しいものをたらふく食べて丸々太り、緊張感の全くない顔をした日本人はどう映るのだろう?
日本代表選手ともなれば、皆、王様のように贅沢な暮らし振りで、全員が高級車を所有し、大会中は一流ホテルの中でも高い部屋を占拠していることは知られていることだろうと思う。

日本のマスコミは極端に偏った報道をするのだが、日本人サポーターのゴミ拾いが世界で賞賛されているだの、対戦相手国のサポーター達が、サッカーをまるで日本人のような感覚で捉えているように誤解させるインタビューばかり選んで放送しているのではないかと思うし、少なくとも、それが大勢という訳ではないと思う。
日本ではサッカーはスポーツだが、サッカー以外に世界で戦えるものがない国では、サッカーは戦争のようなもの、あるいは、戦争そのものではないだろうか?
日本のように、「サッカー界の未来」なんて発想は全くなく、今この戦争に何が何でも勝たなくてはならない国が相手なのだ。
そんな国の人達からすれば、日本という国は、日本人サポーターは戦争をしている国でゴミを拾い、戦争の真似をして歓声を上げるおかしな国ではないのかと思うのだ。
全体の実力でも、予選リーグの中では一番下だっただろうし、エースの本田選手も本調子とは程遠いという状況もあっただろうが、それよりも、気迫、ことに執念が全く違っていたはずだ。
イタリア、スペインのように、実力が高い上に、サッカーを代理戦争と見ているはずの国も、経済的下位国に破れて予選リーグで敗退していった。
日本の予選リーグ突破を願う方がおかしいと私は思う。

私は一流企業のエリート社員や、優良な弁護士事務所の弁護士達と仕事をすることがあるのだが、彼らの中に入るとひどい違和感を感じる。
私は、元々、普通の人達との会話に困難を覚えるのだが、育ちの良さも、収入の高さも、そして、関心事、趣味その他、ものの考え方や感性が全く異なっている彼らには、本当に「ついていけない」。
コンピュータープログラミングを覚えて、なんとか人並の給料を貰えるようになった私と、仕事はハードだろうが、高収入が当たり前の彼らでは、世間という場での立ち居振る舞いは本当に違っている。
私は以前、今よりもっと収入が低かった頃、なぜか、金持ちや社長さんらとばかり付き合っていたが、彼らにはまだ、私に合わせようという、慈悲心のようなものを感じた。
しかし、本物のエリート達は、人間的には良い人達で品格となると私とは比較にならないくらい高いのだが、こちらのひがみがあるのか、動物園のヒヒが人間に相手をされているように感じてしまうのだ。
しかし、サッカーワールドカップの、日本の相手国の選手達やサポーター達は、これとは比較にならない、ほとんど恨みに近い、あるいは、恨みそのもののようなものを感じ、動物園のヒヒが人間に牙を剥いている・・・ロクな考え方ではないだろうが、私にはそんな風に感じるのである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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