ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

2014年06月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
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[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

過去の知識など一切通用しない

新しいことを理解するために、既に知っていることで喩(たと)えると分かり易いことがある。
例えば、電圧を理解するために水圧に喩えるなどだ。
しかし、電圧と水圧とは根本的に違うものだ。

イエスや釈迦はたとえ話の名人だったらしい。
深い真理を、誰にでも分かる喩えで分かり易く説明した。
しかし、喩えはあくまで喩えでしかない。

傲慢な年寄りは、新しいものを、何でも自分が分かるもので喩えようとし、
「たとえば、自動車で言うと、こういうことだな?」
とか言い、それで、相手が自分の喩えを肯定すべきだと思っている。
その喩えが、馬鹿げたほど的外れであってもだ。

本当に新しいことを理解しようと思ったら、自分の知っていることは捨てなければならない。
特に、今の時代の新しいことは、既知のもので役立つものがないことが多い。
例えば、ITで言えば、CGM(消費者構築型メディア)やビッグデータを理解しようと思ったら、過去にある何かで喩えようとしても、それは不可能で、そんなことをすれば、滑稽な大誤解をするだけだ。
過去のもので、本質において近いものがないからだ。
新しいことを理解するためには、謙虚でなければならない。
それなのに、高慢な人間は、自分が知っていることに喩えれば、一足飛びに分かるものだと自惚れている。
CGMやビッグデータを知りたければ、実物を見、自分でやってみれば良い。
ところが偉い年寄りには、自分が劣った立場になるのが嫌だから、決して、そのものを見ようとしたり、まして自分でやろうとしない。
そして、自分が知っているもので喩え、その喩えが適切であると、強引に認めさせようとするのだ。
しかし、全く、的外れだよ。

新しいことを知りたければ、自分の無知を認め、謙虚になることだ。
そうであれば、年がいくつであっても、決して古い人間にはならない。









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幸福、幸運の絶対秘訣

私は忘れっぽくて、幸福や幸運の簡単で確実な秘訣すら忘れてしまう。
しかし、大昔から、誰もがそうなのかもしれない。
簡単な原則を忘れた時に不運になり、不幸になる。
だから、思い出した今、全部書き付けておく。

まず、最も大切なことが、生活が規則正しいことだ。
決まった時刻に起き、決まった時刻に食事し、決まった時刻に働き、決まった時刻に寝る。
これが大原則で、これだけ守っていれば、食べていくのには困らない。
起きるのが5時までなら、極めて幸福である。
子供に最低限、必ず躾けるべきはこれである。ただし、何事も自分が出来ていない限り、教えることはできない。

次に、良心に従い、親切であること。
これで余りある幸運に恵まれる。

さらに、優れた人になるには、掟を持つこと。
つまり、自己に高貴な制約を課することだ。
何でも良い。高貴とさえ言えれば。
例えば、金の貸し借りはしないこと。
トイレの下駄やスリッパはきちんと揃えること。
傘はちゃんとたたんでから傘立てに立てるとかで良い。
ある「優れたジゴロ(男妾、ひも)」を知っていたが、彼は、若い子にもモテたが、ガキに手を出さないことを掟としていた。ガキとは、概ね、学生を意味していたようだった。学生の範疇でいくら優秀でも社会に出ない限り所詮無知なのである。無知な相手を口説くのは仁義に反するのだろう。
掟を守る者に不安や恐れはない。幸運も倍化する。

最後に超人になるには、観察することと静止することだ。
意識的に観察して、観察眼を鍛えること。
岩や大木のように静止すること。
身体が静止すれば呼吸も絶対的に静かになり、鼓動と体幹を観察でき、心が静かになる。
体幹はあまり聞かない言葉で、普通は胴体のことを言うが、本当は、身体のコア…中心のことである。
立って静止すれば、概ね、腹や腰の部分に意識が向き、そこを止めれば全てが止まる。
その意識が向く部分を仮に体幹と言ったが、コア、中心、バランサー、肚、太陽神経叢(たいようしんけいそう)と呼ばれることもある。
だが、理屈はどうでもよい。
理屈だけ言って実践しない者がやたら多い。
大切なことは、観察することと静止することだ。
そうすれば、自然に分かる。

全て、謙虚で敬意を忘れない人間にしかできない。
これらの秘訣を通じ、人は身の程をわきまえる。
そうすれば神と融合し、宇宙意識と一体化し、無敵となる。
最上の秘訣は、3プラス1という意味で4つなのだ。最後のは人の領域ではないからである。









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ボスに相応しい男、かしずくに足る女とは

私は最近、BS-TBSで再放送されている、笹沢左保さん原作の時代劇『木枯し紋次郎』(1972年)を録画して見ている。
木枯し紋次郎は、渡世人ということになっているが、渡世人とは、「ばくちうち。博徒。やくざ。」という意味らしい。
ただし、紋次郎は常に一人旅を続ける無宿渡世であり、いわゆる、流れ者ということだと思う。
西部劇で言えば、『南から来た用心棒(原題:アリゾナ・コルト)』で、ジュリアーノ・ジェンマ演ずる、流れ者の凄腕ガンマンにして賭博師アリゾナ・コルトと同類ということだろう。

紋次郎はチームを作っている訳でも何でもないのだが、人を見る目を持つ者は紋次郎を一目見ると、「大した貫禄の親分さん」と確信し、口でもそう言う。
すると紋次郎は、「あっしは親分なんかじゃござんせん」と言うが、やっぱり、全身からほとばしり出る、隠しようもない雰囲気・・・オーラとでもいうものがあるのだろう。
あなたは、そんなオーラを持った者に会ったことがあるだろうか?
私の場合、残念ながら、こっちに人を見る目がないので、会っても分からないという訳だ。
まして、私が、そんな雰囲気を発するのは、死んでも無いということかもしれない。

ただ、いかに見る目がなくても、睨みあうことにでもなれば、誰が本当に強いのかは、どんな低レベルの人間でも分かるものだと思う。
雄ライオン同士は、実際に戦わなくても、対峙しただけでお互いの力量を認識し、自然にボスが決まるものらしい。
そして、肉があれば、まずボスが一番良い肉を選び、その間、別のライオンはおとなしく待っているのだ。
その力量とは、必ずしも肉体の強さで決まるのではないという。
最近、ケヴィン・リチャードソンという男性が、野生のライオンをまるで猫のように扱うビデオを見たが、肉体的にはライオンにはるかに劣る人間でも、真の力があれば、ライオンのボスのようなものになれることからも、そんなこと(本当の力は肉体の強さではないこと)が分かるように思う。

テレビドラマの演出とはいえ、やはり中村敦夫さん演じる紋次郎は雰囲気がある。
どのあたりにそれを感じるかというと、無口なところと、動く必要がない時は、ほとんどぴくりとも動かないところだ。
そして、これはやはり、大物の特徴であるはずだ。
安っぽい人間ほど、無駄口を叩き、落ち着き無く動く。
電車の中でも、手足をぶらぶらさせたり、例え音楽を聴いているのだとしても、踵で床を鳴らしたり、指で何かをトントン叩き続けている者を見れば、明らかに、低級な人間であると感じる。
こちらも、あまり上等ではないので、大物は分からないが、小物は簡単に分かるのである。
あなたも、チンピラだと思われたくなければ、じっと動かないことだ。
また、呼吸の音はさせず、咳をするにも、なるべく音を立てないことだ。
安い男ほど、大きな音で咳払いをしたり、喉を鳴らしたりするものだ。
女であれば、やっぱり、騒がしく、無駄に慌(せわ)しいのは、軽い女、安い女なのである。
もちろん、相手に気を使って明るく話しかけたり、ジョークを言って周りを楽しくするのは、むしろ、大物に近いほどだ。
しかし、小物がそんな真似をするのは、単に自分に注目を集めたいだけで、やっぱり、騒がしいだけだったり、同じような弱い者同士で馴れ合っているだけである。

そして、じっと動かない訓練、無駄なことを一切言わない決意をすれば、あなたも力量を増し、男であればボス、女であれば、かしずかれる女神のような存在になるのである。
くれぐれも、小我を満足させるために、下らないおしゃべりをしたり、つまらないことをしないことだ。
また、馬鹿みたいに、落ち着き無く動いたり、手足をぶらぶらさせないことだ。そんな人間が実際に馬鹿なのだ。
特に、大物を目指す男であれば、いつでも、彫像のように動かず、沈黙の行でもしているかのように、どんな場合でも、言い訳すらせずに黙っていることだ。
本物の男とは、一切、言い訳をしないということはご存知と思う。









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童話は素直に読むものだ

童話に新たな意味付けをしたり、妙な深読みをしたがる者は多いが、古いお話は素直に読んだ方が良い。
しかし、それ(素直に読む)が一番難しい。
だが、童話を、深読みしないと分からないなら、世の中の全てが謎になるだろう。

有名な『シンデレラ』には、『眠れる森の美女』と同じように、グリム版とペロー版、その他、様々なものがある。
グリム童話やペロー童話自体に、作者による改変はある。
だが、これらの優れた著者達は、物語の本当に大切な本質は変えていないものだと思う。
だから、やっぱり素直に読むのが一番だ。

最近、ペロー版の『シンデレラ(サンドリヨン)』を読んだが、素晴らしいので驚いた。
人生の知恵、成功のための秘訣がこの1つに全て含まれているようなものだと思った。
サンドリヨンとは「灰だらけの子」という意味で、それは、継母の2人の娘の内、妹の方が、父親の実子(シンデレラ)を呼ぶ時の言い方だった。
姉の方は、シンデレラをキュサンドリヨンと呼んでいたが、それは「おしりが灰だらけの子」という、もっと悪い意味だった。
シンデレラが、サンドリヨンとかキュサンドリヨンと呼ばれたのは、彼女は、居間の隅の、暖炉の灰が積もった場所に座っていたからである。そこしか居場所が与えられなかったのだろう。

童話のヒロインは絶世の美少女と相場が決まっているが、そこは、深読みではなく、むしろ素直に読むなら、心の美しい娘ということになると思う。
外見の美しさの基準は、時代や場所で極端に異なる。
しかし、心の美しさに関してはそうではない。
人がものを見るというのは、ものに当って反射した光の粒子を眼が信号として脳に送り、それを脳が解釈することだが、その際に、個人の持つ幻想がその解釈に影響を与えるのである。
だから、外見の美しさは、ただの幻想であり、偏見や妄想でしかない。
心の目は、それとは違う捉え方をするのである。
シンデレラは心の美しい子だった。
彼女が、いいつけられた仕事を不満を言わずに一生懸命にやったのは、恐怖からではない。
もしそう(恐怖による強制的な仕事)であるなら、その仕事には欠陥が多いはずだが、シンデレラは、それを自分の仕事と認識していたので、彼女は極めて有能だった。
シンデレラは、高い受容性の持ち主だった。
シンデレラが、舞踏会に行く継母やその実の2人の姉妹の支度を手伝う時も、いやいやでも、無理矢理でもなかった。
シンデレラは優れたセンスも持っていたのだが、それだけでなく本気で、継母やその娘達をきれいにしてあげようと思っていて、実際、彼女達は可能な限り美しい姿で舞踏会に行くことができた。
シンデラレの最大の美点は親切さだった。
仙女の力で舞踏会に行ったシンデレラは、王子様の関心を一心に受けながらも、自分のことに気付かない継母やその娘達にも、やはり親切にしたのだった。
さらに、プリンセスになってからも、継母やその娘達にずっと親切にしたのである。

ペロー童話には、『グリゼリーデイス』というお話がある。
グリゼリーデイスは美しい農民の娘の名で、彼女はシンデレラどころではない酷い目に遭う。
性質としては、シンデレラとグリゼリーデイスはそっくりで、まるで、グリゼリーデイスはシンデレラの前世のようにも感じるほどだ。
グリゼリーデイスは特に受容性が強調され、その美徳は完成の域に達している。
だが、こちらは子供には難しいお話で、そのせいで、日本でもあまり知られていないものだと思う。
大人でも読むのは辛いかもしれない。
だから、『シンデレラ』で十分だが、これを素直に読めば誰でも幸福になれるし、成功したいなら、『グリゼリーデイス』をよく読めば良い。

下にご紹介した1つ目の『ペロー童話集』は、私が読んだ電子書籍である。









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座禅も静坐もTMもあなたには合わない

世の中には沢山の瞑想法があり、それぞれに独自のやり方がある。
道元の座禅や、岡田虎二郎の静坐は、細部まで厳格な取り決めがあるが、他の多くの瞑想法もそうである。
比較的自由なやり方のものもあるが、それでも、守らなければならないことは、それなりにあるはずだ。
マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーのTM(超越瞑想)は、これのマーケティングを託されたという船井幸雄氏が、「自然瞑想と呼び方を変えた方が良い」と著書で述べておられたが、それはどうだろうと思う。
TMは、1日2回の空腹な時、つまり概ね、朝食前と夕食前に20分行うこととし、背筋を伸ばして座り、心の中で自分専用のマントラをずっと繰り返すというもので、その他の注意を含め、十分に制約が多く、私には、自然なものとは感じられない。

道元や岡田虎二郎が偉大だったといっても、現代の我々がそれに従うのは時代遅れかもしれない。
道元の時代と違い、虎二郎の時代は、既に十分な本があり、虎二郎も非常に多くの書を読んでいた。
特に彼は、明治34年に渡米し、そこでも多くの本を読んだようだ。
しかし、今の世の中にある本や、その他の印刷物の数は、虎二郎の時代とは比較にならないだろう。
無論、私もだが、現代人の大半は虎二郎のように多く勉強してはいないが、触れる情報に関しては桁違いに多いのだ。
ほとんどの人は聞いたら驚くかもしれないが、現在の世の中にある情報のうち、印刷されたアナログ情報は、なんと全体の2%以下で、後はデジタル情報なのだ。
確かにデジタル情報には、下らない情報も多い。
しかし、情報は雑多でも量が多いことに価値があるというのが、少し前から注目されているビッグデータによって分かってきたことだ。
そして、虎二郎の時代は、情報量が圧倒的に少ない上、その情報のかなりのものが、やはり正確さに甚だしく欠けるものであったはずなのだ。
私は、道元や岡田虎二郎、その他の古い時代の偉人達に、おそらく大きな敬意は持っていると思うが、絶対的に崇拝するというのは、明らかにおかしなことと思う。
彼らの誰もコンピュータープログラミングなどは想像もしなかった。
プログラミングの能力を持てば、それが彼らに対しても圧倒的なアドバンテージになる。
プログラミングには、それだけの力がある。

瞑想であれば、道元の座禅、岡田虎二郎の静坐、マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーのTMをはるかに超えるものを、それぞれが作れなければおかしいと思う。
これらの(座禅等の)瞑想法が合う人もいるが、そうでない人もいるはずだ。
どれも、ぴったりと適合する人は、せいぜい数パーセントで、割合に合う人でもせいぜい4割程度、後は、あまり合わないか、致命的に合わずに、悪い影響があることも少なくないはずだ。
もちろん、ものを深く考える習慣がなく、性急であったりする者も少なくないので、何でも我流というのは勧められないかもしれない。
しかし、これからは、自分独自のものがなければいけない時代だ。
最初は失敗することがあり、また、リスクもあるとしても、自分だけのものを創り出さないといけないのだ。
今、人生がうまくいっていない人というのは、そんな進取の気性に欠けているのである。

私は、瞑想は、座禅でも静坐でもなく、TMはやったことはあるがとおに捨て、私にとっては、これらよりはるかに良いやり方でやっている。
しかし、私は瞑想の指導で儲けて豪邸に住もうなどと思わないので、それを他人に教えようとは思わない。
そして、瞑想程度のことは自分に最も合ったやり方を自分で見つけなければならない。
瞑想自体は価値あることだ。
自分で考えた自分に適した瞑想を行うことは、あらゆることを自分で考え、自分の世界を創造することにもつながるはずである。









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