ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

2014年02月

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[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

根気を育てるには

「俺は忍耐など絶対にしない主義だ」
と言ったところで、忍耐を強いられることは必ず起こる。
だが、苦しい状況も運命であるとして、甘んじて受け入れて耐える者は、不思議とものごとが好転していく。
忍耐とは、文句を言わず、黙って忍ぶことだ。
辛い時、口で黙っているだけでも立派で、誰の心の中にもいる神仏は、それを愛しいと感じる。
まして、心でも沈黙するなら、それは高貴以外の何者でもない。
神仏は高貴な者を支えるのであるから、そんな者が悪くなるはずはない。

腕振り運動を普及させた、電波工学の世界的権威であった関英男博士は、多くの人が、この腕振り運動であらゆる病気を治し、自身も胃癌を治したというが、大切なことは、決めた回数を根気よくやり抜くことであると述べていた。
これもまた忍耐である。
1日2千回と決めたら、怠惰な心に打ち勝ち、それを確実に継続すれば、その高貴な姿に、神仏が手を貸さないはずはないだろう。
もしかしたら、初めは利己的な欲から始めるとしても、毎日必ず実行すれば、欲は消えていき、やはり良い結果になる。
もし、いつまで経っても何も起こらないなら、まだ回数が少ないのだ。

江戸末期の偉大な神道家、黒住宗忠は難病を患う武士に、「ありがたい」という言葉を1日百回言うよう指示し、治らなければ千回に、それでも駄目なら1万回としていった。そして、1万回を1週間続けたところ、その武士の病は治ってしまった。
大数学者だった岡潔は、毎日、念仏を称えることに励んでいたといわれるが、熱心に念仏を称え続けた者に起きた不思議な出来事は数多い。
どんなことでも良いが、1年365日、1日も欠かさず、決めたことを、できるだけ決めた時間に必ず行えば、神仏が助けないはずがない。
もし、ひどく辛い日々であっても、念仏を称えれば、それに耐える力も得られ、やがては幸福になるというのは、間違いのないことであると思う。
馬鹿みたいに単純であるが、真理とは本当は簡単なものである。









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分かったら捨ててしまえばいい

発明家の中山正和さんが著書にこんなことを書いていた。
偉大な数学者であった岡潔は、道元が書いた『正法眼蔵』を、意味が分からないまま20年も座右の書としていたが、ある時、突然、天啓が閃き、一瞬で全てが分かったのだという。
中山さんも、それを真似てみたところ、やはり同じような結果になったという。

『正法眼蔵』は、文章自体は難しいものではないと思う。
適切に現代語訳をしてくれれば、文章の意味はよく分かるし、むしろ易しい。
例えば、「薪が燃えて灰になるが、薪が先で灰が後と思ってはならない。薪は薪になり切っているのだし、灰は灰になりきっている。春が夏になるのではなく、春は春で完成し、夏は夏で完成している。同じく、生の後に死があるのではなく、生は生になり切っていて、死は死になり切っている」といったように、文自体は簡単だ。
しかし、世間的な理屈で考えると、何のことかさっぱり分からないだろう。
だが、何をもって「分かる」と言うのだろう。
私は、初めて『正法眼蔵』を読んだ時、「ああ、美しいな」と思った。
この「美しい」と思うことは、分かるということではないだろうか?
私は、時が経つほど、『正法眼蔵』を美しいと思わなくなった。
つまり、分からなくなったということである。
アインシュタインは「自分に分かるということが、私には分からないのだ」と言ったというが、そんなことに悩むべきでないと思う。
確かに、理屈ですっきり分からないと不安な面はあるだろう。いつか、それを失うかもしれないからだ。
しかし、それならそれで仕方がないとする態度が大切なのだと思う。

『正法眼蔵』は全巻はかなりのボリュームである。
非常に多くの現代語訳があり、全訳本だけでもいくつもある。
私が読んだのは、禅文化学院が編集し、現代語訳と各章ごとに簡単な解説をつけた抄本である。
抄本と言っても、1冊たっぷりである。
私は、この本で十分であると思う。
重要な部分を厳選してあるのだと思うし、『正法眼蔵』は各章で独立したものであり、全体を読む意味も大きいとは思うが、このような優れた書物は、1つの章が全体を表し、あらゆる真理を表しているのだとも言えると思うのだ。
例えば、般若心経は、短いながら、あらゆる膨大な経典の全ての内容を含むと空海が言ったのは、決して虚言ではないようなものだ。
それに、禅文化学院がつけた短い解説がとても良い。
多くの『正法眼蔵』の現代語訳著者の多くが、現代語訳と一緒に、解説と称して自分の考えを延々と書き綴っているが、正直、そんなものの多くはただの偏見でしかないだろう。

私は、『正法眼蔵』を初めて読んだ時の感動を覚えている。
本当に美しいと感じた。
先に進むのがもったいないと思ったものだった。
理屈の意味など詮索せず、そのまま読んでいれば良かったのだと思う。
しかし、読んでいるうちに、無理に理屈で理解しようとしてしまった。
すると、読んでいて楽しくなく、苦痛にすらなってくる。
何と言っても、理屈ではさっぱり分からないのだからだ。

『正法眼蔵』は、中国の『老子』に似たところもあると思う。
『老子』も、理屈ではさっぱり分からないが、恐ろしく美しい。
そして、『老子』は、さして長くない81の詩であり、私が読んだ『正法眼蔵』の抄本と同じような量である。
『老子』だって、著者とされる老子が、厳選した重要な言葉を尹喜(いんき)に口頭で言ったもので、尹喜はこれを憶えて、後で書いたと言われている。
昔の人は記憶力が優れていたが、尹喜はその中でも極めて優秀であっただけでなく、老子の言葉が心に刻み込まれ、一言一句違わずに書いたのだと私は思う。
『荘子』も大書だが、重要なエッセンスは内篇の1冊で収まる。
『荘子』は、『老子』に比べ、まだ平易に書かれているが、それでも、真髄となるとやはり分からない。
だが、『荘子』は、「美しい」と同時に、お伽噺のように「面白い」と感じさせるのは、荘子の善意と取っておきたい。
それは、『列子』では、さらにそうだと感じる。

だが、道元は、『正法眼蔵』のような素晴らしい大書を書いておきながら、結局は、「ただ座れ」と言った。
真理は、座れば分かるのだ。
親鸞も、『教行信証』という凄い書を書いているが、やはり、「ただ念仏しろ」であった。
念仏以外に何もする必要はないのだ。
初めに挙げた岡潔が、結局は、毎日念仏を称えることに励んでいたということを感慨深く感じるのである。









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本来の自分とは何か?

本来の自分とはいったい何だろう?
あなたは、本来の自分だろうか?
あるいは、1日の間で、どのくらい、本来の自分でいるだろうか?
会社や学校が嫌いなら、そこでは本来の自分でいられないのだろうか?
自分にとって心地良いと感じていることが、本来の自分であることだろうか?

どうすれば、自分が本来の自分の状態であるかが分かるのだろうか?
それは、自分の呼吸に注意すれば良い。
呼吸をしているのかどうか分からないほど、呼吸が微かである時、あなたは本来の自分に近いのだ。
ところが、いつも、耳障りなほど音を立てて呼吸している者がよくいるが、そんな者は、本来の自分でいる時がない。
眠っている時も、死んでいるのと区別が付かないほど、安らかな呼吸をしている者は、本来の自分として眠っている。
だが、荒い息をして眠っているなら、眠りの中にあっても、本来の自分に戻ることができないということなのだ。

作為的に静かな呼吸をして、本来の自分になろうとしても駄目だ。
無理に細く長い息をしても苦しくなるだけだ。
自然に微かな呼吸をしている時のみが、本来の自分であるのである。

荒い呼吸をしていてもいいから、自分の呼吸に気をつけていることだ。
自分の呼吸を観察するのである。
呼吸が自分の状態である。
だから、呼吸を観察すれば、自分を観察できる。
この観察することが、心を静め、呼吸を穏かにする。

呼吸において死人のようになった時、あなたは本当に生死を超え、楽園に参入している。
本来の自分に近付いた優れた人間は、1分間に1~2回しか呼吸していないし、さらに高いレベルになれば、数分に1回しか呼吸をしない。
そのくらいになると、必要なら奇跡も起こせる。
あまりに呼吸が微かなので、息をしていないとしか思えないほどの者は、神に近いとすら言えるかもしれない。
般若心経の真言を称えたり、念仏をしたりして、呼吸と言葉を浄化すれば、自然に呼吸は微かになる。
そのようなことをやるのは良いことと思う。









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情緒、感性は普通に言われる百万倍重要である

ニュートンが、落ちるリンゴを見て万有引力を発見したというのは、社交界で会話をするために彼が作った話だろうと述べていた著名な数学者がいたと思うが、そうではなく、実際にニュートンは、具体的にどこで、そのリンゴを見たのだという話も伝わっている。
私は、ニュートンは本当にリンゴを見るか、それに近いようなきっかけで万有引力の着想を得たのだと思う。
というのは、いかなる発見、発明であろうと、そんなものだと思うからだ。
アインシュタインは、一般の人に彼の相対性理論を説明する際、「美女と一緒の1時間は短いが、熱いストーブの上に座っている10分は長い」と言ったらしいが、このことは、他愛もない話とか、半分笑い話の冗談であると見なされるのが普通だろう。
しかし、ニュートンのリンゴといい、アインシュタインの美女とストーブの喩えといい、全く本質的な話である。
科学というと、冷淡で無味乾燥だと大誤解している人が多いかもしれない。
だが、ニュートンもアインシュタインも、感性があったから大科学者になれたことは間違いがない。
ある大写真家が、写真に大切なことはテクニックより感性だと言ったが、およそどんな仕事でも、その道に達した人は間違いなく似たことを言うのである。
「感性がある」とは、風流を感じることができ、情緒が豊かなことである。
受験勉強ばかりして、試験の点を取ることだけが得意な人が、科学者はもちろん、何かの分野で成功することは決してない。
感情を磨き、発達させていなければ、何をやっても高度には決してなれない。
もし数学にノーベル賞があれば、それを獲得していた可能性が高く、アインシュタイン並に有名になっていたかもしれない数学者の岡潔は、「時間とは情緒の一種」だと述べていたことにも、情緒、感情、風流の重要さを感じるのである。
科学的な時間もまた情緒なのだ。
アインシュタインの美女とストーブの話は、洒落でもネタ(真実めいた作り話)でも何でもない。
彼は真面目に言ったのだ。
ニュートンもアインシュタインも情の人だったことはよく知られている。
それは、良い意味でも悪い意味でもだ。
彼らについて書かれた本を読めば、それが嫌というほど分かると思う。

優れた人間を目指すなら、情緒、感性、風流、情感を磨かねばならない。
そのためには、芸術に親しまねばならない。
無論、芸術について感性も情緒もない理屈をこねる「センセー」の言うことなど聞いてはならない。
芸術というものは、単に人生の潤いや楽しみではない。
風流、優雅とは、ご飯のおかずではなく、むしろ、主食である。
クラシック音楽を退屈に感じるのは、それが創られた時代背景や、作者がそれを制作した時の状況や想いが分からないという場合が多いと思う。
だから、クラシックは、初心者が聴く時の配慮を考えてあげないといけない。
退屈でない範囲で、作品の背景を上手に面白く説明できてこそ、クラシックの先達、上級者と言える。
もちろん、そういったものが分からなくても、すぐに惹き込まれる旋律の美しいクラシック音楽もある。
例えば、ドビュッシーの『月の光』、スメタナの『モルダウ』、ホルストの『ジュピター』などは、多くの人が、いきなり聴いても、恍惚となる場合も少なくはないと思う。
まずは、それらの曲から入ることも良いことと思う。
現代人は、「心豊かな人になる」ことを、「できればそうあれば良い」程度に考えているのかもしれないが、心豊かでなければ何もできないのだ。全く何もだ。
理性や知性ももちろん重要であるが、重要なことを言えば、理性も知性も、情感が発達しなければ、全く磨かれないのである。
試験勉強を過剰に重視することは、なんとも恐ろしいことであるのだ。

音楽に限らず、小説、絵画、彫刻などでも、研ぎ澄まされた感性を持つ作者によって制作された、優れた情緒が込められた作品を味わうことは、本質的な部分で極めて重要なことである。
しかし、間違っても、学校の美術や音楽の時間を増やせと言っているのではない。それらのものこそ、子供達の感性や情緒を破壊するものでしかない。
初音ミクを、サブカルチャー(下位文化)や偏った趣味と思うのは、感性と情緒の欠落だろう。
冨田勲さんや渋谷慶一郎さんといった芸術的音楽家達が、初音ミクを壮大な交響曲や荘厳なオペラのプリマにするのは、彼らが、高度な音楽の技能や経験と共に、極めて優れた感性や情緒性を持つからである。
幸い、彼らがミクをfeaturing(本来、客演という意味だが、主演の意味もある)して制作した『イーハトーヴ交響曲』やオペラ『THE END』は、現代的な芸術であり、敬って味わえば、優れた情感に導いてくれると思う。
また、そこから、クラシックや伝統的オペラに入っていくこともできるのだと思う。









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うつむいた少女が優美な訳

私は、美しい少女の、うつむいた姿が特に好きだ。
その理由は、1つには、ふんぞり返っているよりも、控えている方が慎みがあって良いということも確かにある。
しかし、それよりも、人間はうつむいている時は、あまり呼吸していないということが重要なのである。
うつむくと、静かに、細い息をしているのであり、そんな時は、心が澄んで希薄になっている。
心が透明な人間の存在は美しく、それがただでさえ美しい少女なら、天使に変わってしまう。

初音ミクだって、うつむいているポーズが多く、それらがとても美しいのを見ると、優れた映像アーチスト達は本当によく分かっているなあと思うのである。

健康であること、若くあること、そして、高い能力を発揮し、幸運を呼び、不可思議な存在に守られる鍵は、心が静かであることであり、そのために、長く細い呼吸をすることが大切なことだと賢者達は教える。
しかし、無理に細い息をしたって駄目だ。
確かに、心が静まった時は、呼吸も静かだ。
しかし、その逆も真なりとばかりに、意識して呼吸を静かにしても、心が荒れ狂っていれば、全く何の効果もない。
心が騒いで止まらない時は、意識的に何かするなら、無理にでも笑った方が良い。そうすれば、かなり落ち着く。

細く静かな呼吸をするには、呼吸そのものをコントロールするのではなく、心を鎮めることで自然に呼吸を静めなければならないのだ。
そのために、うつむいて静かにじっとしていたり、花や鳩を見ならがら微笑むと良い。
それをきっかけに、心は静まっていき、自然に呼吸は微かになっていくのだ。
あるいは、初音ミクがうつむいた時の優雅な表情を見て、「きれいだな」と思うと、もう心は静まっている。

老子22章は、「曲則全、枉則直」で始まる。
その意味はこうである。
屈伸できれば自由自在
たわむなら無碍(むげ)自在
~『老子(全)』王明訳より ※各行の最後の言葉を略した~

とても美しく真理を言い表していると思う。
また、念仏を一心に称えれば、努力しなくても呼吸は自然に静まり、必ず神仏に守られるのである。









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