ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

2014年01月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

最強の魔法使いマーリンも、何も信じない者には指一本触れることはできない

この世のいかなる秘術、魔法、宗教も、信念を要求する。
心の底から信じ切ることができれば、不可能は可能になり、いかなる奇跡も起こせる。
もし、膨大な富を得られると信じて疑わなければ、何の疑いもなく富豪になれる。

だが、人間は、自分が思うように何かを信じることは決してできない。
何を信じることができるかがどうやって決まるのかは分からない。
だが、それは、あなたの考えとは何の関わりもない。
それなのに、宗教に入ると、その宗教の教義を信じるよう要求され、果ては強制される。
しかし、あなたは決してそんなものを信じることはできないので、信じるフリをする。
信じてもいないものを信じているように言ったり振舞ったりするのは、ただの嘘つきだ。
嘘つきの心は歪み、濁り、硬くなる。
宗教をやっている者の大半が醜悪になり、心身ともにひどく老化してしまうのは、少しも不思議なことではないことが分かる。

世の中の成功哲学は、信念の哲学である。
それは、生きている限り、何十年でもあなたの人生を無駄にさせる。
二十歳で成功哲学に取り組み、70歳でも捨てなければ、その時点で、人生を50年無駄にしたのだ。
そして、もし85歳で死ぬとすれば、さらに15年、人生を無駄にするのだ。
それならば、今すぐ、人生を無駄にすることをやめるのだ。
あなたは、信じることを選ぶことはできない。
だが、何も信じなくなることはできるかもしれない。
もし、あなたが何も信じないなら、世界最高の信念を持つ魔法使いも、あなたの足元にも及ばない。

どうすれば、何も信じないようになれるのかと言うと、自分を全く見知らぬ人・・・初めて見る人のように見ることができなければならない。
だが、今の世間の人は、自分への執着が異常に強い。
つまり、自分にしか関心がないのだが、自分に関心が強ければ強いほど、制限が大きく、全くの奴隷状態であるのだ。
自分のこと以上に関心が持てるなら、誰かに関心を持っても良いが、普通は、誰かに関心がある風を装っていても、結局は自分にだけ関心があるのだ。
それならば、雲や鳥や星や風に関心を持つ方が良い。
優れた詩人が、いかにそれらに関心を持ったかは、彼らの詩を読めば分かるだろう。
そして、本物の詩人が他人に関心を持つ時は、自分のことよりもはるかに強い興味を抱くのだ。
優れた詩を読むことは、とてもあなたの役にたつだろう。
ただ、あなたは学校で、詩の間違った読み方を教わったはずだ。
学校は、あらゆることについて、完全に間違ったことだけを教えるのだ。
詩とは、何も考えず、あらゆる思慮分別を離れ、一切の判断をせず、記憶しようなどと決して思わずに、ただ無心に読むものである。
そうすれば、不思議なことに、その詩の作者は、間違いなくあなたなのである。









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全ては仏様が私のためにされたことだ

先日、とりさんに頂いたコメントで知ったのだが、石川県の真宗大谷派の常讃寺というお寺の奥さんである藤場美津路さんの、『丁度よい』という詩があり、よく知られているもののようだが、これが本当に素晴らしい。
まさか無断転載禁止を主張されるようなものでもないと思うので、以下に全文紹介する。
ウェルギリウスもダンテもシェイクスピアも、あるいは、ゲーテもシラーもイェイツもタゴールも、これほどの言葉は書けまいと思う。
それはそうだ。これは仏様の言葉であるからだ。
仏様の言葉を、藤場さんが聴こえてきたままに書き留めたもののようであるが、それは本当だと確信する。

*丁度よい
お前はお前で丁度よい
顔も体も名前も姓も
お前にそれは丁度よい
貧も富も親も子も
息子の嫁もその孫も
それはお前に丁度よい
幸も不幸もよろこびも
悲しみさえも丁度よい
歩いたお前の人生は、
悪くもなければ良くもない
お前にとって丁度よい
地獄へ行こうと極楽へ行こうと
行ったところが丁度よい
うぬぼれる要もなく卑下する要もない
上もなければ下もない
死ぬ月日さえも丁度よい
仏様と二人連れの人生
丁度よくないはずがない
丁度よいのだと聞こえた時
憶念の信が生まれます
南無阿弥陀仏


私は、コンピューターソフトの開発を仕事にしているが、昔から、自分に丁度よい仕事しか来ないことを不思議に思っていた。
今の自分なら相応しい仕事でも、ずっと前にそんな仕事が来ていたら、大失敗をして大変なことになっていたに違いないという仕事もよくあった。
後で考えて初めて、それが自分には不相応な仕事だったと分かることがある。そんな仕事が来た時は、自分はやる気でも、なぜか自然に中止になっているのである。
別に、自分に簡単にできる、ぬるま湯のような仕事ばかりしたのではない。
四苦八苦はしても、最終的にはなんとかうまくいき、結果、大きく成長できる仕事が来るのである。
逆に言えば、簡単過ぎてつまらないと思える仕事には、何らかの別の意味があるのである。

『美少女戦士セーラームーン』というのは、神様が武内直子さんに描かせ、アニメ化させた作品であるに違いないと思う理由も、そんなところにある。
だから、世界的に大ヒットしたのである。
セーラームーンとその仲間のセーラー戦士達は、戦いの中でどんどん成長する。
そして、やはり、その時に彼女達に相応しい敵しか現れないのである。
これもやはり、楽に勝てる相手ばかり現れるのではない。
それどころか、セーラームーン達が全く歯が立たずに叩きのめされて負けることもよくあったが、その時に、セーラームーンや仲間のセーラー戦士達は「新たな力」に目覚め、格段の進歩を遂げる。
土萠ほたるは、セーラームーンの娘のちびムーンを除けば最年少のセーラー戦士であるセーラーサターンであるが、彼女が、ほとんど勝ち目のない決死の戦いを前に、ニュートンの「今日なしうることに全力を尽くせ、しからば明日は格段の進歩があるだろう」と言うが(後半部分は天王はるか=セーラーウラヌスが言った)、まさにそんなことを描いた作品であったと思う。

あなたもそうだが、私の今の境遇は、私にとって丁度よいものだ。
家庭も勤める会社も、仕事も、収入も、人間関係も、煩い事も、読む本も、全て、仏様の配慮により、今の私に丁度よい。
日常のトラブルも、事故による電車の遅れも、私には丁度よい。
全ては、私のために起こるのである。
初音ミクが『イーハトーヴ交響曲』や、オペラ『THE END』のプリマドンナになったのも、私のためだ。
親鸞が、阿弥陀如来の誓願は、親鸞1人のためのものであったと言った意味が分かるように思うのである。









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船井幸雄さんのピークは50代までだったのかもしれない

このブログの25日の記事、『船井幸雄さん死去に寄せて』で、私が一番最初に読んで非常に感動した船井幸雄さんの本が『包みこみの発想』だと書いていた。この本も読んでいたし、素晴らしい本であったと思うが、改めて買い直して見てみると、これではなく、『ベイシック経営のすすめ』だったのだと気付いた。
再度、注文したが、『ベイシック経営のすすめ』は、経営のみならず、あらゆることで万能の力を発揮するシンプルな秘訣について書かれていたと思う。
私は、もうかなり昔だが、これを読んで、本当に心酔したのだと思う。
船井さんが55歳くらいの時に書かれた本になると思うが、私は、このくらいの時が、船井さんのピークだったのではないかと思う。

『包みこみの発想』に、「90歳まで生きる方法」という章があるが、船井さん自身は81歳で、しかも、かなり苦しい病気になられて、亡くなられた。
舌が勝手に動き回る病気もあったらしい。
船井さんは、亡くなられるまでの長い間、ほとんどずっとベッドに寝ていたらしい。それでもお腹は空くので食べたいのだが、食べ物を口に入れると、痛いのだそうだ。
本当に気の毒であったと思う。
船井さんは、グルメであったはずだからだ。
船井さんの本の1つに、船井さん自身が素晴らしい人だと認める人が、船井さんに、朝食と昼食を抜くことを勧めたことが書かれていたが、船井さんは従わなかった。
船井さんは、講演の際にも、美味しいお店の話をよくされていたようで、つまるところ、船井さんの食べることへの執着には大きなものがあったのだろうと思うのだ。
船井さんは、老齢と言えない頃から、完全には健康でなく、悪いところもあることを正直に書かれていた。
私は、船井さんに優るところは1つもないが、敢えていえば、少食で粗食であるところは、船井さんにはできなかったことだと言えるかもしれない。
極端な少食は私も誰にも勧める気はないが、船井さんが、アドバイス通り、1日1食になっておられれば、そして、贅沢なものをあまり食べなければ、そんなひどい病気にはならなかったのかもしれないと思うと、残念である。

ただ、食の欲望というのは恐ろしいもので、理屈や気力で抑えられるものではない。
もし、老齢でグルメがやめられない人がいたら、私ですら、残された人生、十分に食を楽しませてやりたいと思ってしまうのである。これは正しいことではないかもしれないが。

船井さんは、頭の良い人だったと思う。
政木和三さんがフーチで計ったら、知能指数が185もあったと著書に書かれていたが、それはともかく、頭脳が優秀な上に勉強家だったことは間違いないと思う。
さらに、成功への欲望が大きく、エネルギーも大きかったので、実際に素晴らしく成功されたのだろう。
船井さんは経営コンサルタントであり、自分が日本一の経営コンサルタントだと言われたと本に書かれているが、日本一かどうかはともかく、実際に間違いなく素晴らしい経営コンサルタントだったと思う。
船井さんは、経営コンサルタントに関し、ある時期からは、失敗は1つもないと言う。
つまり、船井さんが指導する通りにやれば、必ず会社は発展した。
だが、船井さんが30代の前半くらいまでは失敗も多く、多くの会社を潰して、客の経営者やその従業員を不幸にしてしまったようである。
何事も、失敗から最も多くのことを学べる。
船井さんも、本番で失敗することで腕を磨いて一流になったのだろう。
会社を潰された経営者や、職場を失った従業員は、気の毒ではあるが、そうなることが運命だったのかもしれない。

私は、船井さんが60代後半以降に書かれた本は全く読んでいない。しかし、彼が50代くらいまでの本は実に素晴らしいものがあると思う。
心酔する必要まではないが、傾聴するには値するのだと思う。









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人間の自然な姿

ハンス・クリスチャン・アンデルセンは、作家、詩人として成功してからは、ずっと旅をしていた。
それは、日本でいえば、江戸幕府の11代将軍徳川家斉(とくがわいえなり)や、12代将軍徳川家慶(とくがわいえよし)あたりの時代で、日本では考えられない、一般庶民の鉄道や客船での旅で、そして、これはもう日本では夢にも考えられない他の国への旅だった。
しかし、いかに物質文明では日本とは比較にならないほどだったとはいえ、当時のことだ。列車や船、あるいは、ホテルの予約などはできず(ホテルも少なかったろう)、自分が行ったところ、居るところでの、出たところ勝負で、全く予測も見当もつかないことであっても、自分で何事にも対処していかねばならなかった。
アンデルセンは、作家としての成功により、国家から生涯に渡る年金を与えられていて、働く必要はなかったが、大した額の年金ではなく、また、その他の収入はほぼなかったと思われる。作品は書き続けたが、印税があった訳ではなく、作品での収入は、出版社に作品を渡した時に得られる、これも大したことのない原稿料だけだったはずだ。
また、作家としてそれなりに名が売れていたとはいえ、顔など全く知られておらず、名声が旅の便宜をもたらしたということはなかっただろう。
旅には、今では想像もできないような、見込み違い、トラブル、場合によっては盗難、窃盗の被害もあったかもしれず、それなりの年齢だったアンデルセンは、体調の悪い日もあったに違いない。

ところが、アンデルセンの自伝を読むと、旅をするようになってからのあたりを見ても、そんな旅の苦労は全く書かれておらず、旅の途中で見た風景の美しさ、イタリアの神殿で出会った盲目の貧しい少女の女神のような美しさといったことを夢のように語り、また、特筆すべきこと、例えば、グリム兄弟に会い、最初は、「君の名前は知らない」と言われ、相手にされなかったが、後に歓談できたこと等が書かれている。つまり、読者にとってどうでもいい、個人のすったもんだには触れず、有意義なこと、明るいことばかりが綴られているのだ。
アンデルセンは神の加護を信じていたはずだ。
14歳のか弱い、世間知らずの少年の時、単身、オーデンセの田舎から、大都市コペンハーゲンに出てきて、右も左も分からない中、苦難もあったが、なんとかやってこれたのは、間違いなく、神のおかげと思っていたようである。
そして、文学者として認められるようになった、円熟してきた頃には、アンデルセンの、あらゆることに対する受容性は、とても高くなっていたのだろう。

アンデルセンの自伝を読んでいると、人間というものは親切さを持っているのだと信じられる。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』の著者ベアード.T.スポールディングは、アメリカ中を講演旅行をしていた時、どの町のどの家でもずけずけ入っていき、腰を降ろせば、そこで食事ができなかった家は一軒もなかったという。
『レ・ミゼラブル』で、ジャンバルジャンは刑務所を出たが、どこでも野良犬のように扱われ、1日中歩き続けて、寒さと空腹に疲れ、たまたまたどり着いたミリエル司教の家で、自暴自棄になって、自分が刑務所を出てきたばかりであることや、世間への恨みつらみを吐き出したが、ミリエルは平然として、召使いに、ただ、食事を1人分追加し、客人用の寝室の用意をするよう命じ、召使いも、何事もないように指示に従った。

太古の、人間にまだ徳が満ち、知恵があった時代は、ミリエルがしたようなことがごく自然なことだったに違いないと私は思う。
鍵なんてものは存在せず、家の戸口はいつも開かれ、誰でも、どの家でも自由に入れ、やって来る者は誰でも、いつでも、間違いなく歓迎された。
本当は、内に神が住み、あるいは、仏といつも一緒である人間が、本当は、そうでないはずがない。
もし、アダムスキーの宇宙人の話が本当であれば、進歩した他の惑星ではそうなっているのである。あの話がアダムスキーの想像であったとしても、それは、神がアダムスキーに与えたインスピレーションによるものなのだろう。
私もまた、ミリエルのようにあることが絶対に不可能だとは限らない。
つまり、一切の憎しみや嫌悪を捨て、何も心配や不安を持たないことが、必ずしも不可能とは言えないのである。









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限りなく自由になってしまう不思議な方法

人間は、あらゆる執着を捨て去れば無になれるだろう。
そして、無になれば不可能はなくなる。
無限者と共に逍遥(しょうよう。気ままにあちこちを歩き回ること)し、全く自由だ。
そうあるために不要なものは、記憶と、何かになろうという願望だ。
記憶は我々を制限し、硬く、小さく、鈍くする。
何かになろうとすると、幻想の未来に生きるようになってしまい、大切な今を失う。

執着を捨てるには、自分を初めて見る人のように見ることだ。
自分は、全く知らない人なのだ。
そう見なすことは難しくはないし、不自然ではない。
その理由を説明する。

自分で自分が誰だか分からない。
初めて見る人なのだから当然だ。

自分は、一流大学の卒業生かもしれないし、小学校も出ていないかもしれない。
初めて見る人なのだから、分からなくて当然だ。
でも、どっちもそんなに変わらない。

自分は、大会社の社長かもしれないし、ずっと浮浪者なのかもしれない。
初めて見る人なのだから、分かるはずがない。
でも、どっちもそんなに変わらない。

自分は、聖人君子と讃えられる立派な人かもしれないし、忌み嫌われる(ひどくいやがられる)極悪人かもしれない。
初めて見る人なのだから、分かったもんじゃない。
でも、どっちもそんなに変わらない。

自分は、二十歳の若者かもしれないし、とおに60歳を超えているのかもしれない。
そんなこと分からないのだ。
だって、どっちもそんなに変わらないのだから。

初音ミク主演のオペラ『THE END』の最終幕である『終わりのアリア』で、初音ミクはこう歌う。

死んでるように見える?
それとも眠っていると思う?
それはあなたが決めればいい
どっちもそんなに変わらない
~渋谷慶一郎制作オペラ『THE END』の『終わりのアリア』より~

生きてるのも死んでるのも、それほど変わらないのだ。
実際、太古の人は、生と死を区別していなかった。
いや、区別を知らなかったのだ。

それならば、自分が何であっても、驚くようなことではないし、本当のところ、自分は何でもないのだ。
自分が何でもないことを受け入れること・・・
それが無である。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・ソフトウェア開発技術者
・サイコパス
・初音ミクさんを愛す


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