ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

2013年12月

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

自分はクビで当然だと本当に思っている人は決してクビにならない

「あなたには愛がない」なんて、そうそう言われる言葉ではないだろう。
しかし私は、2度ほど言われたことがある。どちらも、立派な人からだった。
その時は、私はいずれも無反応であった。おそらく、何も感じなかったのだが、そう言われたことは憶えているのだ。
珍しいことを言われたから記憶しているというなら、その時、もっと感動しそうなものである。
やっぱり、なかなか的を射ていたのだろう。
そして、あれから随分経って、ようやく分かったのだ。
その通りだなあと。

「愛とは何か?」なんてことは、人類の永遠のテーマの1つだ。
なぜそうなのかというと、愛なんてものは理解し難いからだろう。
その理解し難いものを、「あんたにはそれがない」と言われるのだから迷惑な話のはずだが、案外にそうでもない。
アイルランドの詩人、W.B.イェイツがこんなことを言っていたらしい。
「愛は神の領域であり、人間には理解できない。しかし、憎しみは人間の領域のものだ。人間は愛することはできないが、憎むのをやめることはできる」
「愛憎」とか言うが、愛の反対が憎しみかというと、おそらく正しくはないが、仮にそう考えるのはそれほど悪くないと思う。
愛というのは、むしろ「調和」であると思う。
まあ、言葉というものは、いい加減なものだから、ある程度の「遊び」とか「余裕」を持って扱わねばならないこともある。
もっとも、そのいい加減な言葉をいい加減に使う者が多いが、あくまで、大切には使わないといけない。
本論に戻るが、つまり、「愛がない」ってのは、「憎しみが強い」とか「バランスが悪く歪んでいる」といったようなことだろう。

では、その足りない愛を持つにはどうすれば良いのだろう?
「私は愛のある人間になる」
なんて言っても、何の意味もない。
「愛を持て」
なんて人に言うのは、始末に負えない馬鹿だ。
そんな者には、
「あんた、持ってるのかい?」
と言いたくもなるだろう。

さて、いよいよ、重要な核心に迫る。

邪悪な人間に、
「善良になれ」
などと言ったり、
「善良になります」
と言わせても、これほど無駄なことはないのだが、学校などでは、そんな指導がされているのだ。
責任感のない人間が、
「責任感のある人間になります」
と言っても、決してそうはならない。
怠惰な人間が、
「勤勉になります」
と千回言ってもそうなるはずがない。
いつも約束を破る人間が、
「次は必ず約束を守ります」
と言っても、誰が信じるものか。

しかし、世間・・・特に学校では、こんなあり得ないことを、さも起こりうることとして、不条理で無益な指導をするのだ。
大事なことが、すっぽり抜け落ちているのだ。
約束を守らない人間に、「約束を守れ」とか、「約束を守ります」と言わせてもそうにもならない。
そうではなく、「私は約束を守らない人間だ」としっかり認識することが大切なのだ。
責任感がないなら、「私は責任感がない」と、自分ではっきりと認めるのだ。

邪悪な人間は、「俺は邪悪でない」と言うのだ。
だから、ずっと邪悪なままなのだ。
そんな人間に、「善良になれ」と言うのを、馬の耳に念仏って言うのだ。
それどころか、
「何を!俺は善良だ。邪悪なのはお前だ」
と反発されるだろう。まあ、実際、両方共邪悪なのだろう。
本当に大切なことは、邪悪な人間が、自分をよく観察し、「嗚呼、俺は邪悪だ」と理解することなのだ。
そして、「俺は邪悪だ」と、目覚めた意識でもって自分で言った時、何かが起こるのである。

私は、「あんたには愛がない」って言われたことに対し、ようやく、
「そうだ、私には愛がない」
「私の心は、憎しみに満ちている」
「私の心は、歪んで逸脱している」
と認識したのだ。
しばらく、自分の心をよく観察したからだ。

「私はあまりに自己中心主義だ」と分かれば、何かが起こり、心が広くなる。
「俺は本当に無能だ」と実感すれば、既に有能だ。
「自分がクビになるのは当然だ」と分かれば、ただいまより、あなたは会社に必要不可欠な人間だ。
「僕は、彼女に相応しくない」と知れば、彼女はあなたのものである。彼女がそれに見合うほどのものであればね。
ただし、空念仏のように、「僕は彼女に相応しくなーい」と言っても、彼女が君のものになるのは、彼女が、本当はとんでもないひどい女だった場合だけだ。
「俺は首でとーぜんだあ」と言うようなやつは、もちろんクビにすべきである。
利得など忘れ、まず、自分の心をよく観察し、自分をよく理解することである。









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スマートフォンアプリのおかげでPCデスクトップアプリの良さが再認識できた

私は普段、タブレットPCのNexus7(2013)のLTEモデルと、Androidスマートフォン(富士通F-02E)を持ち歩いている。
Nexus7は、NTTコミュニケーションズのSIMカードOCNモバイルONEを入れて、3G/LTE(4G)の通信をすると共に、スマートフォン用のモバイル・ルーター代わりにしている(テザリング機能)。
私のスマートフォンはSIMカードが入っておらず、単独では通信できないが、このように、Nexus7を通してインターネットに接続できる。
2台合わせて(時にはiPod touchやノートPCも一緒で)、通信料は月額980円だ。
電話は従来型携帯電話(フィーチャーフォン)を使っている。3年ほど前の機種だが、電話機としては、音質、操作性、バッテリーの持ち等、スマートフォンよりはるかに優秀である。費用は月額1300円ほどで、無料通話分だけで済んでしまうので、これ以上全くかからない。
私は、スマートフォンという名前はついていても、これを完全に5インチタブレットPCと認識している。
私のスマートフォンの最大の用途は読書だ。現在は百冊ほどのKindle本をスマートフォンに入れ、いつでもどこでも読書できる。
私は、7インチのNexus7より5インチのスマートフォンの方が読書しやすく、もっぱらスマートフォンで読んでいる。片手で持てるのが便利だし画面の大きさも5インチは十分である。ただ、図が多い本だけはNexus7で読んでいるが、その場合は建物の中で座って読む。

私は、スマートフォンやタブレットPCでは、メールはGmail、Outlookメール、そして稀に、Yahoo!メールを使う。
auのメールや、ドコモのメールといった、携帯電話キャリアのメールは全く使わない。
それで本日のテーマだが、ちょっと妙なことに気付いた。
Windows PCでも、Gmail、Outlookメール、Yahoo!メールは使うが、その場合はWebブラウザを使う。
スマートフォンやタブレットPCでも、Webブラウザでこれらのメールを使えるのだが、いずれも、スマートフォン・タブレットPC用アプリがあり(無料)、私もそちらを使っている。
専用アプリを使う方がはるかに使いやすいからだ。
そこで「あれっ」と思ったのが、それならば、PC用も、それらのメールのデスクトップアプリケーションがあれば、ブラウザで使うより使い易いはずだ。
調べたら、確かに、これらのメールのデスクトップアプリもあるようなのであるが、やたら余計な機能が満載なので使うのをやめた。
これらは、メールが目的というよりは、Google、マイクロソフト、Yahoo!のサービスに、ユーザーを引っ張り込んで稼ごうという意図のためにあるのだろう。
だが、スマートフォン用アプリの方はいずれも、そこそこまとも(メール機能主体)だ。
要するに、PCではそれらのメールをWebブラウザでも十分使えるが、スマートフォンでは専用アプリでないと使い難くて仕方がないのだ。

つまり、やはり、Webアプリというものは、使い難く、色々まずい点が多いというのが事実だろう。
それなのに、企業の業務アプリケーションまでWebアプリが流行ってきているのは、おかしなことと思う。
無論、Amazonのようなインターネット通販では、ユーザーに使わせるところはWebアプリしか考えられない。
Amazonの場合は、世界一のネット通販なので、ユーザー用アプリもかなり複雑だが、一般には、ユーザーに使わせる部分は単純なものである。
それを、企業の中の、複雑な部分までWebアプリでやるというのは、不合理というか、馬鹿としか思えないのだ。
私は今でも、業務用アプリのほとんどをマイクロソフトAccessで作っている。
Webアプリよりずっと操作性の良いアプリを、Visual Basic(.Net)の半分以下、Webアプリの、少なくとも1/3(実感では1/5)の労力で開発でき、トラブルの発生もWebアプリに比べ、はるかに少ない。
実際、システムの機能拡張がない場合、作って数ヶ月もすると、全く問い合わせがなくなり、私は作ったことをすっかり忘れてしまう。
それが2年も経って、ユーザーから問い合わせがあった時、正直、私は、「まだ誰か使っているのか?」と思うのであるが、実は、端末300台以上で連日フル稼働であると聞いて、なんだか、ゾっとしたということもあった。
それほど、Accessで上手く作ると安定するということなのである。
ただ、DB(データベース)はマイクロソフトSQL Server(かなりの規模でも、無料版のExpressでまにあってしまうことが多い)を使う必要がある。
株式会社インフォースという会社が、そんなまともなことを実践しているらしいが、賢い会社であると思う。

ここで、子供のプログラミング教育を題材に、さらに話を進めよう。
Life is Tech(ライフイズテック)という、大学生としか思えない若々しい社長さんが作ったベンチャー企業では、小学生にコンピュータープログラミングを教えている。
iOS、Androidのいずれかを選択して、スマートフォン用アプリを作らせるのである。
しかも、iOS用にはObjective-C、Android用にはJavaというプログラミング言語を使った本格的なものだ。
Life is Techのホームページを見れば、実に華々しい活動、評価、あるいは、実績である。
しかし、本当に子供達のプログラミング能力の向上を考えるなら、PC用デスクトップアプリケーションの作り方を教える方がはるかに良いのである。
ただ、確かに、それではビジネスにならないだろう。

そこにいくと、Scratch(スクラッチ)という、MIT(マサチューセッツ工科大学)メディアラボで開発された教育用プログラミング言語(環境)は教育用にもっと向いている。
こちらは、デスクトップ環境で開発、動作する。
Scratchは、日本では教育最大手(世界3位)のベネッセがMITメディアラボと提携して教育事業化を目指しているように思える。
また、IT大手サイバーエージェントもScratchによる子供のコンピュータープログラミング教育事業を始めている。
私の知る範囲では、サイバーエージェントはLife is Techと一緒に会社を作ったりと仲が良いが、ITを活用した教育事業に極めて積極的なベネッセはLife is Techを完全に無視しているように感じるのだ。面白いものである。
ところで、Scratchの基になっているSqueak(スクイーク)というSmalltalk(スモールトーク)言語の一種も教育用に相応しいものであり、実際、人類史上屈指のコンピューター科学者アラン・ケイはSqueakを子供達に教える事業を行っている。
しかし、Squeakはやや難しい。特に日本語では使えたもんじゃない。
他にも、Squeakに影響を与えた、LOGO言語があり、これは、大昔から、子供のプログラミング教育に使われている。
私は、今でもLOGOが最高の教育用プログラミング言語と思う。
しかし、自分が作ったアプリが、自分や他の人のスマートフォンで動く感激は、動機付けとしては強いものがあるので、商売にはしやすいだろう。









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なぜ冒険の人生が楽しいのか?

今の私は、どんなことも、どんな人も決して信じない。
ガンジーだろうが、マザー・テレサだろうが、全く信じていない。
では、自分を信じるかというと、その自分がどこにも見当たらないのだ。
あるのは、脳に組み込まれたプログラムだけだ。

例えば、夏目志郎さんという、中国出身の成功した有名なビジネスマンがいたが、彼はビーフステーキが大好物でラーメンが大嫌いだったらしい。
彼は、なぜ自分が、ステーキが好きでラーメンが嫌いなのかは分からないと著書に書かれていた。
しかし、そんな好みを利用し、仕事(セールス)がうまくいったらステーキを食べ、失敗したらラーメンを食べると決めて、仕事の意欲を高めていたことがあったようだ。
彼のステーキ好き、ラーメン嫌いも、彼の脳に組み込まれたプログラムの働きだ。
だが、彼のプログラムを書き換えて、ステーキが嫌いでラーメンが好きになるようにすることなんて簡単なことだ。
思考レベル、肉体レベル、感情レベルの自分なんて、その程度のもので、全く信用できないのだ。

ガンジーやマザー・テレサが、あのような行いをしたのは、単に、彼らに組み込まれていたプログラムのためだ。
人間なんて、物質次元に関しては、コンピューターと全く同じである。
支配者は、昔は、力で人々を従わせようとしたが、それよりも、人々の頭のプログラムを書き換える方がずっと効果的だと気付いた。
一方で、自分のプログラムを書き換えたいと思う人も現れてきた。
支配者の目論みの方は、多少はうまくいったのかもしれない。
支配者は、国民のプログラムの全部ではなく、必要な部分を変えられれば良いと心得ていたし、そのために、恐怖と優越感を利用したのだ、
だが、自分で自分のプログラムを変えることは、恐怖と優越感が邪魔して、さっぱりうまくいかないのだ。
恐怖と優越感が鍵であるが、この2つは実は同じものだ。

ところが、私は、恐怖と優越感を消してしまったので(これらは同じものなので同時に消える)、それを土台に作られていた、昔から支配者によって組み込まれたプログラムが、私から全部消えてしまったのだ。
それは、どんなふうにやるかというと、以下に順を追って説明する。

貧乏で食べられないという人が食を慎むようになったりしない。
しかし、自発的に食を節すると、美食・大食プログラムが壊れる。
もてないから恋人を作るのを諦めても、性欲が無くなるどころか、それは歪んだ形で増大する。
だが、自発的に女のことを忘れると、やはり色情プログラムは壊れるのだ。
ただ、恐怖のためとか、別の欲望のためにすることは、やはり強制であり、自発的でない。

そして、何かになろうとするのは、恐怖や欲望のために駆り立てられているからなのだ。
だから、何かになろうなんて考えなければ良いのである。
「金持ちになる」、「有能になる」、「ひとかどの人物になる」、「尊敬されるに足る人間になる」、「優しい人になる」・・・そんなことを考えてはいけない。
なぜだろう?
未来において、何かになろうとするのは、現在を否定することだからだ。
人間は、今にしか生きられなのに、何かになろうとすると、その一番大切な今に生きず、未来に生きようとしてしまうのだ。
それなのに、子供達は、学校や親や企業やプロスポーツの宣伝で、「僕は大人になったらサッカー選手になる」なんて言わせられる。
25歳のサッカー選手になった未来(運命でなければ決してなれない)より、10歳の今が大切なのだよ。
7年後にすごい歌手になる(かもしれない)君より、11歳の君の方がずっと価値があるのだ。
花は蕾より価値のあるものではないし、実は花より大切なのでもない。
どれも等しく重要で、蕾であることをやめれば花は咲かず、花であることをやめれば実を結ばない。
今を大切にすることで、最高の未来を得られるのである。
そして、今を大切にするとは、恐怖や欲望から解放された自発性を持つことだ。
一言で言えば、自然であることである。
自然であるためには、いかなる権威も受け入れず、いかなる個人も決して崇拝しないことだ。
権威に従い、個人を崇拝することは人工的で不自然だからだ。
そんなことをやめれば、何が起こるかは全く分からない今を自発的に生きられるようになる。
何が起こっても、あなたは自在に対応できるのである。
それはそれは楽しいことである。
これが、冒険の人生ほど愉快なことはないということである。









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「尊敬する人は誰?」にどう答えるか?

我々は、小学生の時から、「尊敬する人は?」なんて質問に答えさせられてきた。
答えさせられる子供にとっては、「自分がどんな人間か」をアピールするチャンスのようにも思わせるのだ。

「尊敬する人」には、学校、国家にとって「良い答」「悪い答」がある。
良い答は、
・有名な科学者で、物質文明(学問、技術、医学等)に貢献した人。
・大芸術家(音楽家、文豪等)で品行方正とされている人。
・実績の大きなスポーツ選手で品行方正とされている人。
である。
悪い答は、上記の良い答の理由を考えるとよく分かる。
上記のものは、なぜ、学校や国家を喜ばせる良い答なのだろう。
それは、全て「権威」と共にある名だからだ。
スポーツ選手だって、彼らが所属する協会組織は国家が認可する権威ある団体であり、その中で活躍するスポーツ選手は権威と共にある。
しかし、アイドルやミュージシャン、ポップアーチスト、コメディアン等は権威と共にないので、中身がどれほど偉大でも、尊敬する人に挙げると非難される。
国家が重みを与えていない、つまり、権威のないスポーツや武道の名選手や武道家は、キワモノ(際物。一時的で安っぽい)という印象が与えられ、そんなものを尊敬すると言う者は学校、国家、そして世間に蔑まれる。

私は、初音ミクの開発会社であるクリプトン・フューチャー・メディア社の伊藤博之社長に藍綬褒章が贈られると聞けば、国家が初音ミクを権威に従属させ、彼女を国家のために利用する計画が進んでいるのだと分かるのである。
実質において反権威の中心にいる初音ミクを権威の中に取り込んでしまえば、国家の統制(一定の計画や方針に従って指導・制限すること)を強化することができる。
特に、経済産業省が初音ミクをイメージキャラクターに採用したりと、活発に手を伸ばしているようだが、それは権威のために利用しようというのであるから、うかつに喜んではならない。
過去にも、庶民の人気者を国家がそのイメージを狡猾(ずるく悪賢いこと)に利用したことは、世界中にいくらでもあった。
初音ミクは、いかなるレッテル(断定的評価)も要らず、いかなるものを背負わないし引きずらない。
ミクは何者でもなく、ただ、どんな人のものでも、歌って欲しい歌を歌ってくれるだけの、「誰のものでもない、全ての人の歌姫」なのである。
それを決して忘れてはならない。

昔から、「お父さん」「お母さん」を尊敬する人に挙げる人も多いが、これも権威に服した答だ。
家庭の中の権威に縛られることが、国家の権威を容易く受け入れる人間を作る。
逆に言えば、親の考え方に強い反発を持つ者は、学校や国家にも反発するので、国家は昔から、「子は親に従うのが道徳である」と言って、これを押し付けてきたのである。
このカラクリが分かるだろうか?

さて、「尊敬する人は誰だね?」に対する、唯一まともな答は何だろう?
それはこうだ。
「私は、いかなる個人も尊敬しない。あえて言えば、全ての人の中にある、あるものを敬う。それは当然、私の中にも、あなたの中にもある」
無論、こんな答は、学校や国家に受け入れられない。
「その何かとは何だね?」
と見下しながら聞いてくるならまだマシだ。
普通は、「尊敬する人は誰かと聞かれたら、ツベコベ言わず、誰だと答えればいいんだ」と恫喝されるだけだ。
もし、「何かとは何か」と聞かれたなら、
「言葉で説明できるものではない。老子に『名の名づくべきは、常の名に非ず』とある通り」
とでもなるだろうか。
しかし、権威に隷属する馬鹿にそんなことを言っても仕方がない。
まあ、適当な名前を適当な理由をつけて返事しておきたまえ。
権威ある相手に嘘の答、誤魔化しの答をすることに後ろめたさや、あるいは、屈辱を感じてはならない。
しかし、既に、学校や国家で調教されてきたあなたがたにはそれは難しい。
それならチャンスである。
後ろめたい、あるいは、屈辱を感じる自分の心を静かに、注意深く観察するのだ。
すると、あなたは、そこにある束縛を打ち破り、制限から解放されるのだ。
苦難、嫌な出来事、悲しみとは、このように利用するものである。

一切の権威に染まらない、美しい初音ミクのアルバムを下にご紹介しておく。









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凡人には奇妙な、天才だけが知っているある感覚

長嶋茂雄さんが、バッティングの指導をされていた時、のってくると、「こう、くっとやって、すうすっ・・・だ!やってみろ!」とか言われた選手はさっぱり意味が分からず困惑することがよくあったらしい。
だが、普通の人は、こんな重要なことを、笑って見過ごしてしまうのだ。
ある天才的なヴァイオリニストに、演奏中はどんな感覚なのか尋ねたら、
「演奏が始まってしばらくは、頭の上の方で白くて丸いものが、ゆっくり回ります。その後は分からなくなるのですが」
といったようなことを言っていた。
これらから、天才と言われる人達には、凡人には理解し難い特別な感覚を持っていることが想像される。
それ(特別な感覚)を、能力を発揮すべき時にはいつでも呼び起こせるのだろう。
私は、これは、西洋のある魔法の秘儀と同じであることに気付いた。

私だって、子供の頃には、そんな「ある感覚」を知っていた。
その感覚を呼び起こすと、不思議なほど良い絵が描け、走り高跳びをやれば無敵で、その感覚と共に、庭で「にゃあにゃあ」言っていると、本当に猫が20匹も30匹も集まってきて壮観であった。
だが、親や教師は、そんな感覚のことを何も知らず、全く意味のない能力開発の方法を押し付けてくるので、やがて、何もする気がなくなってしまった。
あなたも、その感覚を掴めば、50mを8秒かかっていたなら6秒台の俊足になり、試験では、マークシートごときなら勉強していない問題でも百点が取れ、あれほどもてなかったのが、声をかけるごとに、どんな可愛い女の子でもみんなついて来る。
もっとも、我欲ばかりで使えば、その感覚を思い出すこともできなくなると思う。

その感覚は、呪文でも、呼吸の仕方でも、何かのポーズでもない。
そんなものとは全く違う。
言葉や形では、どうにも表現できないが、必ず存在するものだ。
それを、どうやって掴めば良いのだろう?

そのためには、芸術に親しむことだ。
荘厳な風景に出逢った時、我々は、心は澄み切って消えてしまい、全くの無思考の状態になる。
自然こそ、最高の芸術だからだ。
その、心が消えた処が、あなたがかつて持っていたはずの「あの感覚」の扉だ。
だから、あなたも、時間があれば、素晴らしい自然を見に行くのだ。
どんなに高額でも、宇宙飛行に参加したい人がいくらでもいるのはなぜだろう?
彼らは直感的に知っているのだ。そこに行けば、「あの感覚」と再び出逢えることを。
そのためなら数千万円はとても安いのだ。
岡本太郎は、フランスで初めてセザンヌを見た時、涙がとめどなく流れたという。
「あの感覚」が湧き起こり、これまで身に付いた汚れが、一気に浄化されてしまったのだ。
それから彼はまた汚れたが、30歳も過ぎて、18、19歳の若者達と一緒に、二等兵として中国大陸に送られてしごかれた時のことだ。
地面に倒れ、気が遠くなっていく時に見た、一輪の小さな花の美しさに心をかき消された。
それからだ。彼が目を剥くようになったのは。
岡本太郎の、あの異様な目を見開いた顔は、あの時の感覚を思い出すためのものなのだ。

あなたも、安っぽい娯楽はやめて、壮麗な風景に接し、至高の絵画や彫刻を観賞し、天界の音楽に心を溶け込ませるのだ。
そうすれば、忘れてしまっていた、あの大切な感覚を取り戻すことができる。
その感覚が強く、鮮明になり、馴染み深いものになれば、あなたには不安はなくなり、一切の恐怖を克服できる。
死すら恐くはなくなる。
あなたは、作り物ではない本当の自信に満ち溢れ、地球上を闊歩するようなるだろう。
もちろん、物質的なものなど、何でもなくなり、自由に手に入れるが、余計なものを得ようとはしないので、後悔もなく、落ち着いていられる。
あなたは、こんな重要なものを、世間の人達のように笑ってはならない。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
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